=風の精霊ウィンディ=

グロウ 4

 がん、と鈍い音がして、剣は止まった。弾かれるでもなく、刺さるでもなく、正体不明の真っ白な肌の上で、ぴったりと。
「つうう……!」
 行き場を失くした衝撃が全部、自分の両手に返ってくる。人形はあたしの剣を虫でも払うかのように弾き、教室へ戻ろうとする。
「アクア!」
 取り落とした剣を拾いながら振り返ると、アクアは座り込んだまま魔法陣を握りしめて人形を見上げていた。自衛とか反撃とか、そういう行動は期待できそうにない。
 あたしが守らなきゃ。
 人形の腹立たしいほど緩慢な足取りを追い越し、アクアに背を向けて人形の前で腕を広げる。歩みを止めた人形はまた胸の前で手を構えた。
「ルビィ」
「この距離だったら衝撃くるから、伏せて」
「そうじゃなくて、これ」
 アクアが差し出してきたのは、計算用紙の魔法陣だった。
「だからあたし使えないってば」
「そんなことない! 絶対役に立つから!」
「じゃあアクアが使ってよ!」
「ルビィがやった方がうまくいく! そういうふうにできてるんだ!」
 思い切り腕を引かれた。腰が落ちて、座り込んでしまう。アクアは必死になっていて、自分がそうしたことにも気づいていないみたいだった。まっすぐ見つめてくる水色の瞳に、こんな状況で初めて自信の色が見えた。
 ふっ、と視界の端で人形の捧げる光が強くなる。アクアが小さな紙切れを広げてあたしの手に押しつけてくる。
 いちかばちか、いや、もうこれしかない!
「いくよ、アクア!」
 受け取った陣を光球に対抗するように捧げ持つ。紙越しの光がひと際強くなった瞬間、触れた線に魔力が走った。
 光球はあたしの手の数センチ前まで迫って――ふいに消えた。
 違う。魔法陣の作った見えない膜が、光球を形作る魔力を全部、吸収してしまった。エネルギーを逃がすように、その膜が一瞬だけぱっと閃いてその全容を見せる。
 魔法陣を起点に、あたしとアクアに網を被せたような光のドームだった。
「す……っごい」
「ルビィ、次!」
 思わずそれに見入るあたしに、アクアが次の陣を手渡す。改めてその線を見ると、さっきの効果がなおさら信じられなくなった。細くて滑らかな、シャーペンの線。道具も使わず、おそらく授業中に書いただけの落書きなのに。
 アクアの陣は、ルサ・イルの陣さえ内側から破壊したことのあるあたしの魔力に、耐えるどころかあわせて書いたかのように馴染んで、見事な成果を発揮した。
 もう一度、新しい魔法陣に魔力を流す。人形の光球は撃つまでの時間が短くなっている気がしたが、余裕で間に合った。結果は最初と同じ、魔力はすべて光と消える。
「アクア、これ何枚あるの?」
「八枚。時間があればもっと書けるけど」
「それはちょっと厳しいね。でも、もしかしたらもうやっつけられるかも」
 魔法陣を五枚消費して、光球の威力は明らかに弱くなっていた。相手の魔力は限界が近いのかもしれない。対してあたしは、陣しか使ってないからほぼ満タンだ。
「次、防いだら行くから。アクアはそれ使うなり奥に逃げるなりして、怪我しないようにしてて」
「行くって、危ないだろ!」
「頼ってばっかじゃダメでしょ。カッコいいとこ見せないと」
 アクアの手から魔法陣を取って使い、最初からするとだいぶ弱まった光球をいなす。その光が消えきらないうちに立ち上がって、即座に次の攻撃に移る人形へと迫る。
 右肩の上に思い切り剣を引いて、叩き付けるように振り下ろした。
「っ、はあ!」
 ざく、と剣先が吸い込まれるように人形の肩に沈んだ。そのまま、勢いが減じることもなく股下まで突き抜ける。真っ二つだった。
