=風の精霊ウィンディ=

ユール 3

 体育館と校舎の間にひっそりと建つ体育倉庫は、カビ臭い空気がこもって薄暗い。渡り廊下のすのこが軋む音が遠く聞こえてくる。人のざわめきはさらに遠く、ちいさな小屋の中だけ違う時間が流れているようだった。
 そんな感覚を生んでいるのは外との隔絶だけではない。ゴッドは格子のはまった窓から目を離して、埃っぽい床を見下ろした。
 アクアがハードルと体操マットの間に模造紙を広げて、魔法陣を書いていた。
 昇降口前で苑美と別れた二人は、教室には向かわず、この体育倉庫へ来ていた。この場所を選んだのはグロウで、理由は六時間目までどのクラスも使わないから、そして万が一の時も内から鍵がかけられるから、だ。
 まず彼らはボールの入ったかごやネットやポールやらを壁際へ退け、砂でざらつく床を竹ぼうきで軽く払って、開いたばかりの売店で買ってきた模造紙を裏返して置いた。アクアがそれを、丸まらないよう手で膝で押さえながら書き始め、あれからかれこれ三時間。その間、二度失敗して紙を換えたが、今度のは順調にいっているようだ。
 窓の横に寄せた跳び箱に跨って、ゴッドはその作業を眺める。黒いマジックペンの線は、床のでこぼこを物ともせず、正確な円や直線を描いている。彼自身魔法陣に道具として以上の価値は見出さないが、この陣には見た目だけでも価値がつくだろうと察しがつくような、繊細に整った陣だった。陣好きの知人が見れば喜びそうだ、と思う。
 チャイムが鳴って休み時間が終わる。四時間目はどこも体育館を使わないのか、倉庫の外がにわかにひっそりとする。アクアが空気の変わり目を感じたように顔を上げた。
「あと何分ぐらいある?」
「五十分。間に合いそうか?」
 こくん、と無言でうなずく顔は、不思議な自信に満ちている。この作戦を聞かされた時、泣きそうなほど不安げだったのが嘘のようだ。紙を敷いて鍵をかけたあたりからか。ペンを握って、紙に触れて、真円。その時にはもう、アクアの頭には陣のことしかないようだった。
 グロウはすでにアクアのこの性向を把握していたのだろう。外の物音になんて気付きそうもない集中ぶりでは、誰かがそばで周囲を警戒してやらなくてはならない。ただ、その役はグロウが適任だったのではないかと思う。というより、今日のグロウの仕事は本来ゴッドがすべきことだ。雪の精霊と適切に接触し、この魔法陣に最良の舞台をお膳立てすること。これまでの二人の仕事の役割分担からも、経験や技術や道具の有無についても、この割り振りはおかしい。
 外履きのままの右足を跳び箱の側面にぶつける。そこにある秘密を意識する。これは、ゴッドがひとりきりで実働部隊を担うために与えられたものだ。こんなところで、魔法陣に全神経を注いでしまっている陣書きのお守りをするのには、なんの役にも立たない。
 そこまで考えて、ゴッドは思考を断ち切った。グロウが采配の理由を明かさないことはままある。ゴッドの知らない事情が絡んでいるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。どちらでも、使われる側のゴッドには関係のないことだ。なにが最善か判断する権利はここにはない。
 それよりも、そろそろもうひとつの仕事にかからなくては。
 昨夜、全員に大まかな作戦を伝えたあと、グロウはゴッドを部屋に呼びつけてある話をした。アクアには、力移し――正確には、それに伴って『頭の中を読む魔法』が通じないという話。そもそも使用者に要求される魔力量が大きく、相手の抵抗にあっては成功しない、確実性の低い魔法ではある。だが、これまで試したのは精霊であるルビィとグロウで、魔力量は不足しえない。またアクアは力移し自体知らなかったのだから、抵抗の方法など知るはずがない。その条件下でなにも読めなかったということは……。
