=恋縹=

山吹と木霊 3

 就職試験そのものは、忙しくも淡々と進んだ。対して、採用後の日々はかつてなく目まぐるしかった。中央での集団研修が一ヶ月あり、その後、おおよその配属地域が発表されると二週間の地域研修が行われた。そして最初の配置がようやく明らかになり、宿舎への入居募集が一日というひどい期限で行われた。俺は宿舎に入った。大学でも寮だった。研修の間は専用の合宿施設に泊まり込みだった。いつも俺は肩書きと住居を同一化させてきた。
 宿舎に入って、まず水道をひねった。透明な水が好きなだけ流れた。その冷たい圧力をてのひらに受け止めながら、俺は木霊を思った。この水はこれからの俺の生活を支える。木霊はこの水を支えている。
 初めての職場は故郷の街にあった。縹岬高校も、恋石女学校も、遠いと言えば遠いが、車さえあれば遠いとは言いがたい距離だった。宿舎は郊外にあって、駐車場代もささやかな家賃に含まれていた。そのうちに、職場に車と銀行のセールスが二人組で来て、若い先輩に勧められるまま中古で車を買った。安かったし、大学時代にアルバイトで稼いだお金にほとんど手をつけなかったので、ローンはすぐに終わってしまった。街のなかに、遠くて行けない場所などなくなってしまった。
 仕事はそれなりに忙しかったが、俺が苦に思うことはあまりなかった。最上級試験で採用された者はみなそうだが、住民とはほとんど接触がなかった。机と書類と、俺よりずっと格上の役人や政治家やさまざまな権力に向かって、ひたすら仕事をした。上司も先輩も、俺の能力と真面目さを非常によろこんだ。
 あるとき、上司の誘いで会合に連れ出された。職場単位で月に一度ほど開催される飲み会とは違う、それはいわゆる嫁探しのパーティーだった。最後に恋人と別れて、ちょうど一年ほどだった。明るい立食パーティーのフロアを種々のドレスが行き交う様を眺めつつ、傍らで腕組みする上司にそう言うと、彼は親指の腹で顎先をさすりながら父親のようにうなずいた。
「それならちょうど頃合いだろう」
 行ってこい、と壁際から背を押し出され、俺はドレスの波のなかをさまよった。行き交う女性たちはこれまで付き合ってきた誰よりもきらびやかで、おどろくほどに少女めいていた。これまでの恋人はすらりとしたしなやかな脚でしっかりと立って、別れ話が終わると颯爽と歩いていく、大人として生きようとする女性ばかりだった。
 したたかさ、聡明さ、強さ。そういったものはこの空間では異質だった。黒いスーツを着た俺は波のあわいではっきりと浮いていた。華やかさ、柔らかさ、かわいらしさ。そういうものがあたりに満ちていた。誰かのトロフィーとなるべく自らを磨き上げてきた、少女のままの女性たち。俺はおそろしかった。もうずいぶん前から、世界が弱い者に優しくなんてないことは知っている。誰もがそれをわかっている。それなのに、この女性たちは少女としての弱さを守って、守って、そうして誰かの強さに選ばれようとこの夜に集まっている。
 可哀想でたまらなかった。哀れで仕方なかった。木霊の横顔が脳裏にひらめいた。どこからか夜風が入り込んでくる。何度舐めても乾いてしまう、いまにも切れて血を流しそうなくちびるを撫でていく夜風。
 振り向くと、テラスへと繋がるガラス戸が開いていた。夜の闇のほうへと、俺は色とりどりの波間を歩いた。テラスには少女がいた。少女めいた女性であることはわかっていた。四つ年下であることも知っていた。恋石女学校の出身であることも。名前も。あの日図書館で借りた詩集も、俺は知っている。
「ナズナ」
 思わず発した声は、名前としては聞き取られなかったようだが、彼女の耳には届いていた。ナズナが振り返る。その顔のつくりはこわいほどあのころのままだった。
「どなた?」