 やった。思った瞬間、光が弾けた。
「ルビィ!」
 悲鳴みたいなアクアの声。視界が全部真っ白になって、
「え」
 光の爆弾になった人形が、いきなり左手へ吹っ飛んだ。なにが起きたのか理解できないまま、ふと頬に魔力の余波を感じてそちらへ目をやると、
「間一髪? ってほどでもないか。大丈夫そうでなにより」
 ぽす、と頭に手を置かれ、取れかけていた帽子の位置が正される。明坂熱斗がまっすぐこちらを見下ろしていた。――いや、もうゴッド・ファイアルと呼んだほうがいいかもしれない。精霊服、は一瞬見えたかと思うとすぐ消えて、右手の剣、も目をやった瞬間に消される。頭の上の手も退いて、残されたのは黒い人形が現れる前と同じ、制服姿の男子だった。
 だけど明らかに違うところがある。焦げ茶だった瞳は底で夕陽を反射するような橙色で、それになにより雰囲気が違う。最初あれだけ攻撃的で疑いたっぷりの態度だったのが、いまや突然帽子を正されたことも不自然じゃないくらい、友好的というか、距離や壁がないというか。
「えーと、ありがとう?」
「どういたしまして。それよりごめんな。さっきは変に突っかかったりして」
「いいよ、別に。魔法解く前と後じゃ……え?」
 覚えてる、ってこと? 魔法がかかってた間のことを?
 魔法が解けた途端、泣き出してどうしようもなくなってしまったアクアはもちろん、冷静に状況把握していたグロウでさえも、魔法がかかっていた期間のことは鮮明には思い出せないと言っていた。人との接し方や学校での過ごし方などの漠然とした感覚はあっても、魔法が解ける直前のやり取りみたいな細かいことは記憶にないという。
「あたしたちとなに話したか、覚えてるの?」
「その話はもんてからにしい」
 ゴッドの背後からグロウが現れた。黒と暗い黄の精霊服を、さっと制服に切り替えて教室を覗く。
「アクア。大丈夫かえ? 腰抜けた?」
 グロウが言ってからはっと思い出した。そうだ、アクアほったらかしだった。カッコいいとこ見せるとか言っておいて、これじゃダメダメだ。
「アクアごめん! 魔法陣、ほんと役に立った! ありがとう!」
 精霊服のままへたり込んでいるアクアに駆け寄って情けなく頭を下げる。アクアは驚いたみたいに唇を開いたまま、無言で首を横に振った。そうして、ちょっと顔を赤くして、感激したみたいに言う。
「おれこそ、使ってもらってありがとう。フィー以外に使ってもらうの、初めてで、でもうまくいって、嬉しい。……それに、ルビィかっこよかったよ」
 かっこよかった。そっか、そうか。かっこよく見えたんだ、アクアには。
 アクアの手を取って立たせてやる。怪我はないようだ。うん、守れた。今日のはじゃあ、それなりにうまくできたんじゃないかな。
「ちょっと、あんたらあ帰らんが? ここで誰かに見つかったらおおごとで」
「見つかる、って誰に?」
 敵は退散したんじゃないの? と首を傾げると、アクアが、
「あっ」
 と声を上げた。その視線を追うと、
「あー、これは…………」
 割れた窓、吹き飛ばされた机、あちこちに飛散したガラスの破片。教卓は見事逆さになり、廊下の壁には光球の衝撃を逃がした跡がついていた。
「早う精霊服しまい。もう細工も残っちゃあせんき、いつ人が来るやらわからん。向かいの校舎通って荷物取りに戻るで」
「その前に、俺の荷物あれなんだけど」
 ゴッドが散らかった机の間を指さす。よく見れば周りには鞄から投げ出されたと思える教科書やノートが散らばっていた。

2013/5/18 (修正 2023/3/9)