◇
「――あ、はあっ、はあっ、はっ、」
ぺたん、とその場に座り込む。一歩も動けない、どころかすぐには立ち上がることもできなかった。かつてない疲労感に倒れ込みたくなるのを、あたしは剣を支えにこらえた。
耳鳴りのするような頭を振る。視線を落とした足元に、どさりとなにかが落ちてきた。
「これ、って」
手綴じの本。ワインレッドのカバーは日に焼けてか色褪せ、縁はぼろぼろになっている。中身は使用済みの魔法陣、それも同じものばかりだ。豊かな強弱を持つしっかりとした線は、どこか見覚えのある――
「返せっ!」
怒鳴り声にはっと顔を上げた。背後からグロウに押し倒された男が、あたしの拾い上げた本へと手を伸ばしている。その腕をグロウは遠慮なく背後へ回して、なにか事前に用意していたらしく、きっちりと両手を拘束する。
「くそっ、離せ! おいその本! それを返せ!!」
男はなおもじたばたともがいていたが、グロウは手を縛り終えるとさっさと背中から離れてしまう。
これとあの黒い人形。男の武器は二つきりだったんだろう。
「聞いているのか! 返せと言ってる! それは父の作品だ!」
肩で這い、上体を起こして、犯人が吠える。激しく頭を振った拍子に、黒い帽子がふわりと落ちた。帽子には真っ白な花。乱れた髪は灰がかった赤で、黄土色の瞳にぎらつく憎悪が込められる。
あたしはもう一度、彼の持っていた本を開いた。筆圧の強い、太さのある安定した線。勢いはないけれど確かな自信を感じる筆跡。
やっぱり、あたしはこれを知ってる。
「……あんた、名前は?」
「気づいたか? ……どうして? どうして分かった!」
「名前は?」
「お前どうして分かった! まさか、そうか、お前が!!」
激昂して立ち上がろうとした男の前に、ゴッドが素早く剣を突き立てた。男は苦々しげに舌打ちすると、座ったまま帽子のところへにじり寄ってあたしを睨んだ。
「俺はハノルス・ライン。ルサ・イルの息子だ」
「アルサの、息子……?」
呆然とこぼれた声を最後に息が詰まる。世界のすべてが止まってしまったみたいに、あたしはただ、ハノルスの憎しみの目を見返した。
第二の精霊狩りの犯人が、魔界を危険に陥れた人物が、アルサの子供。あたしに精霊としてのあり方を教えてくれた、出会う人すべてを愛してやまないアルサの、子供だなんて。
アクアのフィーがネイチャー様だとわかったときより、よっぽど衝撃だった。だってアルサは、アルサは。いくつもの優しい声が重なりあって脳裏に響く。細い目の笑みが、肩に揺れる白い花が、万術師の指が、次々に浮かんでは消える。
あたしのじゃない風が吹いて、手の上の本をばらばらとめくっていく。やっとの思いでそこに目をやると、最後のページにはよく知った筆跡で、ルサ・イルのサインがしてあった。
「ほんとに、アルサの子供なんだね」
「ああそうだ。それよりお前! お前か! 父の、特別な子というのは!」
絞り出すようにして発した言葉に、ハノルスの表情がより剣呑となる。
「特別?」
そんなふうに呼ばれたことは一度としてない。けれど、
「特別だろう。愛した女との間に作った実の子より、大切で、特別な子だ! 俺は知っているぞ! 精霊の子! 俺はお前が憎くて! お前を選んだ父が憎くて――」
「もう分かった」
激しく泡を散らし始めたハノルスを、ゴッドが襟首をつかんで黙らせる。
「あたしが神魔の間アルサと一緒にいて、あんたは本当の子供なのにお父さんと離ればなれで、それが許せなくてこんなことしたって言うの?」
ハノルスはあたしを睨みつけながら、食いしばった歯の間から荒い息を漏らすばかりでなにも答えない。グロウがその様子を見下ろしながら低く言う。