 名刺を出して、俺は名乗った。
「山吹さん」
 歌うように名を呼ばれて、俺はぞっとした。書棚の向こうからひっそりと聞こえてきた声と、まるきり同じだった。この声は木霊を呼ぶべき声だった。それがほかの男の名を呼ぶ。彼女をしあわせになるべきと名指した男がいるのに、彼のものになることは絶対にない。誰かほかの、木霊ほどひとびとの役に立っているのかもわからない男の花嫁になるのだ。そのためにこの少女の青春は費やされ、努力は積み上げられてきたのだ。
 夜風に髪をなぶられながら、俺はナズナと話をした。ナズナは詩を愛していた。木霊が好んで暗唱した、あの詩のあたまをくちずさんだ。俺が続きを引き取ると、ナズナははっとしたようにこちらを見た。声に出すのは初めてだったが、一言一句違わずに覚えていた。
「くわしいのね。詩、お好きなんですか?」
「昔聞いたことがある。記憶力はいいんだ」
 ひどく傲慢なことを言ったと自覚している。けれどナズナはほがらかに笑った。口角がほんのすこし持ち上がるだけで、どこかから花びらが舞い落ちるような華やいだ笑みだった。
 ナズナは詩について語った。その美しさを、素晴らしさを。そして詩にそそぐ自らの愛を。俺は上の空でそれを聞いていた。ただかなしみだけが胸を満たしていた。

 その夜、俺が声をかけたのはナズナだけだった。同様のパーティーは二度三度と開かれ、そのたび俺とナズナはテラスで話し込んだ。夜風を、星のあわすぎるひかりを浴びるナズナは、たしかに幸せにしてやりたくなる趣を持ち合わせていた。そのうちに、自動的と言ってもいいなめらかさで、俺はナズナに結婚を申し込んでいた。
 結婚が決まって、マンションの一室を買った。俺はようやく完全に寮というものを出た。ナズナは結婚式のあとその部屋に入ることになっていた。新しい家具や、俺のわずかな私物だけが、業者の手で先に運び込まれた。彼らが立ち去ってから、俺は初めて家主としてその部屋に入り、水道のレバーをひねった。マンションは街の中心部に、比較的最近建てられたものだった。木霊の支える水が、ぴかぴかの蛇口からしっかりと流れ出た。
 結婚式は、同僚たちの式と同程度のありがちなものを行った。あの夜、ナズナと出会ってからずっと、俺はいいようのない悲しみにとらわれていた。それでも、その日のナズナはまばゆく美しかった。どこまでも愛らしく、誰よりもしあわせになるべき少女だった。彼女の人生でもっとも晴れがましく、めでたく、幸せな一日であるはずだった。
 俺は染みいるような不幸を感じていた。あってはならない幸せだった。たしかにナズナはしあわせそうに笑っていた。それは、そのよろこびは、笑顔は、俺がもたらすべきものではなかった。木霊が願っていたものなのだ。木霊が手ずから彼女に施すべき幸せだった。
「ありがとう、山吹さん」
 わたしとてもしあわせよ。そっと手をつながれて、その衝撃で死んでしまえたらいいのにと思った。そんなことはもちろん起こるはずもなく、ナズナの手はただただちいさく柔らかく、優しかった。
 ひかりの降り注ぐチャペルで、ナズナの初めてのキスを受けながら、俺は誰にも理解されない涙を流した。おまえでもうれしくて感極まるなんてことがあるんだな、と、友人や同僚や上司は、ずいぶんとうれしそうに言っていた。
 引き返せないところまで来ていた。式を終えた夜、ふたりで新居へ帰った。ナズナが湯を使う音を聞きながら、俺は逃げるようにベランダへ出た。マンションの八階には、潮寮の一科の廊下よりも、パーティー会場のテラスよりも、ずっと激しく夜風が吹きつけた。ぬるい春だった。風は優しい湿気をはらんでいて、詩をくちずさむあいまに舐めたくちびるを切り裂いてはくれなかった。
