=恋縹=

山吹と木霊 1

 その年の政府一科で潮寮を希望したのは俺ひとりだった。古い四階建ての寮の、いちばん上のフロアのなかで、俺が選んだのは階段を上がってすぐの一室だった。隣の部屋から廊下の最奥まで、政府一科のためだけにある個室は無人だ。
 階下からは、ひとの話し声が聞こえていた。寮母が貢献科の新入生に部屋を案内している。下は政府二科の階だったはずだ。廊下でひとり耳をすませていると、寮母の聞き取りづらい声が意外と鮮明に風に乗ってくる。
 今年は貢献科の寮希望者が多く、政府二科の空き部屋に入らざるをえない者が一名発生したらしい。政府二科のなかに貢献科がひとり。さぞ息苦しかろう、と俺は思った。この学校の噂は十二分に聞いている。縹岬高校。目に見えないかたちで荒れ果てたこの街では、ごくごく普通よりすこしましな程度の学校だ。
 無人のフロアに政府一科がひとり。あの貢献科と比べればまだ幸運だろう。そう思うとひとけのない廊下も悪くないような気になって、俺は新居のやたら軽い鍵をすがすがしく回した。

 覚悟していた孤独な日々は、そう長くは続かなかった。一通りのオリエンテーションが終わり、初めて授業があった日の夜。最上階へと続く階段に、そいつは座り込んでいた。
「……貢献科か?」
 ほかに思い当たる者はいない。たとえ相手が新入生ひとりだとしても、政府二科が政府一科のテリトリーを侵すとは考えにくい。それに、もしそうやって乗り込んでくるようなやつなら、こんなに寂しげにうなだれているわけがない。
 ぱさついた短い茶髪が跳ねるように飛び起きた。
「わるい」
 そう言ったくせに、そいつはすぐには立ち上がらなかった。丸い目がこちらを見上げる。瞳の色が明るくて、茶髪は地毛かもしれないなと思う。迷うような動きで手が持ち上がり、蛍光灯のぼけた光を浴びるうなじを掻いた。立ち上がる気配はまだない。
 俺も、階段を全部ふさがれているわけでもないのに、その場に立ち尽くしていた。気づけばくちを開いていた。
「二科とうまくいってないのか」
「あいつらと? あんた、うまくやれる?」
「無理だな。俺は一科だぞ」
 ひどく傲慢な物言いだったと思う。それでもあいつは、それを聞いて初めて笑った。子供みたいな笑顔だった。
「だよなあ。ぼくは、一科とのほうがうまくやれそうだけど」
「俺も、二科よりは貢献科のほうが好きだ」

