先輩はその中をすたすたと歩いて、棚から一冊のファイルを引き出した。それを開いて中身を読み上げる。
「星野玲、享年十二歳」
生年月日、死亡時刻、死因、その他生前の個人情報がその後に続く。
「以上よ。あなたのことで合ってる?」
ファイルを閉じて先輩がレイに尋ねた。レイが戸惑いがちに頷くのを確認して、俺は性急に疑問をぶつける。
「それで、レイの書類は? ここに記録があるってことは発行されてるんですよね?」
「もちろんあるわ。担当の死神もちゃんとついてたし、死後登録以外に問題は起きてないわね」
「じゃあ書類はどこにあるんですか」
ついキツくなった口調に後悔の念がよぎる。レイが少し怯えたような素振りを見せた。三秒先輩はどちらも気にせず、事実を口にする。
「レイちゃんの担当死神が持ってるわ。書類だけ奪って逃げたみたい。レイちゃんの名前が入ってるから使えないけれど、彼女が消えたら名前も消える」
「だからあいつはレイを追ってるんですね」
「そうなるわね。……ハルくん」
窘めるような言い方だった。先輩の言いたいことはなんとなく分かる。止めておけというわけじゃない。大変だけど大丈夫? とかそんなとこだろう。
それなら俺は、躊躇わずに答えられる。
「俺がレイの書類を取り返します。先輩も協力してください」
「春久くん?」
声を上げたのは、レイだった。元から丸い目をいっそう丸くしている。
「なにをそんなに驚くことがあるんだよ。子供が一人じゃどうしようもないことで困ってるのに、大人が助けないわけにいかないだろ」
だから申し訳ないとか絶対に思うな。そんな気持ちを込めて小さな肩に手を置く。レイは先輩の持つファイルを見上げてから、大きく頷いた。
「死神さん、ありがとう」
それを見た先輩は少し笑って
「そうと決まれば、泊まるところが必要ね」
スカートのポケットを、ちゃりんと鳴らした。
俺とレイは三秒先輩のアパートに転がり込むことになった。
いわゆる2Kのどこか懐かしい部屋は、事務所に勤める死神の寮になっているため、許可証なしでは入れない。それを知っていた俺は最初から先輩の世話になるつもりだったが、先輩の方から俺たちを匿うと申し出てくれたのは、素直にありがたい。
畳にカーペットを敷いた部屋に入り、レイは俺に尋ねた。
「どうして、春久くんはわたしを助けてくれるの?」
アパートはこの世でもあの世でもない、どこかの川沿いに建っている。窓の外には夜の暗さと薄い霧が重なって、数メートル先も見渡せない。
その暗闇を見るともなく見つめて、俺は一度目とは違う答えを返した。
「俺、生きてたときのこと覚えてないんだよ。忘れてることは無理に知らせないっていう死後の方針があるから、死因も知らないんだ。仕事はあるけど、家族も恋人も友達もいない。先輩はなんか、どれとも違うんだよな。つまり、なんというか、何もないんだよ。しがらみとか役割とか。せっかく、レイと出会ったのが暇人の俺だったんだ。助けたっていいだろ?」
「でも、危なくないの? あの人、すごく怖いよ」
「そうだな。確かにあの茶髪野郎はなにしてくるか分からない。でも俺は死んでるんだ。あなたは死んでますって証明書まである。むしろそんな証明のないあやふやなレイが一人でいる方が危ないよ」
くしゃりと髪をかき混ぜると、レイは肩をすくめて俺の手から逃げた。
「春久くんは、わたしの全然知らない人なのに?」
「知らない人だったけど、もう知ってる。レイ」
身を乗り出し、腕を開いてレイを招く。さっき逃げたばかりの俺のもとへ、レイはにじり寄ってくる。
「今まで、よく頑張ったな。怖かったな。もう一人にしないから。俺がちゃんと守るから」
何度か背中をさすっていると、レイはすぐに目を閉じて寝息を立て始めた。ずっと力の入っていた表情が全部ほどけて、あどけない、無防備で無力な子供の顔になる。きりっとした目元は、やはり多少の無理をしていたらしい。
穏やかな気持ちで幼い寝顔を眺め、俺はふとあることに気付く。
……動けない。
目を覚ますと昼だった。ベランダから真っ直ぐに入ってくる光が眠い目を刺激する。その痛みに眉間を押さえながら起き上がると、ずる、となにかが膝を滑り落ちた。
「レイ」
「う」
膝の上に手汗と体温を残して、レイが仰向けにひっくり返る。半開きの口からスカートの裾までが日差しにさらされるが、起きる様子はない。ぼんやりと平和な寝顔を見つめて、俺は大あくびとともに伸びをした。
ぐいぐい背をそらして、逆さになった視界に人影が飛び込んでくる。
「おはよう、ハルくん」
「三秒先輩、おはようございます」
体を起こして振り返る。先輩はもう着替えているらしく、昨日とは別のスカートとブラウス姿で、腕には通勤用の鞄を下げていた。
「今から仕事ですか?」
「いいえ。さっき事務所に行って、今日はお休みもらってきたわ。それと、これとこれ」
先輩が一枚の書類と一冊のファイルを鞄から取り出す。ファイルに手を伸ばすと、
「こっちが先」
と書類の方を押し付けられた。おとなしく受け取って目を通す。
書かれていたのは、今日の俺のお仕事だった。本日、担当区域で十四件の死者が出て、俺にはそのうちの二人が割り当てられているらしい。らしい、といっても、今知ったばかりの情報ではない。一週間も前には通達されていた内容の、これは念押しみたいなものだ。
「行ってらっしゃい。レイちゃんは私が見てるから」
見透かされている。レイを置いて仕事へ行くことを、俺は躊躇っていた。サボれば幽霊が増えるだけだと分かっていても、目の前に手を差し伸べれば助けられる存在があれば、そちらに気持ちが偏ってしまう。
「悪い癖、ですね」
「そうとも言えるわね。でも私は、そういうとこ嫌いじゃないわよ」
「ありがとうございます」
今に始まったことじゃないけど、先輩には助けられてばかりだ。そしてそれが、俺と同じように自分の手で他者を救う快感に魅せられているだけだとしても、俺が先輩に救われていることに変わりはない。
書類を畳んでズボンのポケットに突っ込む。皺くちゃになった黒マントの裾を引っ張って伸ばし、フードを被った。
「お言葉に甘えて、行ってきます」
「頑張ってね、ハルくん」
三秒先輩が柔らかく手を振る。なんだか無性に、生きていた頃が懐かしかった。何も覚えてないけれど、きっとこんな些細な幸せを毎日少しずつ見逃しながら生きていたんだろう。
手に取った鎌の感触は死者にしか味わえないものだけど、遠い生の実感を殺す毒ではなかった。