 飛び降りてしまおうかという思いもあった。けれどそれはできない。俺が死んだら、死ななくても新婚の初夜に買ったばかりのマンションから飛び降りたなんてことになったら、新聞に載ってしまう。政府一科を出た俺はそういう立場にあった。新聞に載るような立場でないから生きているか死んでいるかもわからないが、木霊がそれを読んだらと思うと動けなかった。
 やがて浴室の水音がとまり、俺は部屋へ戻った。木霊のおかげで使える水の音が、あたまの内側でえんえんと反響する。すべて話してしまいたかった。ナズナの前で床にひたいをすりつけて、みっともなく泣きわめきながらほんとうのことだけを叫びたかった。無理だった。無益なのだ、それは。ナズナが花嫁を目指したのは、ただ暮らしを豊かにするためだけではない。彼女は愛されるためにここまできたのだ。すくなくとも、外から見て愛だと思えるようなものを用意するのが、彼女を摘み取った俺の義務だった。
 俺を見つめるナズナの瞳には、透明な覚悟の膜が張っていた。それを粉々にして、無駄にしてしまうことはできなかった。なにかを否定するようなエネルギーは、かなしみに飲まれてすっかりなくなっていた。俺はナズナを受け止めなければならない。少女たちはうつくしい羽を持っている。ひとたび地上に降り立てば、露に接着されて開くことのかなわなくなる翼。畳ませたのなら、投げ出してはならない。
 俺たちは正真正銘の夫婦になった。どこからどう見ても完璧な新婚生活だった。ナズナは幸せそうだった。友人や職場の人間に言わせれば、俺も幸せすぎるほど幸せなのだそうだ。ナズナはかわいいだけではなく、てきぱきと家事をこなし、いつも機嫌よく笑い、冷めてもおいしい弁当を作り、詩とおなじくらい俺を愛した。
 俺はやっぱりナズナが可哀想だった。水を使うたび木霊のことを思い出した。夜毎、意味もなく冷たい水で手を洗い、夜風の吹きすさぶベランダに立つものだから、手はぼろぼろに荒れていた。ナズナはそれを可哀想がって、甘い香りのクリームを買ってきた。ちいさく優しい手がそれを塗ってくれるときだけは、たしかに俺は幸せなのだろうなと思えた。
 仕事は順調だった。生活は豊かだった。唯一の救いとして、子供はまだできていなかった。
 ある夜のことだった。洗い物を終えたナズナが台所で妙な顔をするので、俺はそばに寄って彼女の視線の先を見やった。
「昼からちょっとおかしかったんだけど、きちんと締まらないの」
 レバーをいっぱいまでひねられた蛇口から、ぽとりぽとりとしずくがこぼれていた。ナズはちからが弱いからと、俺がレバーに手をかけたが、レバーはそれ以上動かないところまできているようだった。
「故障だな」
「まあ。それじゃ、早く水道屋さんを呼ばないと」
 ナズナが明日の昼間に電話をしてくれることになり、その日はそのまま眠った。俺は水になる夢を見た。からだをすべて砕かれて、裏ごしに裏ごしを重ねて、透明にひかる一滴の水になって、さまざまなもののこびりついた水道管のなかを走っていく。なにを目指すでもなかった。走り続けていることがすべてだった。俺は木霊に守られている世界で生きていた。無力なひとしずくとして、きっと誰かの役に立ついのちの水として。
 目が覚めたら泣いていた。ナズナを起こさないようそっと布団を抜け出して、水道で顔を洗った。木霊のことを考えていた。恋の詩が、木霊とナズナの声で聞こえていた。記憶のなかの声と一緒に続きをそらんじると、背後でちいさな笑い声が聞こえた。振り返ると起き出してきたナズナが微笑んでいた。朝日を反射する茶色い髪がとてもきれいだった。
 ナズナの弁当を持って、いつもどおり出勤した。いつものようにしっかりと仕事をした。特別忙しい時期でもなく、不意のトラブルもなく、なすべきことは残さず定時までに終了した。まだかすかに明るさの残る家路を、空の弁当箱を提げて帰った。
