~生きとし生ける物語~

5、渡瀬真嬉、享年十五歳。

「……ただいまあ」
 昼下がりと深夜、二人の病死者を事務所に送り届けて、帰宅できたのは夜中の一時だった。あいだで一度戻ってきてもよかったけれど、いちおう人に見つかっては困る身だ。ここへの出入りは少ないに越したことはない。それは、レイの一番つらい時間から逃げた言い訳のようでもあるけれど。
「おかえりなさい。遅かったわね、お疲れ様」
 迎えてくれたのは先輩の穏やかな声だった。小さな台所を横切り、低いテーブルのある部屋へ入ると、先輩はそっと唇の前に人差し指を立てた。
「レイちゃん、隣で寝てるの。静かにしてね」
 見れば、半分閉じたふすまの向こうで、タオルケットに包まれた肩がゆっくりと上下している。あれを寝かしつける先輩の姿が目に浮かぶようで、俺は無意識に呟いていた。
「先輩とレイって、親子みたいですね」
 しばらく俺は、自分が言ったことに気付いていなかった。こちらに背を向けたレイをぼーっと眺めてじゅうたんに腰を下ろし、フードを脱ぐ。眠い。死者だって疲れる。そして疲れを解消するには睡眠が一番だ。昨夜はレイを膝に乗せたまま変な姿勢で眠っていたため、完全回復とはいかなかった。ふわあとあくびをして、布団ありますか? と聞こうとしてやっと、先輩が黙っていることに気付いた。
「三秒先輩?」
 おーいと言いながら目の前で手を振ってやろうかと思って、すぐにやめた。先輩は本物の母親のように優しい目で、だけど母親らしからぬ悲しい目で、レイの背中をじっと見ていた。
「私、二十歳で死んだのよ」
 はいとか、そうですねとか、知ってますとか、言うべきか迷った。迷っているうちに、先輩は続きを口にする。
「子供なんていなかったし、結婚もしたことなかった」
「それが今、悲しいですか?」
 今度は驚くほど迷いなく声が出ていた。三秒先輩は、それに怯む様子もなくほんの少し笑ってみせる。
「ハルくんはまだ、悲しいって分かる?」
「いえ、正直よく分かんないです。人のことなら分かりますけど、自分のことはさっぱり」
「奇遇ね、私もなの」
 そんなの、死神ならたいてい奇遇だ。死後もこの世をふらふらしながら他者の死にばかり触れていれば、自分の悲しみはどんどん感じ取れなくなっていく。自分はすでに死んでしまっているのだから、それを後から悲しいと感じるのは難しい。貧しい家庭に生まれた子供は、自身の境遇を不幸だと感じこそすれ、悲しいとは思わない。それと同じこと。
 俺たちにとって自らの死は一種の始まりであり、そこから始まった死神業を続けていれば、かつて死が終わりを意味していたことなど忘れてしまう。死は終わりであって始まり。死後に、新たな意味合いが生まれる。
「先輩は、なんて言ってましたっけ。死後のこと」
「終わらない夏休み、か。ハルくんは第二の人生って言ってたわね。ほんと、若くないんだから」
 先輩は無理に笑っていた。疲れたみたいな笑みだった。
「夏休み、もう飽きちゃいましたか? それとも、一学期の方が楽しかった?」
 あくまで喩えに乗っかって、俺から悲しい声は出さない。俺たちに自分の悲しみは分からない。だけど人の悲しみは分かってしまうから。
「楽しいわよ。たぶん、生きてる時より。でもやり残したことだってある」
「たとえば?」
 ことん、と先輩が俺の肩に頭を乗せる。その目はレイを見つめていた。
「子供、ほしかったなあって」
「先輩、彼氏いたんすか?」
「それがいたのよ。だから、もうちょっと長生きしてれば子供も産めたのかな、なんて思っちゃうの」
「もうちょっとじゃだめですよ。子供産んだらしばらく生きててもらわなきゃ」
 今日も子供を産んだばかりの母親を事務所へ連れて行った。逃げることだけはするなと厳命したが、彼女がどれを選択したのかまでは知らない。
 この世に未練がある者は、特に誰か好きな人をこの世に置いてきた人は、幽霊にだけはなってはいけない。幽霊は、害なす以外で生者に関われない。どんな思いで近寄ろうとも、幽霊は生者を傷付けてしまう。そして幽霊への恐怖で死後観を歪められた生者は、自らが死者となった時に誤った選択をしてしまいやすい。
 幽霊は幽霊を生むのだ。
「ハルくん、今日のお仕事のこと考えてるでしょ」
「幽霊のこと考えてました」
「あら奇遇」
 さっきよりいくらか明るい口調で、三秒先輩が肩を離れていく。それがなぜだか名残惜しく、俺は先輩がテーブルへ向かう動きを目で追った。
「これこれ。朝、見せなかった分よ」
 先輩から一冊のファイルを受け取る。白っぽい表紙をめくって、俺はぎょっとした。
「こいつ……!」
 透明なポケットに、斜めになって入っている写真。それは紛れもなく、レイを襲った茶髪の男だった。俺たちが会った時と比べると、ずいぶん無気力そうな表情で目を伏せているが、同じ人物だということは分かる。
 次をめくると、そこには書類が収められていた。氏名や生年月日、享年、命日、死因、その他の個人情報欄がいくつも並び、その大半は黒く塗りつぶされている。
 読めたのは、氏名、享年、そして所属だけだった。
 渡瀬真嬉、享年十五歳。幽霊対策委員会所属。
「けっこう粘ったんだけどね。事務所勤めでもここまでの情報しか公開しちゃいけないらしいのよ」
「いえ、これで十分です。先輩も読んだんですよね」
「お先に失礼したわ。それで、どうするの?」
 渡瀬という死神は、幽霊対策委員会に所属している。つまり、レイの件には対策委が関わっているかもしれない。
「対策委に行きます。レイを幽霊にしたことは、どんな目的があっても不当です。俺が直訴します」
「でも対策委はアポなしじゃ受け付けてくれないわよ」
「アポって、どのくらい前からいるんですか」
「二日。それに、一般人じゃ受け付けてもらえないわ。もしかしたら、私なら少し有利かもね」
 先輩は何も見ずに答えた。決して楽しい話ではないのに、口元がはっきりと笑っている。
「お願いします、先輩から対策委に掛け合ってください」
 と言うと、返事は笑顔とウインクだった。俺の選択を先読みしていたみたいな肯定。ウインク、意外とうまいな。――じゃなくて
「……先輩、なんでそんなに俺のこと分かるんですか?」
「同じ日に死んだんですもの」
 なんの理屈もなかった。それが本当なら、俺だって三秒先輩のことがよーく分かるはずなのに。
 先輩はそれ以上の追及を阻むように俺に背を向け、レイの眠る部屋へ入って声を潜める。
「じゃあ明日の予定は決まりね。ハルくん暇なんでしょう。レイちゃんとお留守番、頼んだわよ」
 俺もふすまの間から体を差し入れ、
「分かってますよ。ところで先輩、俺眠いんですけど布団ってあります?」
「私がレイちゃんと寝るから、ハルくんは予備の布団をどうぞ」
「そんなの悪いですよ、俺がレイと」
「だーめ」
 先輩が腕を伸ばし、俺の目の前で人差し指をぴんと立てた。
「許可なく女の子の布団に入ろうなんて、私が許しません」
「……はあい」

2012/10/24