アクアの話しぶりからすると、フィーが戦う魔法を教える人だとは思えない。でも、精霊にとってはなにより大事なことだ。あたしたちは魔界を守る命綱、魔法が上手なだけじゃなく、強くなくっちゃ役目を果たせない。
精霊の魔法は、魔界で一般的に使われている魔法陣によるものとは異なる。あたしなら風、グロウなら雷、そういうイメージに乗せることで、魔法陣を使わずとも魔力をただのエネルギーじゃなく、魔法のかたちで発することができる。だけど精霊の魔力は強大だ。自在に操るのは、イメージに乗っけるだけじゃ難しい。そのための特別な道具がある。
あたしは立ち上がってすこしフェンス側に寄り、足を肩幅に開いてしっかりと立った。
「ねえこれは? やったことある?」
両手を右腰のあたりに持っていき、意識して息を吸う。魔法と呼ぶほどのこともない魔法のために、いまやほとんど使われなくなった呪文をくちにする。君は魔力が強すぎるから、と、アルサに勧められて覚えた呪文だ。
「風よ」
それでも加減が利かず、多すぎる魔力の余波で足元から風が立つ。いつもそうだ。
「その、偉大なる力を我に。風の精霊、ルビィ・ウィンディが命じる」
一瞬、すべての風が静まった。
右腰で握った指が硬いものを掴む。ばさり、背中に砂色のマントが広がる。同時に制服は同じ砂色の、首まで覆う長袖と長ズボンに入れ替わる。上履きは薄いピンク色の木靴に替わり、腰には茶色いベルトと、手の中の剣を覆う鞘が下がった。
左手を振り抜く。目の前に掲げられたのは、あたしの腕くらい長い、重そうな剣だった。飾り気はほとんどなく、金なのかどうかはわからない金属の柄に、ひとつだけ赤い石がはまっている。そのなかには見えないけれど魔法陣があって、それがあたしにこの剣を軽々と振り回させてくれる。
「はいっ、これが精霊服!」
右手で、赤い石で羽根飾りを留めた砂色の帽子を押さえ、剣を収めた左腕でマントを払う。ぽかんと見ていたアクアは、思い出したように何度か瞬きをして、
「ええと、うん、たぶん知ってる」
「そうなの?」
「あっ、出す練習しただけだからどういうものかとかは知らないけど」
「じゃああたしが説明するよ。これ全部初代ルサ・イルの――」
あたしが親切に説明を始めようとしたときだった。きーん、こーん、と予鈴が鳴り始めて、そして、
「あんたは! なに考えゆうがで!」
ばーんと扉が開いて、つかつかつかと歩いてきたグロウがあたしの頭をぶっ叩いた。
「いっ、たあ!」
「なんべん言うたら分かるがよ! こんなところで見える魔法使われんろ! ちったあ考え!」
「ここだったら見えないって言ったのはグロウでしょー?」
「それは見える!」
グロウが指さす方を見ると、あたしの身長よりも長いマントがばさばさと風に舞い上がっていた。
「ほんとだ……」
「はよう仕舞い!」
おとなしく精霊服を消して、臙脂と白の制服姿に戻る。予鈴は完全に鳴り終えていた。
「うわ、もう教室戻んなきゃ」
「苑美、これ」
「ありがとアクア!」
アクア、えーと、河音がまとめてくれたお弁当を受け取って、二人で扉まで走る。楓生は当然のように、一足先に建物へ入っていた。そして聞く。
「あんたら急がんでえいが?」
それを聞いてはっとしたように河音が、
「そういえば、五時間目って」
「体育! 着替え間に合わないー!」
本気で走り出したあたしたちに、悠々と歩く楓生が手を振りながら言う。
「転びなさんなよー」
結局体育にはすこし遅れて、あたしは椎羅に、河音は男子の友達に、それぞれ遅かったねと言われて返事に困ったのだった。
その日は学校が終わってからも忙しかった。