 家に帰ると、ナズナが慌てて駆け寄ってきた。なにごとかと尋ねる前にチャイムが鳴った。
「俺が出るよ」
 気づけばくちが勝手に言っていた。仕方ないので脚も言葉通りにからだを運んだ。ナズナがインターホンに応答している。俺は重たい鍵を外し、ドアを開けた。
 覚悟していたつもりだった。昨夜からずっと動揺しているのは、この事態をシュミレートしている証拠なのだと思っていた。あのときひどい後悔とともに図書館を出て、学習していたつもりなのに。ちゃんと想像していたはずなのに。
「こんばんは。水道、直しにきました」
 ほがらかに告げて、わらう。
「久しぶりだね、山吹。……ぼくだよ、木霊だよ。わかる?」
「わかるさ、当然だろ」
 まともな声が出たのが不思議だった。木霊はあのころとなにも変わっていなかった。いや、すこし痩せたかもしれない。それでも俺のなにかを許してくれるような、俺にそうやって勝手な期待を抱かせる笑い方は、ちっとも変わっていなかった。
 木霊は暗い青色のつなぎを着て、黒いキャップを被っていた。胸に大手水道業者のロゴが、黄色いワッペンで貼りつけてあった。手にはグレーの工具箱を提げていた。どれもすこしずつくすんでいた。
「いいところに住んでるね。さすが政府一科。さて、問題の水道はどこかな」
 かつて潮寮でそうしたように、木霊は遠慮なく部屋に上がった。揃えて脱いだ靴を見ると、踵がぺったりとつぶれていた。
 木霊を先導して台所に向かった。広い流しの前にはナズナが立っていた。背後で、はっ、と息をのむ音がした。振り返るのがこわかった。俺はなにも言えなかったが、紹介するまでもなくナズナはあのころのままのナズナであったし、世帯向けの新しいマンションで客人を迎えるエプロン姿の女など、妻以外にありえなかった。
「おじゃましてます、水道屋です」
 木霊は帽子を取ってぺこりと頭を下げた。帽子をつなぎのベルトに引っかけて、流しに近づく。その動作を目の端にみとめながら、俺はただキッチンの入り口に突っ立っていた。
 ナズナがシンクの前を木霊に明け渡して、俺のほうへ歩み寄ってくる。木霊は真剣な顔で水道のレバーに手をかけ、ひねる。じゃっ、と水があふれ出て、磨かれたシンクの底をしたたかに打った。
 優しいような硬いような水音のなか、ナズナが明るい声で言った。
「そうそう、あなたに聞いてほしいことがあるの」
 その手が下腹に添えられていることを、俺はすっかりと見逃していた。なんだ、と、反射的に問うていた。
「やっとね、赤ちゃんができたみたいなの」
 息が止まったと思った。けれど俺はなにかしゃべっていた。なにをしゃべったのかさっぱりわからなかったが、ナズナは幸せそうに微笑んで目を伏せた。
「まだお母さんに報告してないの。山吹さんにいちばんに伝えたくて。いまから電話してきますね」
 ナズナが出ていって、台所は静かになった。そこにさっと水の音が入り込む。
 俺はようやくまともに木霊を見た。最愛の少女と、最悪の形でふたたびめぐりあった男を見た。木霊は笑っていた。
「水道、もう直ったよ。部品が一個、最初からきちんと止まってなかったみたいでさ。それが取れちゃってただけだね。もう大丈夫」
 もう大丈夫だよ、と、木霊は繰り返した。
「山吹。幸せになれよ」
「木霊」
 ひどい声が出た。みじめで、哀れっぽく、弱々しい声だった。
「木霊、なんで、おまえがそんな」
「ああほらまた。山吹、あんたなあ。こんなきれいなマンションに住んで、いい仕事して、お金もがっちりもらって、あんな可愛い奥さんがいて、子供もできたっていうのに、そんな可哀想な顔するもんじゃないぞ」
