考えられる可能性は、その一つだった。担当の死者を幽霊にすることにどんな利益があるのかは分からない。だがあの死神の口ぶりからすると、あいつがレイをわざと幽霊にしたとしか思えない。
それに、あいつを見たレイの尋常じゃない怯え方からも。
目を開けて顔を上げる。レイは変わらず、死神の俺を怖くないよと見つめている。
「そう」
ため息のように小さな相槌が、狭い部屋に響く。
「分かった。わたし、車にひかれたの。それからあの人に会った。お父さんとお母さんに会いたかったのに、あの人に連れて行かれたの。だからわたし、あの人が怖いの」
頬についた涙の跡を、また滴がなぞろうとした、その時
「ちょっと、開けてくれる?」
ドアの外から声がした。怒ったような呆れたような、聞き慣れた女性の声だ。おかげで数に限りのある入口を長々と塞いでいたことに、やっと気づく。
「すーいませーん。今出ますー」
俺が返事をすると、外から扉が開いた。レイが驚いて俺の後ろに隠れる。その様子が微笑ましくて、思わず頬を緩める。
「あらやだ、ハルくんじゃない」
ドアを開けたのは、ロングスカート姿の大人の女性だった。室内を覗き込もうとすると、背中まで伸ばした黒髪が肩を流れる。
「ただいま、三秒先輩」
俺があだ名を呼ぶと、レイが
「さんびょうせんぱい?」
「そ。俺より三秒先に死んだから三秒先輩」
「いい人? 悪い人?」
「いい死神だよ」
神妙な顔つきでレイが三秒先輩を見やる。先輩は俺が子供を連れていることを訝しがるでもなく、笑顔でレイの視線を受け止めていた。
「ところでハルくん」
笑顔のまま、こっちを向かずに先輩が言う。
「ここ、入口よ? ずっと塞いでちゃだめでしょう」
「あ、はい」
そりゃそうだ。だけどレイをどうやって連れ出すべきか。一歩外へ出れば、待合室は死者登録待ちの死人でいっぱいだ。レイには刺激が強すぎる。
そんな俺の考えを読んだかのように、三秒先輩はやっぱり笑顔で
「なんだか訳ありみたいじゃない。受付に用がないなら、私と一緒に奥まで行く?」
とありがたい誘いをくれた。
「お願いします。レイ、一緒に行こう。先輩が案内してくれるって」
立ち上がってレイの手を取る。握り返してくる指先はぬるい熱を持っていた。
先輩について部屋を出て、受付とは真逆の方向へ歩く。俺たちが出てきたのと同じようなドアが、左側にいくつも並んでいる。
「ねえ、死神さん」
小声で言いながら、レイが軽く手を引っ張った。ちらちらと、木の実みたいな目が俺と先輩を交互に見ている。
「死神さんの名前って、ハルくんていうの?」
「え?」
名前、言ってなかったっけ。ぽかんとする俺に、三秒先輩が気づいて振り返る。
「春久、っていうのよ。御園、春久くん」
「はるひさくん……」
レイはなんだか感慨深げだった。そうか、言ってなかったな。初対面ではそこまで興味を示してもらえなかったし、と思い返す俺に先輩が
「ハルくんは気が利かないわね。名前と一緒で頭までおめでたいみたい」
「おめでたいって、先輩いっつもそう言いますけど、そんなめでたい名前でもないですからね」
「あらそう。――それで、あなたの名前はなあに?」
何度も繰り返したやり取りを適当に終わらせ、先輩はレイに尋ねた。そういえばレイのフルネームも聞いていない。最初会った時にはただの生きた子供だと思ってたから、わざわざ聞こうとも思わなかった。そんなことしたら情が移る。
今ではとっくに情が移って、そんなの無駄な心配なのだけれど。
「ほしの、れい。空の星に、野原の野、王様の王に命令の令って書いて、星野玲」
なぜか空いた右手を動かしつつ、レイが名前を説明する。三秒先輩は優しく目を細めてレイの名前を褒めた。
「可愛い名前ね。似合ってるわよ、レイちゃん」
言われたレイはちょっと頬を染めてへらっと笑う。先輩は自然な動作で手を伸ばし、レイの頭を撫でた。
「ねえ、説明してくれる?」
何を、とは言わず、先輩が聞く。聞かれているのは俺だった。慈しむような視線はレイに注がれていて、声は母親のように柔らかく、弱さがなかった。
「レイは幽霊なんです。担当の死神がおかしなやつで、そいつにわざと幽霊にされたみたいです。レイとは仕事中に会って、一緒に行動してたら帰りにその死神と出くわして。レイを連れて行こうとしてたけど、渡しちゃまずいと思ってレイ連れて逃げてきました」
「そうだったの。ありがと、分かったわ」
三秒先輩はひとつ頷いてレイから視線を外し、また前を向いて歩きだす。
そして、廊下の突き当たりで足を止める。目の前には、入口部屋とは全く違う、見るからに頑丈で立派な扉がそびえていた。関係者以外立ち入り禁止の、事務所内部への通用口だ。
先輩が扉横のガラス板に手のひらを当てる。板の上で緑色のランプが点灯した。
「それじゃちょっと調べてみましょう」
扉を押し開け、先輩が言う。その先に見えたのは、学校の教室程度の広さの事務所だった。二十数名の死神が、俺たちには目もくれず事務机に向かっている。先輩は、室内手前に背の高い棚を利用して無理やり作った通路へと進んでいく。
金魚の糞のようにその背に続き、先輩が開けた部屋の隅にあるドアをくぐる。今度は引き戸だった。
「ここって……」
「ハルくん来たことあるでしょ?」
「ずっと前にですけどね」
三秒先輩が恥ずかしい思い出を語ろうとするのを阻止して、部屋を見回す。明かりの乏しい室内は、天井に触れるほど高い書類棚でいっぱいだった。