=恋縹=

山吹と木霊 2

 恋する木霊は情熱的で臆病だった。夜、俺の部屋の前で星空に向かって恋の詩をそらんじた。放課後は恋石からミモザ寮に帰るナズナを見に行った。俺もたびたび同行させられた。ハンカチはついぞ渡せなかった。月に一度は洗濯をしてアイロン掛けしているのだと、恥ずかしそうに言っていた。
 俺は恋愛には興味なかった。趣味もない、友達も木霊しかいない。木霊にはそれなりに興味があった。教室で囁かれる色恋の噂は耳に入ってもまったく頭に残らないのに、木霊の恋の話はすんなり聞けた。木霊はナズナがいかに愛らしく、幸せになるべき少女であるかを熱烈に説いた。俺は根気よくうなずいてその演説を聞いてやった。
 冬に流星群が来たことがある。世界中で恋する者がするように、木霊もまた星に祈りを捧げた。
「なにを願ったんだ」
 俺は聞くまでもないことを尋ねた。そんなの、恋の成就に決まっている。でも木霊の答えは違った。
「彼女の幸せだよ」
 ナズナ、きっと幸せになってくれ。木霊は、星の降りやんだ空にふたたびつぶやいた。
 俺はその横顔を見ていた。しあわせになるべきはおまえだろう。自然とそんな考えが浮かんだ。
「寒いな」
 赤くなった指先をすりあわせると、木霊は、鍵が開けっ放しになっている俺の部屋へ勝手に引っ込んでいった。
 廊下に残って空を見上げると、降り残りの星がほろほろと落ちてきた。俺は願った。
「幸せになってくれ」
 木霊の、かわいそうな横顔が目に焼き付いていた。言葉ひとつ交わしたことのない少女を想い、亡くした妹を思い、彼女らの幸せを願う木霊が、どうしてか哀れでならなかった。可哀想な木霊の幸せを、誰かが願ってやらなければならないと思った。それが俺の、友達としての務めのように思えた。

 一年はあっという間に過ぎた。進学の年。離ればなれになるときが近づいていた。最初からわかっていたことなので、俺たちの間に感傷はなかった。それに、貢献科の木霊はこの街で就職する。俺さえ帰ってくればいつでも会えるのだ。その程度のことしか考えていなかった。
 ある日、俺は恋石女学校へ行った。生意気にも、恋石の図書館は縹岬よりはるかに蔵書が多かった。進学科の奴らも利用しているようだった。
 恋石なんかに長居をしたくはなかったが、なにぶん初めての場所で、一冊の本を探すのにずいぶん館内を歩き回らされた。思いつく書棚は一通り回ってしまい、カウンターに声をかけるべきか迷いつつロビーへ戻っていたときだった。
「ナズナ」
 少女の声が知っている名前を呼んだ。灰色の制服を着た少女が、棚の間から姿を現す。そして隣の書棚の裏へ消えた。
 みっしりと本の詰まった棚越しに、少女らのひそめた声が聞こえてくる。進路の話をしているようだった。ナズナが俺たちの四つ下で、いまは中学二年だということは、木霊に繰り返し聞かされてすっかり覚えていた。
 恋石では、最終的な進路は高校二年への進級時に定まるらしい。就職か、進学か、なにかやりたいことをやるか。でもそれは少数派で、ほとんど生徒は卒業後すぐ嫁入りする。なぜならそれがこの学校の設立された意味だから。貧しい生まれの女が、地位や権力や財力ある男に嫁いで成り上がる。いわゆる玉の輿こそ、この学校の最大の目的だった。
 そんな成り立ちは、この街の人間なら誰でも知っていた。教師にもよく言われたものだ。恋石なんかにけつまづくなよ。政府一科や進学科で、この言葉はなにかの合い言葉のように使われていた。
 なのになぜこのときまで思いつかなかったのか。ただ想像する気もなかっただけなのだろう。けれどそのとき俺を襲ったのは、潮が満ちるように迫ってくる後悔だった。
 ナズナの希望する進路はありきたりに花嫁だった。誰か、金持ちで、いい仕事をしていて、あちこちに顔の利く男の花嫁。木霊に幸せを願われる少女は、木霊ではない男の花嫁になりたがっている。
