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「アクア、ちょっとかまん?」
階段を上がったところで、アクアは後ろからの呼びかけに足をとめた。振り返ると、寝間着姿のグロウが、階段の最後の一段に裸足の右足だけを乗せていた。
背後にはオレンジ色の薄明かり一つ、そのスイッチをグロウがぱちん、と切る。暗くなった階段を離れ、アクアを促して廊下を歩き出す。
「えっと」
「部屋寄らいて」
言いつつグロウがドアを開けた。アクアは黙ってうなずき、その背に続いて今日から自室となった部屋に入る。
部屋の窓は開いていた。グロウが電気をつけ、その窓を閉める。夕方案内されたときはまだ澱んでいた空気が、夜に冷えたせいもあってか、すこし透明に思えた。
「まあ座りや」
「うん」
ベッドに腰を下ろして、ノートや筆箱もその辺に置く。グロウは机の前の椅子を斜めに引いてそれに座った。
どうしたの? とアクアは聞かない。なんの用事かなあ、と思いながら黙っている。
「アクア。聞きたいことあったら、なんでも聞いてえいがで」
グロウがその様子を、そんな言葉でやんわりと咎めた。
「分からんことも、教えてもろうて安心したいことも、どっさりあるろう? 全部答えれるとは限らんけど、言うばあでも言うてみいや。うちとルビィとがこれは大事やろうと思うことは説明したけんど、それであんたの知りたいこと全部には足らんろうし」
言われたアクアは素直に考える。自分が知りたいこと、聞きたいこと、わかればきっと安心できること。
「フィー、が……どうしてるか気になる。けど、それこそ聞いてもわからないし……」
「えいがちや。言うてみや」
戸惑うアクアの濁した語尾を、グロウがあっさりと流してみせる。
「人に言うばあでも違うろ。怖いとかしんどいとか帰りたいとか、そんなことでも」
帰りたい。その響きが耳に残った。帰りたいなんて、思ったことなかった。だってアクアは、ずっと同じ場所にいた。どんなに家を遠く離れても、そこはまだフィーとの暮らしの内側だった。怖いことなどなにもなくて、知らない人などひとりもいなくて、いつでもフィーの声が聞けて、フィーの顔が見られて、フィーに触れられる。
そういう場所に、あの日常に、フィーのいるところに、
「帰りたい……フィーに、会いたい……っ」
天井の明かりがぼやけた。そう思ったときには涙がこぼれていた。
当たり前だった。いままでなにも知らされず、ただ平和にフィーと暮らしていればよかった。なのに突然、見ず知らずの世界に放り出され、人の命をも奪う悪意に晒されていると聞かされ、その悪意に立ち向かわねばならないと求められて。そんなものに、耐えられるわけがないのだ。
グロウはそういうことを全部分かった顔をしていた。ぼろぼろ、最初の一粒を追うように落ちていく涙を、目を細めて見ている。
「グロウも、帰りたいの?」
服の袖で涙を拭って、アクアは震える声で聞いた。グロウがすこし笑ってうなずく。
「そう。うちもあの家に帰りたいし、会いたい人もおる。人間界もちょっとは慣れたけど、やっぱり魔界とは違うし。それに魔法解かれる前のこと覚えてないがも不安でね。明日、学校でどうしたらえいやら分からんろ」
思っていたことを言い当てられて、涙が止まるほどびっくりした。
「もしかして、グロウも?」
「そらそうよ。昨日のこと、今日の午前中のこと、はっきり思い出せんろう? うちもそうやったがで。友達のこととか授業のことはぼんやり記憶にあって、それなりに普通には過ごせるけど、空白は空白のままやし。怖いし気持ち悪いでね」
アクアは意外な思いでその話を聞いた。グロウはなにもかも了解済みであるかのように、平然と現状を受け入れているみたいだったのに。
そう思っていたことはすぐにばれたらしく、
「うちはそんなことで怖がっちょったようには見えんかった?」
「うん……ルビィよりしっかりしてそうだし、家のこともやってたし、なんか、余裕があるっていうか」
「余裕ねえ。まあ、できるだけ余裕持っておろうとはしゆうけんど。……うちも会いたい人おるって言うたろ」
言葉を選ぶように、声がゆっくりになる。
「しんどいけど、怖いけど、帰りたいくへ帰るには、会いたい人と会うには、そっぱあのこと堪えてがんばらないかんがよね。いま堪えたら、ちっとでも会えるがが早うなると思うたら、我慢するがも楽になるろう。やき、アクアはフィーに会うためにちょっとの間がんばろうと思うてみいや。いきなり精霊としてなんかしょうらあて、心からは思えんろ?」
そう言うグロウは、ルビィと同じで、精霊だからという理由で進んでいけるのだろうか。だけど、自分にはまだそんなことはできないから、素直にそのアドバイスを受け入れる。
「わかった。がんばって、早く帰って、フィーに会うよ」
このくらいならたぶんできるはずだ。背中を押すように、グロウも柔らかく笑って見せる。
「じゃあまあ、明日の学校はあんまり深う考えんと普通にしより。これまでのこと、思い出そうとしても無理やと思う。意識していままで通りにするがは難しいき」
そう言ってグロウは椅子を立った。そして部屋を出て……行くかと思いきや、アクアの前へ。
「な、なに?」
「もっぺん確認と、あと説明もしちゃお」
「は? え? あ」
ひたり、と唇に触れた本日二度目の感触。それと、一回目のときは意識する余裕がなかったけれど、ほんのわずかに魔力が動く。
その両方に言葉にならないほど驚いて、アクアは離れていくグロウの目を無言で見返した。
「ルビィの言うこと、ほんとやったがや……」
グロウはそんなひとり言のあと、目を丸くしているアクアを見下ろして、
「これは、力移し(ちからうつ)っていう魔法。昼間ルビィにもされたろ」
「あ、うん……」
「用法は主に魔力の受け渡し。そんでやりようによっては相手の頭の中がちょっと見える。うちもルビィも、あんたが魔界でどういう状況におったかを見ようとしたがやけど、なんでか見れんがよね。まあそれはえいとして、この魔法、常識やき知っちょった方がえいで。形式が形式やし、日常で魔力の移動が必要なことはあんまりないき、多用はせんけど」
以上。とグロウは話を締めて、今度こそドアへ向かう。
「おやすみ。明日、七時に起きてこんかったら起こすきね」
「……おやすみ」
そう返したときにはもう、ドアは閉じてしまっていた。
アクアはノートも下敷きも筆箱もそのままに、ベッドに倒れ込む。いろんなことで頭がいっぱいで、なにも考えられなかった。目を閉じると、すこし落ち着く。
「フィー」
小さく呼んだ名前に、どうしたの、と応じる声がしたように思えたのは、もう夢の中だったからかもしれない。