「フィーのこと、……フィーだったこと覚えてるの?」
アクアがまっすぐ、濡れた目をネイチャー様に向けていた。声はまだ震えているが、泣き声ではなくなっている。
「気づきましたか」
「だって通信鏡なんてほとんど使ってないのに、書斎にあるって。それに、おれがずっとフィーといたこと、知ってるでしょう?」
見上げるアクアに、ネイチャー様は静かに微笑みかけた。
「ええ。わたしは前のフィル・ネイチャーの記憶を覗くことができます」
「!」
あたしはつい期待した。グロウがそれを、もっと冷静な言葉に変えて問う。
「やったら、フィーが封印されたときのことも分かるがですか?」
ネイチャー様はその問いに目を伏せる。答えはそれだけで分かった。
「彼女はその直前に大切な子と引き離され、ひどく混乱していましたから。その先はもう、封印の中。次に目を覚ますのは、彼のおかげで封印の陣が緩んでからです」
「そっか。フィーが覚えてないことはネイチャー様にもわからないんだね……」
落胆するあたしたちに対し、アクアはなにか、確証に近づいたみたいな顔をしていた。ひとつしかない目を見て、尋ねる。
「覗くことができる、って? フィーと同じ記憶があるのとは違うの?」
「どういうこと?」
アクアの言っていることが、あたしにはよくわからない。ネイチャー様が今度は深くうなずいた。
「その通りです。わたしには前フィル・ネイチャーの記憶を覗くことができる。必要最低限はすでに見てしまいましたが、覗き見ないことも可能です。そして、見ないままに破棄することも」
なんでそんなこと、と言うより先にネイチャー様が続けた。
「何もかも覚えていては、生きてあり続けることに支障を来すのですよ。良いことでも悪いことでも、覚えている方がいいとは限らないのです。アクア、」
名前を呼ばれてアクアがびくっと身を竦める。それでも視線はあわせたままだ。
「前フィル・ネイチャーは、その前までの記憶を放棄しています。わたしが引き継ぎ可能なのはあなたのフィーの記憶のみです。フィーがいない今、この記憶について権限を持つべきなのはあなただけ。――これをすべてわたしのものにするか、破棄するか、選択はあなたに委ねましょう」
その一言で、あたしたちは一気に事態から締め出された。精霊とフィル・ネイチャーの対話は終わり、アクアとフィーの完全な別れが始まる。
別れになるのは目に見えていた。アクアの表情に迷いはなくて、痛みと、それを受け入れる悲しみだけがあった。
流れるに任せていた涙を、震えなくなった手がようやっと拭う。躊躇うように唇を舐めて、短く息をつく。膝の上に両手を握り、アクアはひとつ選んだ。
「フィーはもういないから……あなたがフィーじゃないなら、覚えてなくて、いい」
「ではそのように」
短い答えのあとに、揺らぐような魔力の気配。全部が終わって、アクアがまたうずくまりそうになる。
あたしは思わず駆け寄って、顔を覆いかけた手をつかんだ。冷たい。
「アクア」
「っ、ルビィ?」
ネイチャー様が一歩下がって場所をくれる。すがるようなアクアの目に、なんと言おうかすこし迷う。
「……がんばったね」
「ん」
結局出てきたのはそんな簡単な言葉だった。力の抜けきった手を引いて立たせる。その時、
「ルビィ!」
かくん、と足下から力が抜けた。アクアが支えてくれようとするが、間に合わなくて草の上にへたりこんでしまう。
「あ、あれ? なんでかな」
自分の声が他人のものみたいに響く。体の感覚がふわふわとぼやける。足と背中が一気に涼しくなる。
「ルビィ、ルビィ!」
「落ち着き。あっ、ゴッド、もっぺん通信――」
声は聞こえる。聞こえてるのに返事ができない。目の前が暗くなる。目を閉じたのか、光が消えたのか。
「かなり魔力を消耗したようですね。それに怪我の手当も――」
魔力……そんなに消耗したっけなあ……。そう、言えたのかどうかわからなかった。