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家に入ることは拒んだアクアだったけれど、すぐに帰ろうとまではしなかった。しんと立つ家を背に、湖の周りをなぞるように歩く。
そよ風に揺らぐ水面は、家を過ぎるとゆるやかにくびれて、続きは木々の向こうに隠れている。思ったより大きいらしい。森は家の周辺を除くと、かなり水の近くまで茂っていた。あたしとアクアなら並んで歩ける広さだけれど、なんとなく、あたしが先を行ってアクアが後ろに続いている。
「ルビィは、怖くないって言ってたよな」
その話は二度目だ。あたしは前と同じにしっかりうなずく。
「おれはまだ、っていうか、たぶんずっと、怖いと思う。精霊とか、やっぱりよくわからないし、学校で白い人形をやっつけられたのも、なにかの偶然みたいで、怖かったって気持ちのほうがおっきくて」
「なら大丈夫だよ。油断してないってことでしょ。普通あんなすごい陣が書けて、それ使って敵を撃退したら、これならいける! って思っちゃわない?」
「でもおれ、あの時いっぱいいっぱいで、あれより大変なことになったらなにもできないんじゃないかって」
アクアの声は不安を隠さない。震えながら、それでも置いて行かれることのほうが怖いみたいにあとをついてくる。
あたしは歩く速度は変えないまま、くるりと後ろを振り返った。
「じゃあ、あたしがアクアを守るよ」
「えっ?」
「あたしは強いよ。アクアぐらい守れるよ。だから心配ないって」
ね、と笑いかけると、アクアはわかったようなわかってないような顔でうなずいた。無理矢理うんと言わせたみたいだけど、いいよね。空元気だって全然なかったらやってけない。
「フィー、どうしてるかなあ」
「心配してるんじゃない? でも、そしたら城に連絡取ってそうなのになあ。なんか変わった暮らしだったみたいだけど、外に出られない事情でもあるのかな」
「さあ……わからない」
「でもアクア、自分が精霊ってことは知ってたよね? てことはフィーって人も、城に聞けばアクアがどこにいるかわかるかもーって、まあそっか。魔界も広いもんね」
アクアがどんどんうつむくから、あたしはその辺で余計なことを言うのはやめた。
本当のところ、アクアとはまったく違う意味で、あたしもフィーという人のことは気になっている。あの神魔戦争から精霊をひとり、ずーっと遠ざけて、一体なにをしていたのか。精霊狩りから守っていたというのもありうるけど、それにしたって無茶苦茶だ。
神魔戦争の終了は女王家から正式に発表された。そこから三ヶ月、なんの音沙汰もなく引きこもりっぱなしというのはちょっとおかしい。現に連絡の絶えていたスノークス家にはただならぬことが起きていたみたいだし。
黙って歩いていると、そのうちに湖を一周してしまった。森の中、移動陣へと続く小道の前でなんとなく立ち止まる。
「帰ろっか」
「帰るって、どこへ?」
ううん、そうだった。いきなり会話がつまづいて、それきり立ち上がれない。アクアはそんなことにすらしょぼくれて視線を落とす。風ばかりが爽やかにスカートの裾を揺らした。
次の言葉をどう選べばいいのかわからない。あたしには帰れなくなってもルサ・イルがいたから、アクアの気持ちをちゃんと実感することが出来ないのだ。言葉を探して視線がさまよう。些細なことでいいから、なにかこの空気を払拭してくれるものがほしかった。
湖にはなにもない。空もひたすらに高いだけで、足下には名前のわかる花もない。森の小道を振り返る。転換のきっかけはそこにあった。
木々の間を走ってくるふたりの影。ゴッドはところどころに朱の入った茶色の精霊服、ユールは上下とも装飾のない黒づくめでまるで制服だけど、こちらも精霊服姿だった。さっと頭の中が切り替わる。なにかがあったんだ。
向こうもこちらを見つけて名前を呼ぶ。そのあとに続いた言葉に、衝撃が走った。
「封印の犯人が見つかった。フィル・ネイチャーのところにいる、時間がない」
ゴッドは森の出口で足を止め、すぐにも引き返す構えで移動陣の方向を示す。来い、とまで言われなくてもわかった。
「アクア、行くよ!」
手を取って、引こうとしたらわずかに抵抗があった。アクアの表情はまだためらっている。
「大丈夫、あたしがいるから」
「……うん」
やっぱり無理矢理みたいだけど、アクアは素直に手を引かれてくれた。ユールとゴッドはもう移動陣へ向かっている。あたしたちもそれを追いかけて、木漏れ日の中へ飛び込んだ。