階段の、最後の段を静かに降りる。壁に張りついて息を殺し、廊下の様子をうかがう。誰もいない。
「苑美、どう?」
後ろから細い声が尋ねる。いつもは甘ったるいアクアの声は、緊張のせいかひんやりと響いた。振り返ると、アクアは階段を降りてすぐのところに、距離を測りかねたように立っていた。
「ばっちり。いつでも大丈夫」
親指を立てて言っても、アクアは浮かない顔だ。相槌も返ってこない。向こうから行こうと言いだしてくれるとも思えず、あたしは勝手に話を進めた。
「じゃあ行こっか。精霊服出せるよね」
「え? いるの?」
いきなり反応が良くなってびっくりする。いらないの? と言い返しかけて、ふと気づいた。ここは学校で、いまから会う相手はまだ人間界の中学生としての感覚しか持ってない。時間稼ぎのためにはあまり相手を刺激しないほうがいいように思える。
「そうか、そうだよね。よし。じゃあ行こう!」
「わっ」
危うくあたしを止めてくれたアクアの手を引っ張って、廊下へ大きく一歩踏み出す。
二つの教室を通り過ぎ、C組の後ろまで来て足を止める。途中で見た時計はまだ四時前で、空は青く廊下は明るい。物音はどれも遠くから聞こえる。校舎にあたしたちふたりだけになった気分だ。
アクアと顔を見合わせ、お互いに無言でうなずく。そして前に向き直った勢いのまま、教室のドアを引き開けた。
目的地であるD組の教室はほかのクラスと同じく、電気のついていないがらんとした空間だった。掃除のあとも机の並びはどこか雑で、何か所かは椅子が引きっぱなしになっている。
そのひとは、最後列、真ん中の席の前に立っていた。
ワイシャツの袖を肘までまくり、後ろ手に黒いスクールバッグを押さえている。髪は濃い茶髪。だいぶ背が高いみたいだ。そこまで把握したところで、彼はおもむろに、隙のない動作でこちらへ顔を向けた。
きれいなひとだった。唇はしっかりと結ばれて、眉はわずかにひそめられ、瞳の大きさに対して視線は刺すほどに鋭い。けれど、警戒の表情を浮かべる顔はどこもかしこもおそろしく整っていて華やかで、女の人みたいなわけじゃないけど、美人というほかない。
ついまじまじと見入ってしまって、最初の言葉をかけそこねた。いまは魔力の色のない瞳が、乏しいひかりを集めてひかる。動きあぐねていると、熱斗は周囲にさっと視線を滑らせて、再びあたしをしっかりと睨んだ。グロウがなにをどうやったのかは知らないけど、彼はこの状況をはっきりおかしいと認識しているらしい。そして、あたしたちはそれに関わっているとも思っている。
一歩、教室に踏み入ってみる。熱斗は動かない。
「アクアはそこにいて」
厳しい疑いの目にさらされながら、あたしは無言のまま机と机の間を進んだ。
「これ、お前がやったのか」
あと四歩くらいの距離に近づいたところで、頭一個分どころじゃない身長差から糾弾するような声が投げつけられた。
「これってなんのこと?」
咄嗟に知らないふりをするが、熱斗はきっぱり、
「図星だな」
と言い切る。その視線の先を追うと、
「っ」
ばれたはずだ。教室を入ってすぐのところに立って、アクアは完全に怯えた表情をしていた。反射のようにごめん、と謝ろうとするアクアを手で制しかけて、
「うぐっ」
「逃げんな。説明しろよ」
強い力で襟首を捕らえられる。持ち上げられるんじゃないかと思うほど乱暴な手つきだ。
「苑美!」
アクアが名前を呼んだそのとき、教室のドアが勢いよく開いた。グロウが頭だけを室内に突っこみ息も荒く叫ぶ。
「早う教室出て! 窓から離れ!」
まるで全力疾走のあとみたいな声だ。そう思いながら目は自然と窓に向かって――
「!」
真っ黒な影が窓に迫る。影の前に光の塊が現れる。次の瞬間、けたたましい音をたてて窓ガラスが砕け散った。
「っ、ウィンディ!」
「ひっ!」
短い悲鳴を上げるアクアを腕で庇って床に伏せる。窓を叩き割っただけでは起こり得ない衝撃が教室を駆け抜けた。精霊服のマントが背中に押しつけられ、ガラスの破片が次々ぶつかる。
「こっち!」