家に帰って鞄を置き、三人で買い出しに行くと、スーパーはちょうど安売りの日でひどく混んでいた。手に手に買い物袋を提げて、帰りついたときにはもう日が沈みかけている。慌ただしく晩ご飯を作るグロウをあたしとアクアも手伝った。そのときグロウに「アクアに迂闊なこと聞きなよ」と釘を刺されて、食事中は聞きたいことも聞けず無難な会話に終始した。
ようやくじっくり話せそうな時間ができたのは、夜になってからのことだ。
アクアは二階からペンとノートを持ってきて、ダイニングでなにか書いている。食器洗いを終えたグロウが、
「魔法陣?」
と声をかけ、ぼーっとテレビのニュースを見ていたあたしはハッと眠くなっていた目を開いた。
「なになに、なに書いてんの」
ペンだこをいくつも作ってグロウに陣書きと見抜かれ、育ての親に習ったことといえば魔法陣だけというアクアがどんな陣を書くのか。
興味津々で覗き込んだノートには、書きかけの魔法陣がひとつ、静かにその線を広げていた。
どういう陣かはわからない。だけど白いページに染みこんでいくインクの道は、アルサを思い出すようで心地よかった。直線はわずかもぶれず、外周は完全な円で、つなぎ目がどこにも見えない。
ただ、紙の上を走り回る線はアルサとは段違いに細かった。使ってもいないのに、いまにも粉々になりそうに思える。アルサの太い線は、どんなに見慣れても繊細な顔立ちと似合わなかったけれど、アクアにはその細さがやけに似合っていた。
「これは……」
なんかのとき、助けてもらうとか無理かも。あのルサ・イルの陣すら、あたしの全力の魔力量には耐えかねて砕け散った。この陣では何秒もつかわからない。
「たいした陣じゃないけど。普通に部屋の照明とかにするやつだから」
あたしの言葉をどう取ったのか、アクアは陣の解説をしてくれた。言われてみればどこか見覚えがあるような気がしなくもない。……これだからあたしは、アルサに陣書きに育てるのを諦められたのだ。
「でも、うまいでね。アクア、フィーっていうひとも陣書きなが? どこか事務所に所属しちゃあせんかった?」
魔法陣から視線を動かさないまま、グロウが真剣に尋ねる。アクアも続きを書きながら、紙から顔を上げない。
「事務所? そういうのは聞いたことないと思う」
「なら個人営業?」
「野菜とか花は売ってたけど、魔法陣の仕事はしてないよ。ただおれが好きだから、いっぱい教えてくれただけで」
「……その野菜とか花はどうやって売りよったが?」
「たまにおじいさんが日用品を持って引き取りに来てくれて、筆記用具とかはそこでもらって……できた」
ふわりとペン先が紙面を離れた。出来映えをたしかめるように、アクアはノートを持ち上げて目の前に立てる。きれいな陣だった。
「きれー。すっごい上手」
あたしは素直に褒めちぎる。頼りなくみえるけど、きっと使い心地は抜群なんだろう。魔法陣の仕組みとか理論とか全然わかんないけど、アルサの陣を見てきたから良い陣だけはわかる。これはめちゃくちゃ良い陣だ。
「絶対すごいよ、これ。使ってみたい」
「そうやね。細かいとこがちゃんとしちゅう。しかもフリーハンド? 練習もだいぶしたがやろうけど、センスやね」
絶賛を受けたアクアは、恥ずかしそうにノートを閉じて、
「そんな、おれはずっとこれしかしてなかっただけで……でも、ありがとう」
慌ただしく筆記具をまとめながら、そんな言葉。この陣がすごいのはほんとのことなんだから、アクアがお礼を言うところではないんだけど。
「こればあの陣書きがおったら心強いちや。まだいくつか聞きたいこともあるけんど、とりあえずお風呂の準備しょうかね」
グロウがそう言って立ち上がる。お風呂を洗いに行くんだろう。あたしはアクアの隣に残って、グロウの背中に声をかける。
「お湯ためるなら一緒に入ってー」
「またあ?」
「?」
アクアがきょとんとした顔で首を傾げたけど、あたしはあえてなにかを言いはしなかった。