=風の精霊ウィンディ=

クルスとヒュナ 4

 谷あいを穏やかに風が抜けた。まだ露を残した草が波立ち、左右の山で木々がさざめく。陽は暖かく、薄い雲の影をぼんやりとかの地に映している。
 丘陵というには少しだけ険しい、そんな程度の山に挟まれた谷の土地に、フィル・ネイチャーの庭園は広がっていた。グロウとゴッドは丁寧に作り上げられた庭を、小高い丘の上から太い木の幹に身を隠して眺めていた。彩度の低い精霊服は鮮やかな緑には逆に浮きそうで、どちらも自然と姿勢は低い。
 ウィンディ家を離れて、まず二人はグロウの家へと向かった。学校から持ち続けていた荷物を置き、魔界ではいつも携帯していた、もしものための魔法陣を取りにいったのだ。家は人間界へ飛ばされたときのままだった。その片付けは後回しにして、訪れたのがこの庭である。
 フィル・ネイチャーが古くから所有し、たったひとりで暮らしてきたこの谷。誰も、女王家すら、このたびの事件が起きるまでは、そこがどんな場所だか知りもしなかった。まさか、無聊を癒す楽園が作り上げられているなどとは、誰も思うまい。
 庭園は谷の中央を流れる小川を囲むように続いて、次々と様相を変えていく。丘のふもとには木陰を作る木と川へ張り出す岩場、対岸には魔法陣のパーツを模した迷路状の生け垣が組まれている。
 そこから上流へ向かって、花の畑、野菜の畑が小川を挟み、いちばん遠くに白い柵で区切られた素朴な庭がある。そこにはフィル・ネイチャーが住んでいるのであろう、小さな家が建っていた。まだ細い小川をも取り込んで、柵の内はほかの庭とはまったく独立しているようにも見えた。庭園の一部というより、生活の場としての家と庭のようだ。
 育む者の手を離れてひと月近く、まだ庭園は美しく健やかな姿を保っている。
「思ってたより綺麗だな」
「あれが効いちゅうがやろう」
 鈍く、地面を走って魔力を灯す三重の円。無遠慮に庭を横切るそれを、グロウは品定めするように目でなぞる。
「封印やね。なかなか本格派やか。陣の内側、だいぶ止まっちゅう」
 封印と呼ばれる魔法には多くのタイプがある。使えなくする、動かなくする、見えなくする。そのすべてに共通するのが、停止させるという性質だ。魔力を封印すれば魔力の増減は止まり、記憶を封じればその間は新たになにかを記憶することができない。ただし停止の程度は、魔法陣の出来栄え、性質、その他の諸要因により変動しうる。今回それは身をもって学んだ。
 そして庭園を封じるという、その目的は一つ、閉鎖しか考えられない。無理に突破しようとすれば気づかれてしまうだろう。
「もしかしたらとは思うたけんど、ほんまにおるとはねえ」
 フィル・ネイチャーの庭園に封印の魔法陣を張った、おそらく張本人が、家の建つ庭のさらに奥、手の入っていない草っぱらに佇んでいた。距離のために年齢や性別まではうかがえないが、黒い帽子になにか白い飾りがついている。その位置が陣の始点であろう。フィル・ネイチャーはそこに封印されていた。
 遠景でもわかる、緑色に輝く光の球。中空に浮かぶそれはびっしりと魔法陣に覆われ、その中にぼんやりと人の姿があった。
「出直すか?」
「それもありやけど……あんまり時間かけられん気がする」
 第二の精霊狩りと思しき人物を苦々しく見つめて、グロウは一つの決断を下す。
「全員集めて。うちは見張りよるわ。連絡はしようがないき、するにようばんばあ急げる?」
「できるできないじゃないだろ、お前の頼みは」
 その指示を、断ることなど選択肢にないとばかりにゴッドが受ける。
「行ってくる。準備あったらいまのうちにな」
 すっと隣から離れた気配を、グロウは見送りもせず、木の影から改めて庭全体を観察する。そして自らも身を翻し、庭園を囲む山へと姿を消した。

 聞くべきことをすべて聞いて、クルスは「がんばったな」とだけ言った。問われるままに答えていたユールは、問いではない言葉には応じない。
 クルスはそれを気にすることなく続けた。
「ヒュナにも頼まれてるんだ。これからのことは俺が助けになるよ。長くなりそうだけど、絶対に最後まで付き合うから」
 妹と同じくらいか、ともすればそれより小さな子供を見るような目だった。それくらいクルスには、ユールが成長の期を逃して幼いままあるように思えていた。
 あれだけのことを語って、ユールの表情には波風ひとつ立たない。血の色も肉付きも薄い唇は一度も歪むことなく、姉によく似た細い眉がひそめられることもない。うつむきがちなまつげの下で、光の入りにくい瞳が、青々と、まっすぐ、礼に則ってクルスを映しているのみだ。
「そういえば、ヒュナにはもう一つ頼まれてたことがあるんだよ」
 言って、ふと玄関へ続くドアを見やる。二人分の軽い足音。アサナギとユウナギが誰かを迎えようとしているらしい。数秒の後、双子による「いらっしゃーい」の合唱に、今日初めて知った声が「おじゃまします」と走り気味にかぶせる。
 ドアを開けたのはゴッドだった。先ほど見た人間界の制服姿ではない。くすんだ茶が主体の服装は精霊服であろう。それだけで緊急事態だということがわかった。
「フィル・ネイチャーの庭園に今回の事件の犯人がいる。ユール、来てくれ」
「わかった」
 ゴッドの簡潔な求めに、もっと簡単に応じてユールが立つ。ゴッドは、クルスがそれを止めないことを確かめるため一拍待って尋ねる。
「ルビィとアクアは? 二人も呼びにいきます」
「水の精霊の土地に行ったよ」
「分かりました、ありがとうございます。それから、ユールのお姉さんと会うのは後日にしてください」
 きびきびと話を進めていくゴッドの様子は、ユールとは正反対の印象だった。クルスはそこに、わずかな違和感を覚える。
 事態の全容はわからないが、なにか危険で急を要することになっているのは感じられる。そこに妹が、ルビィが飛び込むべきであることも、彼女自身それを望んでいることも。クルスは単純に兄として、精霊であろうとなかろうと、妹の危険を心配する。妹と同じ立場にある、ほかの子供たちのことも心配する。
 それが違和感のもとだった。誰の庇護下にもないことが当然となっているゴッドは、クルスのそんな心配には馴染まない。しかし、そこで案ずる思いを取り払うのは違うような気がして、クルスは二人を呼びとめた。
「ユール、ゴッド」
 クルスだってそう大人ではない。本当は「ルビィに気をつけてと伝えて」と言いたかった。けれどいまは、同じ場所に向かう五人ともに伝える気持ちで言う。
「気をつけて。いってらっしゃい」
「……いってきます」
「いってきます」
 意図は通じていたらしい。ゴッドは少し目をみはって、意外に思ったようだった。ユールの返事はやはり単なる定型句である。
 そちらはこれから変わっていけばいいと、二人を見送ったクルスは通信鏡に魔力を流した。ヒュナと二人で彼らの帰りを待つこと。これが精霊の家族である自分たちの役目だ。

2014/5/19 (修正 2023/3/23)