=風の精霊ウィンディ=

グロウ 1

 ゴッド・ファイアル。人間界では明坂熱斗。今代炎の精霊。神魔戦争中、精霊狩りで母親を亡くしたことをきっかけに、グロウの家に引き取られる。以降はグロウのお父さんが精霊狩りに遭ってからも、二人で助け合って生活していた。第二の精霊狩りが起きる、その日まで。
 昨夜グロウが教えてくれたゴッドの情報は、なんとこれだけだった。一緒に生活していたんだから、ほとんどなんでも知ってるだろうに。そう言うと、
「ほかになんぞいる? 顔らあ見たらわかるし、性格らあ説明したとこで魔法解くにあたって役に立つわけでもないし」
 と一蹴された。
 そんなことを考えていたせいで、今日の授業はちっとも耳に入ってこない。ぼんやり眺める黒板はもう二周目に入っているけれど、あたしのノートは真っ白だ。
 窓の外を見てもさっきと同じ景色、時計を見てもさっきと同じ時間。まだ五時間目が始まってから二十分も経っていない。
「……はあ」
 ついパタパタと上履きを鳴らしてしまう足だけが、時間の経過とともに疲れていく。落ち着かない。
 今日の放課後、あたしたちはゴッド・ファイアル、明坂熱斗にかけられた封印の魔法を解く。
 楓生はそのために朝から学校中をうろちょろしていた。明坂熱斗は二年生だし、敵はこの学校を見張っているかもしれないし、いろいろ準備が必要らしい。
 隣の席をうかがうと、意外にも河音は授業のノートを取っていなかった。
 広げているのは自由帳で、書いているのは魔法陣。ページを丸ごと使って、繊細な陣が形作られていく。そういえばグロウになにか、こそこそと頼まれ事をしていた。それを書いているのかは、横からのぞき見したくらいじゃわからない。そもそも、あたしじゃ知らない陣の効果を言い当てるなんてできない。
 あたしの視線にも気づかない河音は、陣に気を取られているというより、落ち着かなさを陣で紛らわしているようだった。そわそわしてるのは、あたしだけじゃなかったみたいだ。
 安心すると、また無意識に時計を見上げてしまう。秒針は腹立たしいほどもったいをつけて、やっとひとつカチリと動いた。

 ホームルームが終わるなり、あたしと河音はそそくさと席を立った。掃除当番の椎羅が「ばいばい」と手を振るので、それに応えて教室を出る。
「早瀬」
 連れ立って楓生のクラスへ向かおうとしたところへ、男子の声がかかった。振り返ると、河音の友達が教室の窓から顔を出していた。名前は……覚えてない。
「ごめん、おれ今日は先帰るね」
「それはもう聞いたって。それより、ノートまだ借りてていい?」
 男子が赤っぽいノートを掲げる。表紙にはきれいな字で英語と書かれていた。
「うん、宿題は別の紙にやってくるから」
「ならよかった。オレも明日は宿題やんなきゃな。じゃあな!」
 男子の頭が教室へ引っ込んでいく。あたしは河音の袖を引っ張って尋ねる。
「ね。さっきの男子、なんて名前?」
「ああ、定だよ。依川定。……もしかして、クラスの人の名前覚えてないの?」
「同じクラスだと河音と椎羅しかわかんないなあ。こんなに大勢の名前いっぺんには覚えられないよ。みんな年も一緒だし、人間界の名前だし」
 あたしのこれまでの知り合いはごく少ない。同い年の友達となると一人もいなかった。そのせいか、あたしの友達は楓生と仲の良かった江藤椎羅と椎矢の二人だけだ。いまではクラス内に決まったグループができているようで、昼休みも基本はその四人で集まっている。
「河音は依川以外に友達いないの?」
「うーん、友達って言えるのは定くらいかも」
「じゃあさ」
 ちらっと、横目で河音をうかがいながら言う。
「依川と最初に会った頃のことって覚えてる?」
 河音はその、ごく簡単な質問に答えようとして、
「……え、っと」
 言葉に詰まった。そして戸惑いがちに、確かめるようにつぶやく。
「思い出せない……」
 やっぱり楓生と同じだ。そう思いながら、あたしは続けて聞いた。
「じゃあ、いまの家に来る前は学校が終わったらどこへ帰ってた?」
「苑美……おれ、おととい言われたんだ。楓生に、これまでのこと思い出そうとしても無理だと思うって」
 すがるような目を向けられる。いつの間にかあたしたちは立ち止まっていた。
「やっぱり。あたしが魔法を解くまでのこと、覚えてないでしょ」
「うん。でも、定が友達だってことは知ってる。担任の先生の名前もわかる。教室の場所とか、自分の席とか、そういうのはわかるのに……なんで……」
 楓生も同じことを言っていた。学校以外の人間界でのことや、飛ばされた時のこと、魔法をかけた人間に関わることは記憶から消えている。そしてあたしと楓生は、仮の結論をひとつ出した。
「そういうふうに、されてるからだよ」
「え?」
「記憶と魔力を取り戻しても、精霊は犯人を追えない。細々と記憶をいじってるとは思えないけど、ぼやかしてるのはきっとわざと。全部敵がやったんだよ、河音。これが、あたしたちの敵のできることだよ」
「じゃあおれたち、そんな人と――」
「戦うよ、そんなやつと」
 息をのむ音。水色の瞳がなにか言いたげに揺れる。くちを開くのは、あたしより河音が早かった。
「苑美は、怖くないの?」
 一瞬、返事に困る。なんであたしのこと聞くんだろう。怖いのは河音のほうだと思うんだけど。
「なんで?」
「だって、おれは怖いよ……」
 河音は眉を下げて切実そうに言う。怖い、怖いか。あんまり意識しなかった言葉を投げかけられて、あたしは改めて自分の気持ちを考えてみた。あたしは強いけど、精霊としては新米だ。ここは魔法のない世界で、手ごわい敵はどこからあたしたちを見てるかしれない。怖いかどうか。
「怖くないよ。ちゃんとできるかは不安だけど」
「どうして?」
 ひどく難しい話みたいに、河音が問う。でも、あたしにはそんな質問、なんにも難しくなんかない。
「そんなの、精霊だからに決まってるでしょ」
「…………」
 河音は、驚いたような呆れたような表情で絶句していた。正直、表情だけじゃどう思われたのか読めない。あんまり悪い感想だったらやだなと思いつつ、あたしは河音の背を押した。
「ほら。行くよ、河音」
 そう言って目をやった先に、楓生が立っていた。その右手が天井、上の階を示す。
「なんの話しよったか知らんけど、切り替え。行くで」
 楓生はたぶん知ってる。あたしは以前この話をしたときの、楓生の厳しい顔を知ってる。それでも怯んでられないのが精霊だ。
「大丈夫だよ、河音。あたしと楓生がついてるから」
 肩を叩くと、河音は思い切ったようにうなずいた。

2012/12/16 (修正 2023/3/9)