=風の精霊ウィンディ=

フィー 3

 草木の匂いに、ささやかな花の香。柔らかく温かな腕。世界中の誰より優しい胸に抱かれて、けれどアクアは震える声でつぶやく。
「どう、して……こんな、出てきたら死んじゃう、って、」
 フィーはアクアの首もとで深く息を吸ったあと、ゆっくりと体を離して、涙にぬれた頬をそうっと両手で包んだ。アクアがその手に自分の手を重ねると、フィーは嬉しくてたまらないというふうに目を細める。
 そうして至極あっさりと、アクアのなぜに答えてみせる。
「だって、出てこないとアクアに触れないじゃない」
 でしょう? と言って、白魚の指が前髪をよけ、額に口づけ。それだけでもう、アクアはなんらの否定もできない。
「可愛い可愛い、わたしのアクア。ここまで来てくれたのね。寂しかったでしょう、怖かったでしょう。よくがんばったわ。ありがとう。わたし、とっても嬉しいのよ」
「フィー」
 その言葉には、アクアも感極まるものがあった。がんばったよ、フィーに会いたくて。ものすごく怖かったし、つらかったし、いっぱい泣いたけど、フィーのためにここまで来たよ。そう言いたくて息を吸ったところへ、すべての元凶が水を差した。
「ほら見ろ、精霊だろうがフィル・ネイチャーだろうが、ルサ・イルには敵わない! これが俺の、俺が描いたとおりの――」
「ちょっと静かにしていてね」
 フィーが左手をついとハノルスに向ける。それだけで男は気を失って倒れた。フィーはその時間も惜しむように、またアクアへと向き直って、真っ直ぐに水色の瞳を見つめる。
「よく聞いてね、アクア。時間がないの。魔法陣を無理に破ってしまったから、わたしはあとすこししかアクアといられない。本当にごめんね。だけどわたしはフィル・ネイチャーだから、あれ以上封印の中で、魔界と隔てられていることはできなかったの」
 優しい人に謝られて、アクアは胸が締めつけられるような思いだった。自分がちゃんと封印を解けていれば、こんなことにはならなかったのに。そう言いたいのに出るのは涙ばかりで言葉にならない。ただ必死に首を振る。
 フィーはその自責ごとアクアを抱く。
「いいの。あなたはなんにも悪くないわ。わたしが教えたこと、きちんと分かっててくれたじゃない。中からでもわたし、ちゃんと見ていたのよ」
「っ、フィー……!」
 ようやくアクアもフィーを抱きしめ返した。フィーが満足そうに微笑む。たとえ何十秒か後にひどい悲しみが待ち受けているとしても、フィーが幸せそうにしていることがアクアも嬉しかった。
「フィー、フィー、でもっ、これから」
「大丈夫よ、わたしが死んでしまっても世界が滅んだりはしないわ。そういうふうにできてるの」
 違う、と叫びたかった。魔界がどうなるかなんていまは考えられなかった。フィーのいない世界が始まることの方がずっと怖い。悲しい。
「やなんだ、フィーがいないなんてっ! 世界とか、そんなのよりフィーが……!」
 きつくきつく、フィーの手を握る。フィーは困ったように眉を下げて、
「そんなこと言ってはだめよ、あなたは精霊――」
 言いかけてふと、目を見開く。そこには淡く後悔の色が浮かんでいた。
「そうね、ごめんなさい。わたしがあなたを、もっと精霊として、育ててあげなくてはいけなかったわね……」
 さいごの近い時になって、フィーにそんな顔をさせていることが、アクアにはたまらなく苦しかった。だから彼女の言う意味を半分も分からないまま、そんなことないと繰り返す。
「なんでもいい、精霊とか世界とか関係なくて、っ、おれはフィーが好き……っ! フィーに会えないなんて嫌だ!」
 もう、ほかに言えることなんてなかった。好きだからずっと一緒にいたい。それだけを途切れ途切れに訴える。フィーはその切実さを前に、なぜだかとても穏やかに笑んだ。
「……あなたはいつも、わたしにいちばん欲しいものをくれるのね」
 ささやくようなその声がアクアにはよく聞こえなくて、え? と聞き返した一瞬、フィーが身を屈めて、こつんと額をあわせる。
「大丈夫。わたしがいなくてもあなたが生きていけるように、アクア、あなたの中に、わたしをあげるわ」
 そう言って、フィル・ネイチャーは微笑んだままアクアに口づけた。笑みのかたちの唇に、滴るように魔力が溢れ、触れ合うからだへ注がれる。
 深い深い口づけだった。この世界を世界たらしめている力が、人の温もりを通して分け与えられる。精霊としての魔力など比べものにならない、目映いばかりの緑が一面に満ちて、水色の瞳にも色濃く反射した。
 世界の根幹たるちからは人の根幹たる魔力に届く。母が子を宿すように、空が月を湛えるように、フィーの力はアクアの中心を包み込んだ。
 ただ、大切にされていた。使命のためにあるちからをいっぱいに使って、フィーは最後に愛しい子を抱きしめていた。
 光に飲まれた瞳から、涙のしずくがまたこぼれる。その粒をフィーも受けた。そうしてふ、と唇をはなす。
「ふぃ、い」
「好きよアクア、いつだって」
 フィル・ネイチャーのちからは、彼女の愛した子を抱いて、彼女の愛した庭園に広がり、深い緑に輝いた。
「アクア、もう一度名前を呼んで」
 緑色の瞳をまぶたが覆う。その時が来る。
「――フィー、大好き」

2014/9/15 (修正 2023/3/23)