 それが木霊との出会いだった。
 実際、子供だったのだ。俺たちはあのときまだ十五だった。

 木霊は貢献科、俺は一科。学年はおなじでも、校舎も、カリキュラムもまったく異なる。それでも俺たちは毎日顔を合わせた。寮の食堂だ。
 互いを認識するまでは、あの広く、天井の低い空間の、どこかに木霊がいたことにすら気づかなかった。出会った次の日の朝食で、俺はいきなり木霊に捕まった。
「山吹!」
 奥の方から政府二科、手前の方から貢献科が席を占める食堂の、ちょうど真ん中のあたりで木霊が手を振っていた。この場で唯一の政府一科がそこへ向かうと、周囲が一段静かになる。
 俺は露骨に嫌な顔をしたのだろう。木霊はすでに食べ始めていたヨーグルトの器の向こうで笑った。
「ごめんな。ぼくの友達、みんな実家か下宿なんだ」
「もう友達がいるのか」
 授業が始まってまだ二日だ。俺に友達はいなかった。結局、卒業まで木霊以外に友達らしい友達などできなかったが。
「というかおまえ、どこで俺の名前を知ったんだ」
 昨夜は二言三言の立ち話をし、そのなかで木霊が学年とクラスと名前を告げただけだった。俺は名乗らなかった。
「隣、二科の先輩でさ。聞いてみた」
 新入りの一科をチェックしていない二科などいない。どうやらバカではないようだ。
「二科なんかによく聞いたな」
「泣いても笑ってもお隣さんだもん、うまくはいってないけど」
 ふうん、と相槌にもならない声で返して、俺はスープの椀に手をつけた。二科と並びの暮らしは肩身が狭いんじゃなかったのか。マイペースなやつだ。
 寂しがりなだけだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
 俺の部屋はおそろしく静かだった。必要十分な量の勉強をこなしたあと、俺は毎晩廊下に出た。吹きさらしの廊下には、食堂の献立のにおいがあり、共同浴場で湯を使う気配があり、階下の学生の生活の響きがあった。
 高いビルなどひとつもない、街の外に開けていく視界。夜の黒は遠くへ行けば行くほど濃い。濃密な闇に、じわりと滲むように星がまたたいている。本格的な春が、夜を過ごしやすい湿気に包んでいた。俺が夜毎そうしていることをどのようにして知ったのか、夏になる前には、部屋を出るとそこに木霊が待っているのが通例となった。あれだけ賑やかで、壁の向こうにひとの温度が眠っているとしても、この潮寮で木霊は孤独なのだった。そして木霊は孤独を嫌った。
 学校で、木霊はいつもひとに囲まれていた。たくさんいすぎて俺には顔も覚えられなかった。友達が多いのかと思って、
「どうやったらそんなにたくさん友達ができるんだ」
 と聞いたことがある。その頃はまだ、俺にも友達を作るべきかという意識があった。
「たくさん?」
 聞き返した木霊は、嫌味でなくほんとうに意味がわかっていないようだった。
「ひとりでいるところを見ない」
「だいたいいつも、気の合うやつらとつるんでるからな。でもたくさんってほどじゃないだろ」
「見るたび知らないやつといる気がするんだが」
 木霊は戸惑ったように笑った。
「なあ、ぼくが友達と思ってるの、せいぜい五人ぐらいなんだけど。山吹ってもしかして、ひとの顔が覚えられない?」
 俺は返事をしてやらなかった。そういうことはよくあったし、木霊はそれを黙ってゆるした。遠慮のない笑顔をすこし薄めて、一拍置いて違う話を始めるのだ。

 友達の輪のなかで、木霊はよく笑っていた。三人以上いると、たいてい真ん中にいるのが木霊だった。ほとんどは俺が勝手に見かけているだけで、滅多にないことだが、校内ですれ違うときなどは、木霊はひかえめに手を振った。俺は視線だけを返した。実質なにもしないのと同じだった。思えば校内で言葉を交わしたことはなかったかもしれない。
 政府一科の教室は校舎の最上階にあった。寮のてっぺんから降りて校舎のてっぺんまで上るのが、俺には単純に苦痛だった。
 そこからは校庭がよく見えた。俺の席は窓際だったので、よく木霊が体育をやらされているのを眺めた。木霊は運動がへたっぴで、球技をやるとだいたい木霊のチームが負けていた。それでも木霊にはたくさん友達がいた。俺とは真逆だった。
 俺はだいたいのことは思い通りにできた。運動にも、勉強にも、一人暮らしにも、難儀したことはほとんどなかった。だから授業中にもかかわらず、木霊の試合の行方を始終眺めていられたのだ。友達はいなかった。勉強もさほど難しくはなく、教師の話もつまらなかった。だから、興味を持つ対象は木霊しかいなかった。
 木霊は校内ではずっと友達に囲まれていたが、休日に遊ぶ相手はいないようだった。よく俺の部屋に来て勉強をした。といっても、俺が勉強を見てやるばかりだった。
「貢献科って、教養科目以外はなにをやるんだ」
 木霊が見せる課題は、俺が授業でやっているものの半分ほどの難易度しかなかった。貢献科ではこれらは主たる学習内容ではない。卒業後、手に職をつけなければならない彼らは、俺の知らない技術のなにがしかを学んでいるはずだった。
「んー、いろいろだよ」
 基本的に素直で簡単な木霊は、この話になると妙に言葉を濁した。俺もどうしても知りたいわけではなかったから、深く追及はしなかった。木霊が教えてくれなくても、ほんとうに知りたいのなら、そのへんの貢献科を捕まえて聞けばいい。
「おまえ、また同じとこ間違えてる」
「ああ、これ苦手なんだよなあ。山吹は偉いな。ぼくなんて、山吹に言われないと同じ問題だってことすら気づかないよ」
 けれど一度も、そのへんの貢献科を捕まえることはなかった。いっぺんぐらいやってみればよかったのかもしれない。

