あんまりに基本的なことを聞かれて、あたしは思わず動きを止めてしまった。
「あれ? 言ってなかったっけ」
「うん。本当は天花苑美じゃない、って言われて、それだけ」
隣でグロウが、あ、と声を上げる。
「うちもなんちゃあ言うてないでね」
「夏越は、天花にグロウって呼ばれてたから……合ってる?」
自信なさげな確認にグロウがうなずき、
「じゃあついでに。うちはグロウ・サンダー。雷の精霊で、人間界では夏越楓生。家やったらどっちで呼んでもかまんし、学校でも楓生でえいで」
そう言って右手を差し出した。アクアはまた自信なさそうにその手を取る。グロウはその手をじっと見て、
「えっと、グロウ……どうかした?」
「いや、まあえいわ」
「ん、そう。それで、天花は?」
ふたりが手を離す。あたしは水色と黄色の瞳から視線を受けて、小さく息を吸った。
アルサとの別れ際、女王様に呼ばれたとき、グロウを仲間に引き入れた日。まだ三回しかしたことのない精霊としての名乗りの、四回目をくちにする。
「今代風の精霊、ルビィ・ウィンディ」
今代に、なってしまったという言い方が正しいのかもしれない。でもあたしは、ちゃんとした順番で回ってきたんだと思いたくて、なにがなんでも堂々と名乗る。
「天花苑美っていうのは、こっちへ来るときに女王家からもらった名前。あたしも、苑美って呼んでくれてかまわないよ」
アクアの手を取って上下に振る。そのとき、合わさった指に違和感を感じた。離れた手をつい目で追いかけると、グロウがすかさず違和感の正体を言い当てる。
「アクア、あんた陣書きやろ」
「そうだけど、なんで……あっ、これ?」
ゆるく開いて持ち上げた手の、人差し指と薬指。そこにはペンだこがあった。よく見たら中指にもあった。
神魔も知らないのに魔法陣を書くなんて、なんだかおかしな感じがする。けど、こういう手をあたしはよく知っている。間違いなく、アクアの手は陣書きの手だった。
「魔法陣書くの?」
「うん、小さい頃からフィーに習ってた」
「へえ、そうなんだ。……フィーって誰?」
当たり前のように知らない名前が出てきた。アクアはきょとんとして、
「ずっと前から一緒にいた、大人の女の人、だけど」
「ちょっと待ってや。親は? 前の水の精霊、そんな名前やなかったろ?」
「お母さんが精霊って話はフィーから聞いてるけど、おれは会ったことなくて。名前も知らないし」
「精霊の、親の名前も知らん? その、フィーって人はなんなが? 先代の知り合い? 親戚かなんか?」
「それもちょっと。一緒にいたのはおれとフィーだけで、外に出ることもほかの人に会うこともなかったから……」
語尾はみるみるしぼんで消えた。しばらく誰もが黙って、
「……うち、とりあえず晩ご飯作るわ」
「あっ、あたし手伝うー」
「おれもなにかすることあれば……」
解決できそうにない謎はそのまま、あたしたちは、ぞろぞろと連れだって台所へと向かった。
三人での晩ご飯を終えて、お風呂上がり。リビングのドアをグロウとバトンタッチしながらくぐって、ソファに倒れ込む。
アクアはテーブルでなにか書いていた。のぞいてみると、なんと宿題をしている。
「真面目だねえ」
「そういうことじゃ……ほかにすることないし」
「あっ! やめなくていいのに」
ノートを畳もうとするのを慌てて止める。アクアはあたしの手を制して、
「大丈夫、終わったところだから」
「そうなの? ならいいけど」
下敷きを抜いてシャーペンを筆箱にしまい、あたしを振り返る。あれからすこし三人で話をしたけど、アクアにはフィーという女性と過ごした記憶しかないようだった。この水色の瞳は、魔法陣以外に精霊としてのなにもかもを知らない。
なにも知らないアクアが、神魔を知るあたしに尋ねる。きっと誰よりも間近で神魔を見ていたあたしに。
「ルビィは神魔戦争の間、どうしてたの?」
絶対聞かれるとは思っていたし、聞かれなくても話さなきゃいけないとわかっていた。だけど、どう言えば簡単に伝わるのか、その答えは出てこない。
「んーと、魔界をあちこちうろうろしてた、かな」
「ひとりで?」
「まさか! アルサと……ルサ・イルと一緒だったの」
へえ、と相づちを打ちながらも、アクアは全然わかってない顔だった。陣書きなのにルサ・イルは知らないんだ。
「アクア、ルサ・イルって知らない?」
「もしかして有名な人?」
やっぱり。
「さっき精霊ってどういうものか説明したよね。そのときに、精霊を始めたのはアルサ・ナイスルって言ったでしょ。あの人のあだ名がルサ・イルで、いまでもすごい陣書きはルサ・イルって呼ばれるの。あたしが一緒にいたアルサは、いちばん新しい、最後のルサ・イルだったんだ。本名は不詳で、万術師ルサ・イルって呼ばれてて、『なんでも書ける』って評判だったよ」
「へえ……」
今度の相づちにはさすがに気持ちがこもっていた。同じ陣書きとして興味はあるのかもしれない。