◇
精霊だからに決まってるでしょ。
アクアの中で、少女の声がこだまする。
魔法を解かれた瞬間、全身を駆け抜けた動揺はいまも消えない。今いる世界への不思議な馴染みと違和感。フィーがそばにいない、それだけでこみ上げてくる不安。ずっと知らされずにいた神魔戦争という出来事。その中を生きてきた少女たちの言葉。精霊という立場が持つ本当の意味。
封印が解ける感覚は、押し寄せてくるそんな現状をぎゅっと凝縮したような混乱に満ち満ちていた。それを飲み込むことも乗り越えることもできず、アクアはこの二日、いつ崩れ落ちるか知れない自分を押し留めてきた。
学校に行けば定がいる。なぜか定とは親しい関係が築かれていたため、友達を増やす余裕のない河音は定ととりとめのない会話を交わすことで、人間界や学校への不思議な慣れと不慣れから目をそらしていた。
そうできない時間はひたすら魔法陣を書いた。フィーに習った陣を書いていると、その間だけは無心になれる。どんな未知の世界にいても、どんな大変な役目があっても、誰がいてもいなくても、陣に向き合うとき、アクアは不安にならない。気になるのは自分の指が導く線の行方ばかりで、フィーがいない寂しさもこの時だけは忘れられる。
そうやって、いつ泣き出して、立ち止まって、うずくまってしまうかわからない自分を、アクアは必死にごまかしてきた。ごまかすだけで精いっぱいだった。
なのに、ルビィは。
精霊だから、の一言でなにもかもを受け入れてみせる。
いっときフィーと会えないだけのアクアが音を上げそうだというのに、母親やルサ・イルといった大好きなひとを失ったルビィは、兄のもとを離れて人間界にやって来た。頼る相手のいない世界で一人きり、誰かにすがりたくなるだろうにグロウにもアクアにもそんなことはせず、精霊としての役目を果たそうとする。敵の強大さも、アクアよりずっと早くから意識していたはずだ。けれど恐れる様子は見せない。
(ルビィは、強いな)
階段を上がっていく小さな少女の背中を、アクアはただ見上げるしかできない。
(強くて、かっこいい)
その視線に、憧れのような気持ちを込めて。
◇
グロウのお膳立てした最高のタイミングを待つため、あたしたちは屋上へ向かった。
スカートの裾を風が叩いていく。空は穏やかに雲を浮かべている。離れたところから、帰っていく生徒や、部活をしているひとの声が聞こえる。眠くなりそうなほど、のどかな午後だった。
人目につくのは昼休み以上にまずいから、塔屋の影に立っているしかない。グロウはそこで本日の作戦を教えてくれた。
二年の階には、グロウがアクアの魔法陣を含むいくつかの仕掛けを施してある。うまくいけばほかの生徒がいなくなる頃合に、熱斗ひとりだけが戻ってくるはずだ。グロウに言わせれば、はずじゃなく絶対らしいけど。アクアに書かされた陣の効果を聞いても、どこの家にもある照明陣の簡易版で、仕掛けの全容は見えなかった。
あたしとアクアはまず熱斗と接触し、グロウが仕掛けを回収する時間を稼ぐ。本当なら魔法を解いてからやりたい作業だけど、学校は敵の監視の範囲内だ。ゆっくりしている時間はない。うまくいけばその間に封印も解いてしまいたいが、グロウの読みではそう都合よくはいかないだろうということだった。
あとは素早く撤収すること。それについては封印の魔法さえ解ければ心配はないらしい。
見積もりが甘いという感じはしない。けど、
「そううまくいくかなあ?」
ゴッド・ファイアルがどんなひとか知らないけど、人間相手に魔法陣を使って魔法を解くというのは簡単なことじゃない。
「アクアのときは不意打ちできてすぐに解けたけどさ。グロウはたいへんだったじゃん。疑われるし躱されるし」
「そうだったの?」
「だってルビィ怪しかったがやもん。うちが精霊って気づいて即、人目につかんとこへ連れてこうとするがで。普通すんなりついてかんろ」
驚くアクアにグロウはそう訴えた。
「やき次に精霊見つけてもその場でどうこうせんつつ、様子をうかごうて不意打ちがえいでって。できれば事前に相談もしてほしかったがやけどね」
「ごめんてば。でも、今回はどうすんの? 時間稼ぎって不意打ちと逆じゃない? 一対三で囲んじゃえばいいってこと?」
「そんなもんで仕留めれる相手やないで」
ふっ、となぜかグロウは自慢げに薄い笑みを浮かべる。仕留めるって、敵はそっちじゃないんだけど。呆れるあたしとは違って、アクアはなにかに気づいたみたいに尋ねた。
「もしかして、グロウが言ってた会いたいひとって、その、ゴッドのこと?」
なにその話。あたし聞いてない。ばっ、とグロウを振り向くと、グロウはいたずらっぽく、
「遠からず、やね」
と答えた。そんな謎めいた言い方されても、あたしには全然わかんない。
「どういうこと? ていうかほんとに、ゴッドってどういうひとなの? グロウのなに?」
「なにち、そらうちと父さんの……うーん、なんやおね。自慢の……手塩にかけた……なんか違うねえ」
グロウはどこか楽しそうに言葉を選び、ふいに、
「そろそろ時間やね。行こうか」
と踵を返す。
「えーっ、なになに? なんで教えてくんないのー?」
「もう何分もせんうちに会えるやん。スピード勝負やきね。うちが合図したら一発で決めてよ。頼んだで」
そう念を押されては、もったいぶった話に文句を言っている場合ではない。
「頼まれた!」
「わかった。がんばる」
あたしはやる気いっぱいに、アクアは緊張の面持ちで、グロウの言葉に応じる。
詳しいことを聞かなくても、グロウにとってゴッドが特別なのはあたしにだってわかる。一緒にあの神魔を乗り越えたんだ。あたしたちにとって最悪の出来事だった神魔を、悪いことだけじゃなかったと思わせてくれるのは、そういう人たちだけなんだから。