 アクアはペンにキャップをして、ゆっくりと一つ伸びをしている。わずかに疲労の色が差す横顔に、ゴッドは慎重に、表面上は何気なく尋ねた。
「休み時間終わったけど、書き通しだろ。休憩するか?」
 この集中ぶりでは体の疲れなど気にならないことは分かっている。それでも魔力的には消耗してきた頃だろう。魔法陣は線に魔力で負荷をかけていくことで、ただの記号には持ち得ない力を付与されている。使う分には低燃費だが、書く方はそれなりに負担なのだ。
 膝で立ったアクアは、紙を見下ろしながら返事に迷っていた。んー、と曖昧な声のあと、結局は、
「まだ大丈夫」
 と答える。ゴッドは滑るように跳び箱を下り、ごく自然にアクアの正面、紙を踏まない位置に立つ。小窓から差していた日が遮られた。
「無理すんなって。本番はこのあとの方だかんな」
 答えあぐねるようにうろうろする視線を、すくい上げるように、斜め上から絡め取る。水色の双眸が竦んだ。模造紙についた手がペンの軸を握る。自然に、というのはもう無理だ。なにか意図があることはさすがに伝わったろう。だから敢えて、その意図を明確にしてやる。
(逃げんなよ)
「やるよ」
 目と口で違うことを言いながら、軽く身を屈めた。力移し。その瞬間にぎゅっと目をつぶられて、ああそういう逃げ方もあった、と気づく。子供の逃げ方だった。あまり馴染みがない。
 言ったとおり魔力を渡しつつ、ゴッドはもう一つ別の魔法も作動させて――
「やっぱり駄目か」
 一秒で弾かれてふっと離れた。アクアが潤んだ目を開け、思いの外近い距離に驚いたようにぺたんと座り込む。可哀想なまでの怯え様だったが、そういうことを思うゴッドではなく、アクアが威圧されると分かって、真剣な態度のままで問う。
「お前、ほんっとになんもしてねえんだな?」
「なにも、って」
「力移しの時」
「えと、うん、はい」
 要求魔力は満たしている。アクアは何もしていない。だとすれば。
 背を伸ばして、一歩下がってやって、ゴッドは右手で自身の頭を示した。
「お前、こっちになんかされてるだろ」
「え……」
 漠然とした不安を前に声が震える。揺らぐ瞳をゴッドは受け止めることなく、それとなくかわした。縋りつけない距離から、建前は優しさで、本音は知りたいことに迫る気持ちで言う。
「フィーだっけ? お前が一緒にいたっていう人。その人に会えたら聞いてみろよ。たとえ一瞬でも、生まれた時は親元にいたはずなんだ。そこからどうやってその人と暮らすことになったのか」
 不安な顔は、そのままだった。もう一押し。
「さっきのは俺の見立てでしかないから、ちゃんと確認取ってみるまではわかんねえし。な」
「……はい」
 うなだれるように視線が伏せられる。いまさら笑んでも仕方ないと、ゴッドは線をなぞる目の動きを追いつつ言葉を探す。
 こちらの仕事は完了したが、アクアにはアクアの仕事を仕上げてもらわなくてはならない。さてどうやって魔法陣に戻らせるか、と思案しはじめたときだった。
 すう、と息をのむ音。アクアが身を起こして、書きかけの魔法陣を俯瞰する。鮮やかな水色の瞳がじぐざぐに動いて各パーツのかたちを捉え、きゅぽん、と軽い音を引いてペンのキャップが外れる。
 黒いインクの染みた芯が紙に触れ、乱れのない直線を生んだ。アクアはその行く手を一瞥すると、すぐに他方を見やってそちらへと線を折る。
 先までの動揺は、もうどこにもなかった。ゴッドはすでにあったもののようにつながれていく線を、追うでもなく追う。
 逆光の頬に表情は浮かばず、体育倉庫にはうっすらとインクの臭いと、ペンの走る音だけが漂った。

2014/1/30 (修正 2023/3/9)