=風の精霊ウィンディ=

フィル・ネイチャー 5

 ぶわ、と足下から風が巻き上がる。髪がばたばたとなびき、帽子の羽根飾りが風の方向へと引っ張られる感覚があった。飛んでいくことはないと知りつつも、つい右手でそれを押さえながら、左腕をしっかりと体へひきつけ、
「ウィンディ――ッ!」
 剣に乗せた魔力を、腕を払う動きで一気に解放する。刃の軌跡みたいに走った風はそのまま破壊力となって、人形の腹を真横に断ち切った。
「はあっ、はあー……」
 あとすこし。あともうちょっとで封印の魔法陣にたどり着く。だというのに、あたしはつい足を止めそうになった。
 理由は一つ、魔力の底が見え始めているのだ。魔力の総量には自信があったけど、ちょっと、いやけっこう、無茶をやったかもしれない。いまさら脚の傷がずきずきしてきた。
「ルビィ、大丈夫?」
 ぐいぐい歩きながら息を整えていると、ぴったりついてくるアクアにそんなことを言われた。
「大丈夫」
 考えるまでもなく答える。これ以上アクアを不安がらせたくないし、頼りにならないと思われたくもないし、それにもし大丈夫じゃなくてもあたしのやることは変わらない。
 アクアもそれはわかってるんだろう。あたしの返事を丸ごと信じたふうではなかったけど、それ以上のことは言ってこなかった。
 あたしたちのルートはじわじわと左へ寄っている。犯人の注意は右のほうから迫るグロウとゴッドへ偏っているようで、その背後とはいかないまでも、手薄な方面から近づいていくかたちだ。
 小川の縁を、もう数えるほどに減った人形をいなしつつさかのぼっていく。全部壊していては、アクアが封印を解く時間を稼げなくなる。ユールには悪いけど、行く手を阻む人形を突っ切って、アクアを急かして走らせる。
 一体、もう一体、次々にくぐり抜けて、
「これで最後……!」
 光球も用意させないまま、人形を右へと吹っ飛ばす。遠くから完全に壊れたことを意味する光が目の端にまたたいた。
「フィー!」
 アクアが初めてあたしより前に出る。
 煌々と、生きた草よりも鮮やかな緑色の魔法陣がそこにあった。なんにも遮られない光は熱くも眩しくもなく、ただ強い。その輝き越しに、指を組んだ女性が目を閉じていた。
 うつむいた表情は眠っているかのように穏やかで、やんわりと閉じた唇は微笑んでいるようにさえ見える。年はいくつくらいなのだろう。三十とか、そのくらいか。だけどこれだけの魔力の持ち主だ、見た目では判断できない。
 色濃い光に包まれていてもまだ、背にたゆたう長い髪が緑であることがわかる。通常、魔力の色は瞳までしか表れない。けれどフィル・ネイチャーは別格だ。たった一人の女性が持つ魔力によって、魔界の存在そのものを支える。そのちからは瞳のみならず髪にまでも、生き生きとした濃緑を映していた。
 アクアが膝をついてフィル・ネイチャーの顔を覗きこみ、その手が球体の魔法陣に触れようとする。
 ――そこに影が差した。
「アクア! っうぐ!」
 とっさにアクアを背に庇い、間に合ったと思った瞬間、左から重い衝撃が襲う。踏ん張る余裕もなかった体はあっさり弾き飛ばされて、ばしゃん! と背中から小川に倒れ込む。
「ルビ――ひゃあっ!」
「アクア!?」
 濡れた精霊服は重たく、背中もお尻も石にぶつけて強く痛む。悲鳴はそれを全部連れ去った。滑る川底に手を突いて起き上がり、剣を握り直して立つ。
 黒い人形と黒い精霊服。学校で見た真っ黒のマネキンが、アクアに襲いかかろうとしてユールに阻まれていた。その後ろから、白い人形で周囲を固めた帽子の男が手を伸ばし、
「くそっ、それに触るな!」
 苦々しげな声で言う。黄土色の目には焦りの色が濃く、魔法陣とアクアと黒い人形と、それから背後のグロウとゴッドにまで、せわしなく視線がめぐらされる。
 声か動作かが指示だったらしく、黒い人形がユールの掲げる細剣を押し込む。ユールはまたもや剣を離して左へ一歩、斜め後ろから剣を出現させようとするが、
「行け! そいつを止めろ!」
 人形はユールなど無視してアクアへと手を伸ばす。
「だめ!」
 あたしはひと跳びに小川を抜け出して、走りながら剣を右上へと振り上げた。がつん! と重い音をたて、人形の腕が肩の上ぎりぎりで止まる。
 こっちを心配してなにか言おうとするアクアに、あたしは鋭く叫んだ。
「アクアは封印解いて!」
「でもっ」
「こっちはあたしとユールでなんとかする! 早く!」
 振り向けないからわからないけど、アクアからの反駁はなくなった。けど人形の方は、あまりに重くて手がしびれてくる。黒い人形は魔法陣じゃないと、確かゴッドが言っていた。自分で相手をしてみればわかる。強さも丈夫さも桁違いだ。
「ユール、手伝って!」
 たまらず助けを求めると、ユールの空っぽの手が人形のわき腹に近づいて、そこへ剣が現れる。
 深々と突き刺さった剣に魔力が集まり、しかし人形はみじんも傷つかなかった。
「なんで?」
「わからない」
「あんたに聞いたんじゃないっ!」
 ユールが再び剣を消して、今度はきちんと、両手で剣を取る。とたんに穴は塞がった。
 だがユールはそれになんらの反応も示さず、あたしの剣を押さえつける手に刃を添えると、
 ぱきん。と人形の指が落ちた。
 なにこれ、と言いかけてなんとか飲み込む。魔法だ。あたしも使っていた、魔力による人形の破壊を狙ったもの。同じ力をさっきとは違い、指だけに集中させたのだろう。
 だとしても、相手もあたしの剣を止めるのに魔力を集めていたはずだ。それをあっさりと切り落としてしまうなんて、あたしが言うのもなんだがすごい魔力だ。
 あたしの剣が人形の手を逃れるとともに、指はすぐ復活した。体格に見合った軽い足取りで、ユールがあたしと場所を変わる。人形の突きつけてくる光球をいなしながら、冴えた青の瞳はどこにも焦点をあわせる気がないようだった。その様は正直に言って薄気味悪く、あんなエネルギーを持ち、使いこなしている人物のようには見えない。
 だけどいまはそんなユールが頼りだ。アクアは泣きそうな目をしっかりと見張って、両手で魔法陣に触れる。グロウが密集した白い人形の頭を踏みつけて帽子の男へと迫る。それを阻もうと伸ばされる手を、ゴッドが重そうな剣で断ち切った。
 あたしはどうするべきかを考える。白い人形でも、壊すのにそれなりの魔力を要する。二人がかりとはいえ、黒いほうは壊そうとしてすぐに片づくものではないだろう。グロウたちの狙いは相変わらず犯人にある。魔法陣が解けるか、犯人が捕まるか、そのどちらかまで黒い人形を止めなきゃいけない。
「守らなきゃ」
 あたしが、アクアを。ネイチャー様を、魔界を、守るべきものを全部、守るために。

2014/7/4 (修正 2023/3/23)