 木霊は子供じみたところの多いやつだった。箸を使うのが下手だった。字が汚かった。入学の月にもらったプリントを鞄の底に敷きっぱなしにしていた。靴の踵をつぶして履き、靴下を厭がった。髪を洗うのと乾かすのが嫌いだった。濡れ髪のまま寝てしまうから、毎朝寝癖がひどくて困る、と、叱られるのを待っているみたいにこぼされたことがある。
「ちゃんと乾かして寝ろよ」
「山吹は細かいなあ。女の子にモテないよ」
 そんなだから、木霊の茶髪はいつもぱさついていた。短くしているのも、洗うのと乾かすのが面倒だからという理由だった。日焼けしにくい体質で、うなじは焼けると真っ赤になっていた。でも、その会話をしたころから、そんな習慣に改善の兆しが見え始めた。

「山吹はいいよなあ」
 その日、俺は他校の女子を振った。三回目だった。俺たちは二年生に進級していた。
 いままで木霊はそんなことを一度も言わなかったから、俺はすこし驚いた。
「いいって、なにがだよ」
「山吹は男前でしょ、ぼくと違って」
 木霊は別に不細工ではなかったが、あまり目立つところがなく、しいていえばいじめられた犬みたいな顔をしていた。悪い奴でないことは一目でわかるが、女子にモテる要素はたしかになかった。
 対して俺は、際立って華やかな顔でもなかったが、誠実で出来の良さそうな顔をしている、と言われることが多かった。クラスメイトとはあまり会話をしなかったから、そんな話をすることもなかったが、教師にはよく「面接で有利な顔だ」と評された。
 そのときの俺は、いつになく直感が冴えていた。木霊の話の半分以上を適当に流し聞いて、自分の話も適当なことばかりだったが、この日は引っかかるべきところに引っかかったのだ。
「好きな女でもいるの」
 木霊はくちをぽかーんと開けて、頭半分下の位置から俺を見上げていた。みごとな間抜け面だった。
「うそ、当たり?」
「…………」
「まさかいまの女……」
「違う!」
 木霊の声にはものすごい熱がこもっていた。すぐに手を掴まれてどこかへ連れて行かれた。
 恋石女学校だった。
「おい、おい、おまえマジかよ。やめろよ」
「大丈夫、ここからなら見つからないから」
 木霊はいやに恋石の近辺に詳しかった。良くも悪くも有名な学校ではあるし、俺も場所くらいは知っていたが、木霊はそんなものではなかった。聞けば、ここ一ヶ月ほど放課後の時間を使って通い詰めているらしい。女を見に行っているのは間違いなかった。
 路地の入り口に立つ看板の裏に隠れて、俺たちは恋石の正門を見つめた。灰色の制服がぽつりぽつりと吐き出されてくる。向かいの寮へと帰るのだ。
「どれだよ」
「待って。時間、そろそろのはずだから」
 腕時計を見ながら、木霊は制服のポケットに手を入れた。手はそこでなにかを迷っている。
「なあ――」
「あっ!」
 木霊が急に顔を上げるので、俺はその後頭部を危うく避けた。木霊の見つめる先にはひとりの少女がいた。つやのある、長い茶髪をまっすぐ背中におろしている。まだ中学生だろう。体も顔もちいさく、人形のような雰囲気のある少女だった。
「ナズナ、っていうんだ……かわいいだろ」
 木霊の声には熱があった。強烈な熱だった。けれど不思議な熱でもあった。恋をしている声なのだろう。でも、一般に思う恋をしている者の声とはどこかが違った。
「まあ、可愛いな」
 事実だったので俺は認めた。まぎれもなく、ナズナは美少女だった。
「というか、おまえ年下が好きなのか」
 返事はすぐには返らなかった。木霊の手には薄桃色のハンカチが握られていた。ナズナ、と刺繍がしてある。落とし物のようだった。これで名前を知ったのか。返したいけれど返せないのか。
 木霊は、視界からすっかり消えてしまうまで彼女を見つめていた。
「妹がいたんだ。死んでしまった。……彼女を幸せにしてやりたいよ」
 熱のこもった声で、木霊は悲しく言った。木霊が入学以前のことを語ったのは、後にも先にもこれきりだった。