「違うろ。そんな一本の筋で説明できるようなことやない。こいつはいま、ルビィが目の前におるきそんなして言いゆうばあよえ。それより――」
言いつつグロウが視線をやった先で、悲鳴みたいな声が上がった。
「フィー!」
◇
線をたどる。指先に魔力を導く。頑として立ちはだかる仕組みを前に、アクアはそこが戦いの場であることも忘れて魔法陣をなぞる。堅牢な檻の鍵を解こうと、何度も何度も繰り返す。
けれど地面に根を張ったかのようにたくましい線は僅かも揺らがず、不安と恐怖ばかりが胸の中でふくらんでいく。視界はすぐに涙でぼやけ、それは目の縁でしずくを作ってぽたぽたと膝にこぼれた。
何度も、何度も。細く名前を呼ぶ声が震える。涙を拭って魔法陣に触れる指先が、冷たく痺れて感覚を失う。
それでも、休むことなく、アクアは無情な封印に立ち向かった。
そして幾度目かの失敗のあと――フィーが、目を開けた。
◇
濃緑に満ちた魔法陣の中で、フィル・ネイチャーの背中が動いた。アクアの声に引き寄せられるように、胸の前に組んでいた指が解けて、両手が球の内側に触れる。
「フィー、フィーっ」
応じるようにアクアが外から手を重ね、泣きぬれた瞳でフィーと見つめ合う。
解けたかと、一瞬期待した。あたしだけじゃないだろう。悲愴だったアクアの表情は和らぎ、グロウもゴッドも、事態の好転を見るために視線を注いだ。ユールだけがなにを思って立っているのか計り知れない。
けれど、魔法陣は砕けなかった。
フィル・ネイチャーは右手だけを魔法陣の内面に触れたまま、封印の中でゆるりと振り返る。同色の光に包まれてなお鮮やかな緑の瞳が、あたしたちみんなを映していく。
「待って、フィー、いまおれが解くから」
アクアが空になった右手でまた陣を解きにかかろうとした、そのときだった。
「お前にその魔法陣は解けない」
ぞっとするほど悪意のこもった声。ハノルスが、攻撃的な黄土の視線をアクアへと差し向けていた。ゴッドの突きつけた剣にむしろもたれかかるようにして身を起こし、唇にひどく歪んだ笑みを浮かべて、もうなんの武器も持たないハノルスが、この場でいちばん自信に満ちていた。
「解けないってどういうこと?」
射すくめられたように動けないアクアを、体をずらしてハノルスから庇う。ハノルスはもう、相手など選ばずただ身のうちの毒を吐き出す。
「あれは父の書いた陣だ。稀代の陣書き、真正の万術師、その父が俺に託した、この世にただ一つの作品だ! お前たちに使った量産品とは違う! お前みたいなガキに解けるわけがないんだ!」
びく、とアクアの肩が震えてまたひとつ涙が落ちた。フィーがそれを慰めるように球の内側を撫でる。そうして肩越しにハノルスへと、その唇が音もなくささやく。
「フィー?」
アクアが不安そうに呼ぶ。その予感はあたしたちにもわかった。ハノルスの笑みが凄惨に深まる。聞くに耐えないことを言われるのだ。でも、グロウもゴッドも止めようとしない。聞かされるのは、聞くに耐えない事実。
「さすがだな、フィル・ネイチャー。確かにその力をもってすれば封印は解ける。――自身の命と引き替えにな」
「フィー、待って、だめ! やめて、フィー!」
今度こそ本当に悲鳴が上がった。魔法陣が発していた光が球のうちへと吸い込まれ、陣のかたちがばらばらに砕ける。アクアは消えていく陣を握りしめるように拳を握って、嫌だと頭を振る。涙の粒が舞い散り、
「アクア!」
白い手がそのしずくを受け止め、たおやかな腕が伸ばされ、アクアをぎゅっと抱きしめた。
フィル・ネイチャーが、封印を破った。