グロウがまた呼ぶ。あたしはアクアの手を掴んで、無傷かどうか確かめるのももどかしく立ち上がった。熱斗がグロウの指示を聞いてくれるか心配だったけど、あたしたちが動き出すと黙って廊下へと向かってくれた。
全員が足早に廊下へと避難して、教室の中を振り返る。散らかされた机に囲まれて、真っ黒な人間のかたちが立っていた。
なにあれ、と聞く前に突き飛ばされた。アクアを巻き込んで倒れた目の前を、また光と衝撃が走り抜ける。今度は廊下の窓が外から割られていた。
「見つかった! 黒いがと、ゴッドの魔法はうちが解くき、それの相手して!」
グロウの声が遠ざかりながら言う。ちらりと見えた後姿は黄土色の上衣に黒い胸当てをつけた精霊服姿。つまりここは、戦わなきゃいけない場面だ。
それ、と呼ばれたのは目も口もない真っ白なマネキンだった。それが尻餅をついたあたしとアクアを気配だけで見下ろしている。
「アクア、立てる?」
「うん」
「精霊服出して」
「あ、ちょっと待って」
人形と睨みあったまま立ち上がり、じりじりと後ずさる。そんな中で、アクアはなにやらためらっていた。
「出せるんでしょ?」
「そうだけど……」
アクアが渋っているうちに人形が一歩近寄ってくる。あたしは剣を抜いて相手の動きに備える。
背後には教室のドア。避けてしまうと学校はめちゃくちゃになる。弾くにしても方向を考えなくちゃいけない。確実なのは正面から受け止めてあたしの魔力と相殺することだけど、アクアにその余波が及んでしまう可能性がある。そうなったときに精霊服があるかないかで結果は大きく変わってくる。
「アクア! 早く!」
人形の手がゆらりと持ち上がる。白い両手のひらの間に、さらに白い光が渦を巻き、球を作る。
「待って、先にこれ使って!」
肩越しにアクアが差し出してきたのは、教室の後ろに置いてある計算用紙だった。余ったプリントを再利用しているため、文字がびっしり印刷されている。
「使うって」
「裏!」
言われてひっくり返すと、そこにはシャーペンの線で陣が引かれていた。効果はわかんないけど見るからに落書きだ。こんな緊急事態にこんなもの使えるわけがない。
人形の支える光球が拡大を止める。
「あーもう!」
「わあっ!」
剣を下ろして振り返り、乱暴にドアを開けて、そのままアクアに体当たり。折り重なって倒れた頭上を、空気を鳴らして光の球が通り抜け、教卓を吹っ飛ばした。
がらんがらんと教卓が音を立てる、その反対側から人形の硬い足音がする。
「アクア! 精霊服!」
「わかったから!」
引きずるように起き上がらせたアクアが、制服のポケットに手を入れて紙切れをいくつも引っ張り出す。全部計算用紙で、白い面には同じ魔法陣が書かれていた。それをすべて出し終えてから、アクアは精霊服を出した。あたしと違って無駄な魔力の放出もない。
「おれ、これやなんだけど」
「つべこべ言わない!」
初代が決めたと言われている精霊服には元祖ルサ・イルの魔法がかかっていて、そのデザインや仕組みはいまの精霊には手出しができない領域だ。アクアの精霊服は、両腕と左肩が剥き出し、右の肩当ても見るからに装飾用、ズボンは普通だが布はやたら薄いという心もとない三拍子がそろっているが、精霊服の魔法は布のあるなし関係なく全身に及ぶのだ。生腕で身を庇う怖さには体で慣れていくしかない。
「とにかくその魔法陣拾って。次が来る」
「使わないの?」
「暴発したら危ないでしょ。あたし魔力強すぎてよく陣壊すから」
再び人形が両手をあわせた。教壇を強く踏み、その手の間を狙って剣を振り上げる。刀身の重さは魔力でごまかさず、勢いを殺さない。光球が制御を失ったただのエネルギーになって四散しようとする。
その瞬間、ほとんど魔力そのままの風が人形の全身を包んだ。光球だった力は散り散りになって人形に降りかかり、廊下の損壊は免れる。すこしは壁に物がぶつかったような跡ができたが、そこまではカバーしきれない。
怯んでいるのか次の攻撃準備なのか、無傷のまま棒立ちしている人形に斬りかかる。狙いは右手首だ。剣に魔力を注いで切れ味を補強し、頭の上から降り下ろす。
が、
「っ!」