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圧倒的だった。フィル・ネイチャーの魔力を前に、アクア以外誰もが言葉をなくして、しんと立ち尽くす。
世界のあり方を維持してきたちからが、フィル・ネイチャーという輪郭を失って辺り一面に満ちる。アクアがそれを拒むように、ぼろぼろに泣いてフィーの手にすがる。
あたしはふと、アルサとの別れを思い出していた。こうしたら絶対、二度と会えなくなってしまう。そうとわかっているのにアルサはなにか、あたしにはわからないやるべきことを選んだ。
フィーも同じように、いま、世界の重大さなんてわかりたくもないアクアを置いて、選んだのだった。
それ以上、言葉が交わされたかどうか、あたしたちには判然としない。けれど最後にフィーは笑んで、アクアは泣いて、――その一瞬、緑色の輝きがひときわ深みを増してフィーの姿を覆い尽くす。
「――――っ!」
手のなかにあったものを失って、アクアが弾かれたように腕を伸ばす。
「フィー! フィー!」
名前を呼ぶ声は、まるでそういう鳴き声であるかのようだった。傷が痛くて泣いているみたいな声だった。
疲弊していく呼び声とは関係なく、光は広がったときより素早く、なにも掴めずにいる腕の中に集う。そうしてフィーよりずいぶん小さな輪郭となって、
「…………」
目を開けた。
誰もなにも言えなかった。泣き続けるアクアさえ、発する言葉もなくその姿を見つめる。
フィーのいた場所に、フィーのいたように、小さな子供が立っていた。アサナギやユウナギよりも背が低い。結んだ髪は、瞳と同じ緑色。
その前髪で右目は隠れていた。左目一つがちょうど、膝をついたアクアの視線の高さで、静かにまたたかれる。
フィー? と問おうとしたのだろう。アクアが浅く息を吸う。それを目にした子供は、アクアに先んじて小さな唇を開いた。
「はじめまして。わたしが、これからのフィル・ネイチャーです」
幼い女の子の声。けれどその声色は穏やかで、いっそフィーよりも大人びている。
なんとなく察しはついていた。フィーが死んでも世界は大丈夫だということ。それよりも封印の中で、世界と隔てられているほうがいけないということ。
――あの子供が、フィーに代わってフィル・ネイチャーとして存在し、世界は維持される。そして彼女がフィーを名乗らないということは。
「フィー、は……?」
アクアが泣いてかすれた声で聞く。フィル・ネイチャーは目を伏せて横に首を振る。もしかしたら、なんて希望が消え去って、息を詰めるアクアの頬に、幼い指先が触れた。
「あなたのフィーなら、ここに」
「え……?」
丸みのある指は、同じ場所へと伸ばされたアクアの手をなぞり、それから胸元を指し示す。
「それだけは確かに、わたしではなくて、彼女なのですよ」
その意味は、直接力移しを受けたアクアにはすぐにわかっただろう。もういない人にすがるように肩を抱いて、アクアは声を上げて泣いた。
うずくまってしまったアクアを、新しいネイチャー様が労るように見つめる。谷風が顔を隠す前髪をふわりと持ち上げる。
右目があるはずの場所に瞳はなく、ただ少女の新しい肌だけがあった。眼窩すらないその場所は、まるでそこにあるべきものを拒んでいるかのようだった。
「魔法をかけた人がいないので、そろそろ目覚めますよ」
ゆるりと、ネイチャー様が振り返った。その視線を受けて、グロウがはっと、足下でぐったりとするハノルスを見下ろす。
「城へ通報……」
「騎士団は使えねえぞ」
「分かっちゅう。けど引き渡さんことにはどもならんろ」
止まっていた時間が動き出すみたいに、グロウとゴッドは事態の後始末の話を始めていた。
「通信鏡ならあちらの家の書斎にあります。こんなところで鍵もありませんので、どうぞ」
ネイチャー様がずっと後ろ、あたしたちが駆け抜けてきた庭園を指さす。赤茶の屋根の、小さな家。アクアが立ち止まろうとした、きっとフィーと二人で暮らした場所。いまのアクアはそちらを振り向くこともできずにいた。
