=風の精霊ウィンディ=

ルビィ 1

 あたしが天花苑美になってから、もうすこしで一か月になる。
 今日は月曜日だから、いち、に、さん……今日を入れるとあと五日だ。その翌日には五月の連休が始まって、学校は休みになってしまう。なのにまだひとりしか見つけてない。
「いちおう、見つけるだけは見つけたんだけど」
 ガラスのドアにもたれて校舎の昇降口を覗き込む。あたしとは縁のない先輩たちが目の前を通り過ぎて行った。そのうちのひとりと目が合って、すぐになんでもないみたいに視線がそらされる。
 見えてないんだなあ、と、こういうときに実感する。
 あたしの目は赤い色をしている。だけど、ここにいる人たちはそのことに絶対気づかない。ここが人間界と呼ばれていることも、あたしが魔界という別の世界から来たことも、こっそりこの枝葉川学園中等部に紛れ込んでいることも、誰も知らない。
 きっとこの茶色い髪だって、中一のくせに染めてるなんて度胸あるなあ程度に思われているんだろう。勉強ができないのを、小学校に通ってないなら仕方ないなんて思ってくれる人も誰もいないんだろう。
 ……誰も、ではないか。今は、ひとりだけがそのことを知っている。そういう人をあと三人、あたしは増やさなくちゃならない。
「あー、やっと帰れる!」
「掃除当番だっただけだろ?」
 決意も新たに振り返ると、一年の下駄箱に男子が二人やってくるところだった。そのうちの片方が今日のあたしのターゲットだ。
 あたしの前を通り過ぎた二人は、ちょっとこちらを見て遠ざかっていく。あたしはすこし距離を置いて、二人のあとをつけた。

 一年一組、出席番号十九番、名前は早瀬河音。席は廊下から二列目、後ろからも二つ目、つまりあたしの隣。特別背が低いわけでも女の子っぽいわけでもないのに、どこか頼りない雰囲気がある。男子のくせに字がきれいで、そのノートはうらやましいほど整っている。目や髪は誰がどう見たって黒い、ごく普通の中学一年生だ。
 電柱を一本挟むくらいの距離をあけて、河音とその友達があたしの前を歩いていく。
「早瀬、今日の小テストどうだった?」
「どうって、返って来てないから分からないよ」
「手ごたえだよ。どれぐらいできたと思う?」
「さあ、どうだろう。定は? 自信ある?」
「もちろん……全然ない」
 その河音を一人怪しく尾行しながら、あたしはこの現状の理由を思い返していた。
 あたしが元いた世界は、その名前を魔界という。当たり前に魔法があって、魔法が存在しない人間界からは存在すら知られていない。いちばん偉いひとは女王様だけど、人間界のテレビで毎日やってるような、国家とか政治とかそういうのとは程遠い。
 天界と冥界という世界とは、どちらも同じくらいの交流がある。そのふたつはしょっちゅう戦争をしているけれど、魔界はそれには関わらない。中立ってやつだ。
 でも、いくら戦争をしないと言っても、魔界を守る力は必要だ――大昔にそんなことを考えた人がいた。ありとあらゆる魔法陣を書いたという本物の万術師アルサ・ナイスル、略してルサ・イル。いまでもすごい陣書きの代名詞になっている人物が、当時強く純度の高い魔力を誇っていた人たちを集めて、魔界を守る役目を与えた。
 ルサ・イルは彼らを精霊と呼んだ。
 魔力を持っていても、普通、魔法はそのままじゃ使えない。魔法陣を介することで、初めて魔力は魔法となってこの世に表れる。だけど精霊は違った。精霊と呼ばれた五人は、大きな魔力をそれぞれ一定のイメージに乗せることで自在に使う。風、水、雷、炎、雪……精霊が扱うそれらは、木々を揺らしても風ではないし、輝いて見えても炎ではない。そういう魔法で、それが精霊なのだ。
 ルサ・イルは精霊の持ち寄った衣服や剣や、さらには家系にまで魔法をかけて、彼らに魔界を託した。精霊はいまでも続いていて、なにを隠そうあたしも今代の一人だ。この瞳の濃い赤色は、魔界にだってふたつとない強い魔力の表れだ。いろいろあって、予定より早く風の精霊を名乗ることになった。
 と、それはさておき。
 問題は、精霊であるあたしが人間界にいることだ。
 原因は一か月前にさかのぼる。
 とある大きなもめ事の直後に、ひとりの男が事件を起こした。高度な魔法陣を使って、まだ若い精霊たちの魔力と記憶を封じ込め、人間界に追いやったのだ。あたしは近くにいた友達のおかげで助かったけど、ほかの四人は人間界に飛ばされてしまった。
 その上、同じ犯人が魔界の存続を支える存在、フィル・ネイチャーまで封印してしまった。ネイチャー様が封印され続けていることは、精霊が欠ける以上に危険なことだ。そして現在の女王家に、ネイチャー様を助け出せるような戦力はない。
 そうして、女王家に頼まれたあたしが人間界で精霊を探し、ネイチャー様の封印を解くことになった。
 あたしにとって、これは精霊としての初仕事だ。
 そう、あたしは決して好きな男子をストーカーしてるとかではない。
 今日プリントを渡したときに確信した。早瀬河音は精霊だ! だからこうやって信号のかげとか看板の裏に隠れてまで追いかけてるのだ。
 そんなあたしの胸の内なんてつゆ知らず、河音たちはたわいもない話をしながら横断歩道を渡っていく。
「そういや早瀬、今日の体育、見たろ?」
「バレー?」
「違う違う、女子のドッジ。天花って運動神経いいのな」
「ああ、あの最後まで残ってた……」
「ちっこいのにすげーよな、ジャンプとか。お前隣の席だろ」
「うん。次の国語では寝てた」
 どうやらあたしの話をしているらしい。あの国語は眠かった。変な角度で寝てたから、ただでさえボサボサの髪に寝癖までついた。
 一人うなずいていると、前を行く二人が横断歩道の前で足を止めた。
「じゃーな、早瀬」
「うん、ばいばい」
 手を振って、どうもここで別れるみたいだ。友達のほうが青になっていた信号を渡って、河音は赤信号で信号待ち。友達の姿が見えなくなる頃、信号が青に変わった。
 なんの警戒もなく横断歩道を渡っていく河音を、静かに静かに追いかける。
 ひとつ角を曲がると、そこはもう賑わいのない横道だった。隠れる場所もないけれど、隠れる必要もない。
 あたしは邪魔な鞄を足元に置き、河音に近づいてその腕を掴んだ。
「ちょっとごめんね」
「えっ、」
 河音が振り返る。虚を衝かれて怯えたような顔の前に、ポケットから引っ張り出した紙を広げる。
 パッ、と、紙の上で魔法陣が赤く光った。
 河音が瞬きを一回して、二回して――三回目で、水色の瞳がこちらを見た。
「…………」
「……ええと、大丈夫?」
 動かない河音を覗き込む。河音は無言で、また瞬き。
「ねえ、大丈夫? 返事してくれないと心配なんだけど」
 もう一度声をかけると、河音はゆっくりとくちを開いて、
「フィーは」
「へっ?」
「フィー、は? どこ? いまさっきまで、え? あれ、でも、さっきって、いままでって、」
 こっちが慌てるほどの勢いで、水色の目に涙がたまっていく。人間界へ飛ばされる直前になにかがあったのか、相当混乱してるみたいだ。

2012/3/8 (修正 2023/3/9)