=風の精霊ウィンディ=

ルビィ 2

 ……どうしよう。
 魔力に耐えかねた魔法陣がぼろぼろと崩れて手から落ちる。河音の混乱と恐怖は目に見えて深まっていく。半開きで震えるくちびるはいまにも悲鳴を上げそうだ。そりゃあ、いきなり見覚えのない別世界で目覚めたら不安でたまらないだろうけど、なにが河音をここまで怯えさせるのか。
 考えてもわからない。こうなったら手段はひとつ。
 決意を固めて、一歩前へ。後ずさろうとする河音を追いかけて、
「っ!?」
「あ、ちょっと」
 遅かった。ようやく警戒心が芽生えたのか、背をそらせてかわされる。
「な、なに」
「いいから。別に危なくないから」
 身を乗り出して、あたしは制服の胸元を掴んだ。河音が反射のように目をつぶる。いまだ。
 ぴた、と一瞬だけ唇同士が触れて魔力が走り、すぐに離れた。
「あ」
 のけぞって逃げた河音はあたしの片腕じゃ支えきれず、バランスを崩して尻餅をつく。ごめんの一言が出る前に、
「何しゆうがぞね!」
 ごん、と背後から頭を叩かれた。とっさに両手を頭にやる。
「いったあ……なにすんのさ、グロウ!」
 振り返ると、あたしと同じ制服の女子が腰に両手を当てて立っていた。眼鏡の奥から黄色い目が鋭く睨みをきかせてくる。
「それはこっちのセリフよえ! その名前堂々と呼びなって昨日も言うたろ!」
 今度はとっさにくちをふさいだ。そうだった、すっかり忘れてた。
「ごめん、グロウ」
「あんた分かっちゃあせんろ」
「ご、ごめんっ、楓生!」
 顔の前で手をあわせると、楓生ことグロウは独特なしゃべり方で、
「まあえいわ。それより、力移しどうやった? なんか分かった?」
「あんまりわかんなかった、かも」
「なによそれ、じゃあ名前は?」
「わかんない」
「両親は? 人間界へ飛ばされる直前におった場所は?」
「……それもわかんない」
 グロウが目を見開いた。肩の上で髪をいじっていた手が止まる。
「うそ、だってあんた――」
「あ、あのっ!」
 下から声がした。起き上がった河音が地面にぺったりと座り込んで、あたしたちを見上げていた。
「なにが、なんで……ここは? 天花と、夏越は……?」
 夏越、ってああ、グロウのこっちでの名字か。
「ていうか、あたし本当は天花苑美じゃないんだけど」
 自然と出た言葉に、河音は余計にわけがわからないといった顔をする。グロウはその疑問には答えず、しゃがんで河音と視線をあわせた。
「あんた、名前は?」
 河音は数秒、質問の意味が理解できないかのように呆けて、やがてはっと息を飲み、
「……アクア」
「水色やき……アクア・ウォーティ? あんたが水の精霊で間違いないがやね?」
 河音、じゃない、アクアは今度こそしっかりとうなずいた。
「じゃあ魔法陣はちゃんと効いちゅうがか。なんで力移しで分からんかったがやろう」
 グロウはひとり言のようにつぶやいて、
「あんた、神魔(しんま)の間どこでなにしよったが?」
 すこし心配そうな声に、アクアはもっと不安そうな表情で、衝撃的なことを言った。
「しんま、ってなに?」

 神魔戦争というのは、あたしたちが小さい頃に起きたある大事件の通称だ。
 世歴三八九三年冬、当時の雪の精霊が殺された。
 雪の精霊とその奥さんは女王家の騎士団に勤めていて、ある日子供を家に残して報告もなしに出動し、二度と帰ってこなかったという。
 この一件を発端に、犯人不明の精霊殺害事件、通称・精霊狩りが始まった。
 二番目は、風の精霊であるあたしのお母さん。あたしが五歳の時だった。続いてファイアル家の炎の精霊。数年あけて水の精霊が失踪し、おそらく死んだと言われている。その翌年にはサンダー家、グロウのお父さんが殺された。
 その間、女王の騎士団が弱体化してとか、経験のある精霊が不在でとか、いろんな理由で魔界中の治安が悪くなった。そんな魔界の状態と精霊狩りをあわせて、神魔戦争と呼ぶ。
 三九〇〇年の一月、つまりほんの二、三か月前に女王家からの終了宣言が出るまで、神魔戦争と呼ばれる状態は続いていた。最初の精霊狩りからちょうど七年間。いまの精霊は、みんなその間に親を奪われた子供たちだ。そして神魔の終わった安堵も束の間、何者かの手によって人間界に追われて、現在、魔界には誰も残っていない。
「……ごめん、もう一回」
 あれから十五分くらい住宅地を歩いた先の、大きくて古い家。女王家が用意してくれた精霊探しの拠点に、あたしたちはアクアを連れて帰っていた。
「いきなり言われたち分からんでね」
「あたしとしては、なんで知らないのかが全然わかんないんだけどね」
 グロウと二人で顔を見合わせる。あの神魔を、一般人ならともかく精霊が知らないのは、どう考えたっておかしい。
 キッチン、ダイニングとひと続きのリビングに、午後の日差しがぼんやり差し込む。アクアはソファの前に正座をして、申し訳なさそうに肩を落としている。ソファには三人分の鞄だけが座っていた。
「えーと、あたしたちが五歳くらいのときに、前の雪の精霊とその奥さんが殺されて、ほかの精霊もたぶん同じ人に殺された。雪の精霊が騎士団のかなり偉い人で、その人がいなくなって騎士団はほとんどダメになっちゃって。城下を中心に魔界中が不安に陥ったり、実際ちょっと治安も悪くなったりして、神魔戦争っていうのはそういう時期のこと」
「神魔って名前は知らんでもしゃあないけんどね。最初は精霊狩りって言葉しかのうて、三九〇〇年になって女王家から神魔終了宣言が出た時に周知されたもんやき」
 わかる? ともう一度尋ねると、アクアはようやくうなずいた。
「なんとか、わかったと思う。けど」
「けど、なに?」
 付け加えられた言葉に、ちょっと身構える。まだなにか、伝わってないことがあるのかな。
 だけどそんな心配とは逆に、アクアの質問は本当に簡単なものだった。
「天花の、ほんとの名前ってなに?」

2012/4/10 (修正 2023/3/9)