グロウが無言のうちにハノルスの真横を代わり、ゴッドがその家へと走る。
アクアの時間だけが止まっていた。その姿に、あたしはやっぱり、アルサとの別れを思い出す。
あのときあたしは、アルサの言葉をがむしゃらに弾いて、決めたんだ。好きなもの全部守る。アルサが無理ならあたしがやってみせる。この強い魔法はそのためにある。
どこかに覚悟はあることだった。アルサが普通の人じゃないことをあたしは知っていたし、あたしには本当の家族も帰る場所もあった。泣いたりもしなかった。
いまのアクアとは全然違う。だけどアクアを見てたら、いっぱいいっぱいだったあの時よりも泣きそうになるのはなんでだろう。ネイチャー様が言ったように、魔法をかけた人がもういないからだろうか。
けれど、誰がいてもいなくても、世界はちゃんと必要なものを抱えて動いていく。
「説明をしましょう」
とネイチャー様が言った。
「死に変わりについて、今の人はほとんどご存じないでしょう」
「死に変わり?」
ハノルスを見張る顔を上げて、グロウが初めて聞く言葉を繰り返す。ええ、とネイチャー様が答える。
「フィル・ネイチャーを維持する仕組みです。フィル・ネイチャーは個人の名前でもあり、魔界を維持する存在の名称でもある。こちらは聞いたこともあるでしょうか」
こっくりと、あたしとグロウがうなずく。ふと思い出してユールの方を見やると、変わらずぼーっと立っているだけだった。
「フィル・ネイチャーは膨大な魔力を持ちます。こうして髪の色にまで表れるほど。そしてその魔力は、ほとんどが魔界へと注がれているのです。それにより、放っておけば『おしまい』へ流れていこうとするのを防いで、現在の姿をつなぎ止めているのです。魔法は変化に対抗する唯一の術。魔法のない人間界だけが激しい変化の波に洗われているのは、このような仕組みを持たないためです」
魔界にはフィル・ネイチャーが必要で、精霊は魔界を守るもの。それぐらいしか知らなかった。こんな、世界の仕組みなんて。
説明はなでるように浅く、次々と疑問もわくけれど、ネイチャー様は話を先へと進める。
「フィル・ネイチャーとはいわば、魔界を維持するための魔力の入れ物。存在するだけでいい、けれど何が何でも存在していなくてはならない。安定性を求め、また、自らの性質が共同生活に馴染まないため、世間とは距離を置いて過ごすのが通例でした。これはあなた方精霊にも言えることですが、大きな魔力を持つからだは自然と変化への抵抗を得ます。フィル・ネイチャーともなると、普通に暮らすにはあまりにも老いなさすぎるのです」
アクアがどうやってフィーのもとへ来たのかはわからないけれど、本当の二人きりで過ごしていた理由はそういうことだった。そしてその割に魔法陣には詳しかったのも、フィーが見た目以上に長く生きていたと考えれば説明がつく。
「それでもいつかは終わりが訪れます。自然なものも不自然なものもありますが、どちらの場合もそこでフィル・ネイチャーそのものを絶やすわけにはいきません。だからわたしは死に変わるのです」
あくまで穏やかに、優しい声で、ネイチャー様は自分の死に方と生まれ方を語った。
「身体を含め、自らのすべてを魔力に変換し、新しいからだを作ってそこにまた魔力を収める。それを繰り返すことで、フィル・ネイチャーは常に存在できる」
さっき目にした、魔力の発散と収束。あれはそういう仕組みで、それを知っていたからフィーは命を捨てて封印を解いた。世界の維持のために、それか、もしかしたら本当に、アクアに触れるためだったのかもしれない。
「お分かりいただけたでしょうか。あまり世界の核心は語るべきではないのですが、あなた方は精霊なので、聞きたいことがあれば答えましょう」
ネイチャー様にとっては、全部当たり前のことのようだった。親が子供に向けるような声音でそう言う。
聞きたいことならいろいろあった。けれどすぐにはまとまらなくて、――質問は意外なところから上がった。