 大人が子供を叱るみたいに、木霊は片手を腰にあてた。可哀想? どういうことだ。木霊に突きつけられた言葉がずしりと腹の底まで沈む。俺はどうしようもなく不幸な気分だった。不幸。どうして。俺は誰がどう考えても幸せとしか言えない日々を送っていて、それなのにどうして。
「俺は……不幸だったのか」
「いつもそんな顔してたよ、あんたは」
 不幸。そう言われれば間違いなくそうだった。哀れな親友を思い続けて、彼の愛した少女を知らない男に渡したくなくて、かといって友に届けるすべなどなくて、みずからその罪に身をおとす。それは不幸としか言いようのない物語だった。
 俺たちはいつから不幸だったのだろう。この不幸はいかにして運命づけられてしまったのだろう。いくつもの瞬間が脳裏にひらめいては消えていく。潮寮に入居した夜の寮母の声。まだ誰の名前もわからない教室。階段にうなだれる茶髪。塗れ髪で寝なくなってましになっていたのに、そういえば木霊の茶髪はまた傷んでぱさついていた。食堂で呼ばれた名前。校舎内ですれ違う笑顔。教室から見下ろした負け試合。あのときか、このときか。転居。進学。就職。恋だと思っていた関係。友情だと信じていた関係。流れる水。夜のパーティ。ああ、夜風だ。
「そんな顔するなよ。幸せになれよ、山吹」
 木霊はあいかわらず、やさしく、おだやかに笑んでいた。
「おまえはなんでそんなことが言える。俺はおまえを裏切ったんだ。俺はおまえにひどいことをしたんだ。傷つけた。不幸にした」
「あのなあ」
 軽い音をたてて、木霊は工具箱に施錠する。流しのそばに置いてあった布巾を取って、シンクのふちに飛び散った水滴を拭う。
「山吹。いないひとをしあわせにしようと思ってはだめだよ。妹は死んだんだ。ぼくは妹をしあわせにすることはできない。ナズナに恋をしているぼくも死んだ。……ああ、何年ぶりだろう、この名前をくちにするのは。山吹、もうあのぼくを幸せにしようとするのはやめてくれ」
 詩を捧げる声で、木霊は悲しくうったえた。やっぱり悲しいのだった。いじめられた犬みたいな顔をしていて、どうしようもなく哀れを誘うのだった。
「死んだと思えないのなら今日殺してくれ。あんたがぼくを殺すんだ。もう苦しいのは勘弁だ。ひとおもいに頼むよ」
 さあ、と胸を差し出すように木霊は腕を広げた。俺は一歩も動けなかった。木霊は一度目をつぶって、ゆっくりと開いた。
「いま死んだ」
 やめてくれと叫びたかった。木霊を殺すなんてまっぴらだった。絶対に木霊はまだナズナを愛している。ほんとうはこんなことにするべきじゃなかった。こんなことにしたかったんじゃない。
「請求書と納付書が一週間以内に郵便で届くから、期日までに銀行で支払ってくれ。なにか水の困りごとがあったら、またうちに頼んでくれるとありがたい」
 キッチンを出ると、リビングから電話をするナズナの声が聞こえてきた。母親と話し込んでいるようだった。木霊はそちらを振り返ることもせず、玄関へと向かう。踵のつぶれた靴を履き、薄汚れたキャップを被る。
「じゃあな。お幸せに」

 こうして木霊は死んだ。それが俺のなかでの出来事なのか、ほんとうに死んでしまったのかはわからない。木霊が死んでも新聞には載らないから。
 子供は問題なく生まれてすくすくと育った。ナズナそっくりの娘だった。非常に物覚えがよく、ナズナが愛する詩をつぎつぎに覚えて俺たちをよろこばせた。俺は年のわりにだいぶ出世した。進学のことを考える時期が来て、街を離れることにした。娘を恋石なんかに入れるわけにいかなかった。マンションはひとに貸して、新しく一軒家を構えた。
 木霊の仕事は完璧だった。最後まであの水道からしずくがこぼれることはなかった。ひとの役に立つすばらしい仕事をしているのだなと思うと、友人としてとても誇らしかった。あの夜みたいに遅れた星が降ってくることなんか、もうないのだ。

2016/11/15