=風の精霊ウィンディ=

ゴッド 3

 洗い桶の底に水が跳ねる。その中へ、弁当箱をばらしながら入れ、おかずを仕切っていた小さなカップを取って捨てる。箸まで浸けたら、今度は水筒を分解し、こちらはシンクへ直接置いて、濡らしたスポンジで簡単に洗う。
 いつもはごく短く終わらせる作業だが、
(もうちっとつばけちょきたいなあ)
 弁当箱の、乾いた米粒の様子を見て、自然と急ぐ手をすこし緩めた。
 キッチンカウンター、食卓、そしてソファ越しに、ゴッドたちが集まって座っているのが見える。LDKは広すぎて、手元には水が流れていて、声までは聞こえてこない。けれど、どんなふうに話しているのか見ていれば、なんの話をしているのかはぼんやりと掴めた。
 いまは、学校で彼らを襲った人形の話をしているようだ。ゴッドは膝の上に肘をついて、見下ろす姿勢にならないように、ルビィとアクアを覗き込むようにして話している。なにをしようとしているのか、グロウには丸分かりだった。
(距離を、測りゆう)
 場所は動かなくてもいい。目線の角度で近づいて、すこし言葉で揺すって、相手の表情を読み取って、また離れて。もう一度、どこまで詰めるのが正解か確かめて。
(……おおの)
 自分も必要に応じてやっていることだが、客観的に見ると気分は良くない。その行いが、ではなくて、そういうことを、彼はいつも、自分に見えないところでしているのだと思い出してしまうから。そうさせているのは、ほかでもない自分であるのに。
 水を止めて、水筒のパーツを水切りカゴに伏せ、弁当箱を、ふたを、箸を洗っていく。
 話題は魔法陣にふらりとそれて、マネキンを操っていた敵自身へと移っていた。ルビィは平然と万術師の名を出して、その重大さを分からないアクアは別のところへ目をつける。ゴッドは視線を遅い瞬きで隠して、その空気に倣った。
 そういえば彼に、ルサ・イルのことは教えていなかった。なにもかもを伝えうる力移しだが、開示する内容は技術で絞れる。頭のなか全部なんて到底明かせないグロウは、伝える内容を慎重に選ぶ必要があった。
 たとえば。封じられていた記憶が戻った瞬間、脳裏を駆け巡ったものだとか。学校の廊下であの長身を見つけたときの感情だとか。ルビィやアクアと過ごす日々の、あの頃との違いだとか。
 ゴッドがいることが当たり前になって、もう六年だ。その間、何日も離れていたことだって幾度となくあったが、こんなにどうしようもなく会えなくなるのは初めてだった。会えない。どこにいるかも、どうしているのかも分からない。そんな状況を理解して、まず、グロウは思ったのだ。
 二度と会えなかったら、さて、どうしようか。
 頭は勝手に、ゆっくりと、しかし確実に、必要な対処を編み出そうとしていた。神魔を生きてきたのだ。したたかに育てられて、したたかに手を取り合って生きてきた。会いたいなんて、早く元通りの暮らしがしたいなんて、思っている場合ではないと勘違いしていた。アクアに泣かれるまでそれが勘違いだとも気付かなかった。
 結局、会いたいとまともに言えたのはあの夜だけだった。ゴッドのことを知り尽くしているという自負で組み上げた作戦は、当たり前に功を奏し、グロウはちゃんと自分の張った網で彼を取り返した。でも、会えてよかったとは言えていない。
 弁当箱の泡を流して水を切って、洗剤の隣へスポンジを返す。手の水もタオルで拭き取って、エプロンの腰紐を引く。
 終わってしまった。もう逃げてはいられない。この数秒が最後、と思って深々とため息をはき、顔を上げる。ゴッドと目が合った。