 貸し出しカウンターへ向かうナズナは、詩集を手にしていた。木霊が彼女に捧げるべく、彼女がいるのとはとはまったく違う方角の夜空へうたいあげた詩が収録されている詩集だった。
 木霊。おまえはなんてかわいそうな奴だ。
 俺はすべての言葉と表情を失って帰路についた。ちゃっかりと目的の本を見つけて借りて帰ったのだが、もう一度あの図書館へ行くのがどうしても億劫で、いまだに返却できていない。

 卒業後、木霊がなにになるのか俺は知らなかった。金持ちでも権力者でもないことはたしかだった。俺は、一科だから当然だが、政府系の大学へ入ることにした。木霊にそのことを伝えると、
「大学ではちゃんと友達を作れよ」
 と言われた。
「言われなくても作る」
「じゃあ別のアドバイスを。恋人作れよ。山吹は役人になるんだろ。そうなったら若い遊びはそうそうできないぜ」
「なにを先輩面してるんだ」
 むっとしてそう言うと、木霊は心外という顔をした。
「ぼくのは遊びじゃない! ナズナは……夢だよ。この気持ちは本物の愛だ」
 しあわせにするという夢。しあわせになってくれという気持ちが愛なら、俺は。
 弱った蛍光灯の頼りないあかりのなかで、木霊はあの詩をくちずさみはじめる。いちばん思いが伝わると言っていた、ナズナの借りた詩集に入っているうた。連のあいだで夜風に乾くくちびるをなめる仕草が、俺には哀れで仕方なかった。何度なめても風がやまない限りくちびるの乾きはひどくなる一方だし、ちゃんと考えれば木霊にだってわかることだ。なにも果たされない。なにひとつ成されない。
 無益。授業でよく聞かされる言葉を思い出す。春が来たら、俺は無益を許されない世界に踏み出していく。木霊はどこに行くのだろう。無益な恋を抱えて生きていける場所があるのだろうか。
 ついに木霊に進路を問うたのは卒業の日だった。二日に分けて行われる卒業式は、政府一科と二科の分は終わっていて、その日は敷地のあちこちが貢献科と、一握りの進学科のための紅白の幕で彩られていた。
 普段グレーの濃淡で出来ている校舎は、赤と白をまとうと余計にそのモノクロのイメージを際立たせる。おそろしく冷たい春だった。雪が降らないのが不思議なほどの冷え込みに、誰も彼もが肩を小さくして歩いていた。俺はもう着なくていいことになっている制服を着て学校に行った。縹岬高校、北校舎五階。ひとたび立ち去れば二度と訪れることのない教室。政府一科。俺を表すべきもの。未来の俺の定義はすでに始まっている。
 窓際の、前の方の席にかけた。席替えなどという遊びを持たない教室で、俺が一年を過ごした場所だ。校庭がよく見える。式典を終えて、進学科が退場してくるのが見えた。貢献科が出てくるのが見えた。木霊が出てくるのを見ていた。
 木霊はあいかわらず友達に囲まれていた。誰に対しても笑顔だった。間違いなく人生で何番目かにめでたい時だった。
「おめでとう。これからのあんたの人生が素晴らしいものになりますよう」
 と俺は言った。昨夜、潮寮の廊下で木霊にもらった言葉をそっくりそのままなぞった。絶対に無理だなと思った。
 木霊が水道業者に就職することを、今朝聞いたばかりだった。金持ちや権力者や政府の役人やそのほか大勢の人々に使われるために、木霊は社会へ出るのだった。恋石女学校を出た四つ年下のしあわせになるべき少女と結婚することなど、絶対に叶わない人生へと漕ぎ出すのだ。
 こんなはなむけを直接言い渡すことなどできなくて、俺はただ、友達に囲まれた幸せそうな、幸せを信じていそうな木霊の笑顔を見ていた。いつまでもそうしていてほしいという思いと、早くその夢から覚めてほしいという思いが入れ違いに胸を訪れていた。とにかく、可哀想でなくなってほしかった。これ以上木霊を哀れに思いたくなかった。俺なんかにそうやって悲しまれていることがなにより悲惨なことのように思えた。
