=風の精霊ウィンディ=

ユール 4

 長い長い午前の授業が終わった。チャイムが鳴り終えると同時に、あたしはお弁当も持たずに教室を出る。
 椎羅や依川に声をかけられないよう、さっさと階段を駆け下りて、一階の美術室前へ向かう。ほかのひとたちはみんな食堂かトイレか職員室行きで、たどり着いた廊下はひどく静かだった。
 電気の消えた美術室の前に、河音と熱斗が立っていた。河音の手には筒状の模造紙があり、熱斗は登校時に持っていた荷物を二人分抱えている。
「お待たせ」
「ううん。ちょうどくらいだと思う」
 河音が首を横に振り、熱斗が作戦の続きを告げる。
「図書室だ。行くぞ」
 昨日の作戦会議によると、場所はグロウが指定してきてるはずだ。でも、あたしはもちろん、アクアもゴッドも、朝からグロウとは会ってない。
「連絡ってどうやったの?」
 歩きながら尋ねると、ゴッドは、
「業務上の秘密」
 と言ってウインクをひとつした。

 図書室の中は、廊下とは切り離されたように静まり返っていた。部屋の形は細長く、幅は狭くて奥行きが広い。カウンターに座る係の先生はプリントに丸付けをしていて、あたしたちが前を横切っても顔を上げなかった。
 利用者の姿は少ないけれど、いないというわけではない。新刊コーナー、人気図書コーナー、返却コーナーに、見事にそれぞれ二人ずつの生徒がいた。昼休みに入ってすぐだからか、本を読む人向けのテーブルには荷物が置かれているだけで、人の姿はなかった。この先、本棚の間に誰かいるのか、それは行ってみないとわからない。
「ルビィ、先行け」
 熱斗が軽く背中をこづいた。アクアの抱える魔法陣を横目に、あたしは歩き出す。手を突っ込んだポケットの中には、昨夜アクアが書いてくれた、封印を解くための陣がある。女王家が用意してくれたものより対魔力強度が高く、反応も早い。……というのは制作者の自己申告だけど、いまさらその言葉を疑っても意味はない。あたしは信じて使うだけだ。
 本棚は部屋の壁際をぐるりと一周、窓のあるところは低い棚で、ただの壁に沿うものは天井近くまである。読書コーナーの机四列と平行に、人気図書と新刊の、表紙がよく見える形の棚が立ち、その奥は同じサイズの本棚が三列になって続いている。
 あたしは左端の通路を通って新刊コーナーの裏に入り、一つ目の角を曲がった。最初の列の棚が一つながりになっているために見えなかった、図書室の最奥が目に入る。
 そこには資料庫へと続く扉があって、ほっそりとした黒い人影があった。
 ポケットから、魔法陣を握り込んだ手を引き出す。それを背中に回して、あたしは一歩一歩、棚の間を進んでいく。
 ちらちらと目をやってみるけれど、左右の通路には誰もいなかった。無関係な生徒はもちろん、アクアやゴッドやグロウさえ見当たらない。すこし先の右手から軽い足音が聞こえたから、いちおういるにはいるんだろう。
 そうこうしているうちに、あたしは通路の突き当たりまでたどり着いていた。
 真っ黒な後ろ姿に呼びかける。
「あんたが、冬山柊?」
 細い肩が振り返った。長く、不揃いな黒髪が背中へ流れる。肉の薄い輪郭は白いというより、透けるように色がない。無表情。前髪が下りて塞いでいることを考慮しても、あまりになにもなさすぎる。薄い唇は真っ直ぐに引き結ばれ、しかしそこに不満や忍耐の色はない。吊り目がちな目と眉も、なにかの感情を乗せているようには見えない。
 ただ、重たげなまつげの下の瞳は魔力を湛える深い青で、そこにだけ、全身にまとう雰囲気と不釣り合いな生気を感じた。解けかけてるなんてものじゃない。もう魔力への封印は意味をなしていなかった。
 こいつ、めちゃくちゃ魔力強い。その目の輝きの強さから、直感的にそう判断する。ここでは絶対揉められない。
 ゆっくりと瞼が上下する。じっと見上げていて気づいたけれど、身長はアクアと変わらないぐらいだ。相手は、まだなにも答えない。
 じれたあたしは質問を重ねた。
「あんた、名前は?」
「ユール・スノークス」
 思いの外はっきりした声が、核心を突く答えを返した。
 決まりだ。記憶も魔力も戻っている。
 そう判断したと同時に、通路左から手が伸びてユールのくちを塞ぎ腕を掴んだ。
 ゴッド、と声を上げかけた時には反対側からがさりと紙の音がして、アクアが魔法陣を広げていた。
 家の移動鏡に仕込まれているものを書き写した、移動陣。その後ろから飛び出してきたグロウが細い線に触れる。
 音もなく魔法の動き出す気配だけが満ちる。光とも闇ともしれないなにかに視界が沈んでいく。その中でユールは、捕まえられたことに抵抗どころか反応すらせず、ただ真っ直ぐにあたしを見ていた。

 あれだけ待ち望んでいた魔界への帰還は、どんな想像よりもあっさりと達成された。
 移動陣に指定された移動先は魔界、その中心である城の地下だった。アクアの移動陣は人間界の家にある移動鏡を参考にしたものだから、行先はここにしか設定できなかった。
 あたしが人間界へ出立した、移動陣をいくつも擁する移動陣部屋。直径が学校の教室の端から端までぐらいの丸い部屋だ。中央には巨大な移動鏡があって、それを囲むように六つ、床に移動陣が設置されている。
 あたしたちが立っているのは、真ん中の鏡の前だった。姿勢はみんな、図書室で魔法陣が発動したときのまま。資料室のドアが移動鏡に変わったかたちで、四人でユールを取り囲んでいる。
 しばらく、沈黙の時間が過ぎた。
 あたしはグロウの策の邪魔になってはいけないと思って動けず、アクアもたぶん同じ。謎なのはユールだ。くちを塞ぐ手はとっくに離れているが、右腕をしっかりと握られたまま微動だにしない。まるで静止画だ。
 捕まえたゴッドの方もそれには戸惑ったらしく、困惑の面持ちでグロウの指示を待っている。そのうちに、ようやくグロウがハッとしたようにアクアの魔法陣を下げさせた。軽く全員に視線を巡らせ、ユールでとめる。
「あんたがユール・スノークスながでね」
 改めて問われ、ユールははっきり「ああ」と答えた。グロウは続けて、
「魔力におかしいとこはない?」
「ない」
「記憶は? ぼんやりしちゅうとか、はっきりせんこと、分からんことはない?」
「ある」
「さっきまでおった場所がどこかは分かる?」
「人間界だ」
「どうしてそうなったかは?」
「分からない」
 ユールの言葉は明瞭で、なのにどこかふわふわと掴みきれない。どうしてだろうと思ったけど、どうもそれは話し方のせいらしかった。
 あまりにも声が単調なのだ。真っ直ぐだから通りはいいけど、平坦で無色透明で、抑揚のよの字も感じられない。しかもほんの一言きりの答えを返すと、そこで会話が終わるみたいにぴったりと唇を結んでしまう。そしてもうひとつ質問がきてから、また話す態勢へと入り直しているみたいだ。
 グロウもその違和感は感じ取ったらしく、質問の流れを変えた。
「いま、手放いたら逃げる気ある?」
「ない」
「ほいだら場所変えるで」

2014/3/8 (修正 2023/3/9)