「どういたがで」
 洗い物を終えたグロウは、ソファの側まで歩いてきて、そこで足をとめた。あ、機嫌悪い。まだ長い付き合いじゃないけど、あたしにもすぐわかるぐらい顔に出てる。
 ゴッドは気付いていないのかわざとなのか、変わらない口調で、
「お前さ、魔法解かれる直前のこと覚えてるか? いまがいつで、どこにいて、自分がどうしようとしてたか、とか」
 グロウは立ったまま、なんとなく棘を含んだ声で答える。
「覚えちゃあせん。ずっと気を失うちょって目が覚めた感じやった。でも、そうやね、どこかへ移動しゆうとこやった、ってばあはぼんやり分かった」
 学校帰りだという意識のあったアクアや、あたしたちと会ったことまで覚えていたゴッドとは明らかに違う。
「仮説だ」
 とゴッドが言う。
「グロウはほとんど覚えてない。アクアは少しだけ思い出せる。俺は記憶につながりがある。封印の陣は時間経過で効力が弱まる、と考えられないか」
 びっくりするほど単純な話だった。まさか、と思う。だけどグロウは真剣な顔つきで、
「原因が時間経過かは知らんけど、そうやないかとは思いよった。アクアとルビィ、学校では席が隣ながよ。でもルビィが一番に精霊やと気付いたがは、アクアやのうて偶然廊下で正面からぶつかったうちやった。アクアとはそれまでも手先ばあやったらなんべんも接触があったろうに、よ」
「それって、グロウとアクアの魔力の強さの違いじゃないの?」
 精霊はみんな魔力が大きいとはいえ、個人差は相当ある。あたしは精霊でも稀な大きな魔力を持ってるけど、アクアはそれと比べるとずいぶん頼りない。グロウはおそらく平均的だ。
「大事なのは順番じゃない。最初はアクアのことに気付かなかったのに、あとになって分かったってとこだ。ルビィがここに来た頃と、アクアが精霊だと気付いたときとでは、アクアにかかった魔法の効力が変わってたんじゃないか」
 そこまで噛み砕かれて、やっとあたしにも二人の言いたいことが飲み込めた。黙って話を聞いているアクアを、じっと見つめる。もう黒には見えない瞳と視線がぶつかって、困ったようにそらされた。ゴッドが名前を呼んだのだ。
「アクア。魔法陣の効力が落ちる理由、なにかあるか」
「……耐久力、の問題だと思う。精霊の魔力をずっと押さえておくうちに、魔法陣が弱ったのかも。ルビィは、魔力が強すぎて使おうとした陣を壊しちゃうことがあるって言ってた。それがゆっくり起きると、じわじわ効力がなくなっていくことになるのかもしれない」
 陣のこととなるとアクアは落ち着いている。顔を上げて、はっきりと問う。
「グロウはそれに気付いてたんだな」
 グロウの返事は首肯だった。
「アクアには、ゴッドを足止めするための陣を書いてもうたきね。封印が弱っちゅうとしたら、魔力に反応することができるはず。誰かに呼ばれたばあでは、ゴッドがおとなしゅう待ちよってくれるわけないき。あんたが足止めを正面から受けてくれるような引っかかりは、魔法しかなかった」
 グロウの罠は魔法そのものだった、ということか。記憶に靄がかかっていても、自分のからだが持つ魔力の動き、それを魔法だと感じることができれば、警戒はするけど興味もひかれる。
 ゴッドはグロウに一度目をやるが、そのことには言及しない。
「もしこれが正解なら、もう一人の封印も弱ってるはずだ。魔力が強ければ陣の効果減衰は早まる。時間はあんまりないと考えたほうがいい」
「なんで? もし封印が弱りに弱って、自分が精霊で、何者かに人間界に追いやられたってことまで理解しててくれれば、こっちから接触したときに話が通じやすくなるんじゃない?」
 少なくとも、ゴッドのときみたいに無理なことをして追い詰めなくても、会って話せばなんとかなりそうだ。
「それは楽観しすぎだ」
 あたしの期待は一言で折られた。
「俺はむしろ、そうなってたら問題が増えると思ってる。半端な記憶や把握しきれない魔力は不安のもとにしかならない。相手がどれだけのことを分かってるか、こっちからは確かめようがないだろ。それに五人目が自分の置かれた状況に気づいて勝手に動き出したら、それこそ敵がなにするか分かんねえぞ」
 なるほどー、とまた息をつくことになった。感想をそのままくちにする。
「ゴッドって、よく考えてるねえ」
「グロウには敵わねーよ」
 感心でも尊敬でもない、すっきりとしたただの断言だった。言い切っているのに、気持ちの取りにくい評価。

2013/11/8 (修正 2023/3/9)