 なにもかも置き去りにしたかった。俺が勝手に哀れんでも仕方ないのだ。木霊の恋がそうであるように、俺のこの友情と呼ぶべきかわからない哀れみもまた無益なのだ。俺は無益を許されない世界に行く。この先ずっとそこで生きていく。
 翌日、木霊は俺の引っ越しを手伝ってくれた。寮の前に呼んだ業者のトラックに、少ない荷物を一緒に運んだ。ベッドも机も、大きな家具はみんな寮の備え付けで、私物は木霊に手伝ってもらうまでもなく運べたのに、俺は親切な申し出を断る気になれなかった。
「ぼくはさ、これからこうやって、誰かの役に立って生きていくんだよ」
 最後に空っぽになった部屋の床を拭きながら、木霊はどこかうれしそうに言った。
 木霊には、新しい住所も電話番号も伝えなかった。木霊は勤め先の独身寮が空くまで、潮寮で二科に囲まれて過ごすらしかった。かつて俺ひとりが暮らしていた政府一科の階も、三年の間に半分以上が埋まっていた。そうやってなにもかも変わっていけばいい。俺も、木霊も、どこかで再会してもお互い誰だかわからないほどに変わってしまえばいい。
 そう思っていたのに、意外なことに、大学は縹岬高校とそこまで変わらなかった。政府系の大学といえども、集まっているのはやはり学生だった。俺たちにはまだ無益が許されていた。
 授業はたしかに高度になった。教授は高校の教師より過度に冷静か、異様に熱っぽい人物が多かった。自分から友達を作ろうと働きかけはしなかったが、学友が話しかけてくるのをそれなりに受け止めていると友達もちゃんとできた。授業の情報を共有し、互いの考えをぶつけあい、協力して課題に対応した。恋人もできた。最後にはみな別れてしまったが、おおむね平穏でわずかずつ相手の助力となれるような交際だったと思う。
 恋人は同じ大学の女性ばかりだった。年上も年下も同い年も、みないつかは俺と同じ役人として立身出世を目指すべく集う才女だった。彼女らは賢くしたたかで、あらゆる適切を知り尽くしていた。そんな彼女らのひとときの支えになれたことが、俺は純粋にうれしかった。俺はいつも精一杯の適切さで別れを告げ、感謝を伝えた。別れ話の終わりに、彼女らは一様にひとつのアドバイスを寄越した。
「社会に出てあなたが付き合う女性とは、こんなにすっきりとは別れられないわよ」
 そう言って、喫茶店や空き教室や俺の部屋から、適切な後ろ姿で立ち去っていく。この先、役人となった俺の前に現れ恋人となりうる女性は、花嫁となるべく存在している。摘み取ってしまえばその手のなかで一生を終えるしかない花たちだ。そのことを彼女らは、まさに必要なタイミングで囁いてくれる。女性はすごいな、と思った。まったく立場の違う女性のことでもわかってしまう。男はわからない。立場の違う親友がいまなにを思うのか、わからない。
 恋人と別れた後は、決まって木霊のことを思い出してしまうのだった。普段はすっかり忘れてしまっているのに、別れ話を終えて、あの忠告に耳を傾けていると、ふと思い浮かぶ面影があった。ナズナ。恋の詩集を携えた、灰色の制服の少女。しあわせになるべきとされた、俺の親友に愛された少女。そうして俺は木霊を思い出す。あの街のどこかでひとびとの役に立っている、哀れな親友のことを思い出すのだ。
 卒業までの四年は、縹岬で、潮寮で過ごした三年よりも早く過ぎた印象だった。一生続いていくと思える友人が何人もできた。別れた恋人とも、友人として、同じ向上心を持つ者として、良好な関係を保っていた。なにより競争心が育った。上へ行きたいという気持ちがあった。
 役人となるための最上級の採用試験を、俺はかなりの上位で突破した。正確な順位が告げられることはなかったが、職場の飲み会で上司に言われたことがあった。
「俺が引っ張ってこれたなかでは、お前が一等優秀だよ。やっぱり上位組は違うな」