なぜか背筋を走った緊張が、振り返るとともに驚愕に変わる。
「お前……」
明るい茶髪、整った笑顔、今から彼女とデートです、みたいなこじゃれた服装。そして何より目を引く、身長を越える大きさの、鎌。
死神だ。
後ろ手に持つ様子はかわいこぶってるようにも見えるが、それが余計に不気味さを増していた。俺みたいな露骨に死神っぽい格好をしている方がよっぽど健全に思える。
作り物みたいな笑顔をキープして、男は軽やかに一歩踏み出し、橋を降りる。レイが俺の背中に顔を押し付ける。
「やだ……怖いよ、助けてえ……」
レイはどうやらこの男を知っているらしい。しかもろくな思い出はなさそうだ。男の方は何を考えてるんだか、身を屈めてレイを覗き込もうとする。
「そんなに嫌わないでよ、悲しいじゃない――ユーレイちゃん」
びく、とレイが大きく肩を震わせた。
……なんて言った? こいつは、レイが幽霊だって?
思わず息をのんだ俺の前で、茶髪の男は悠々と膝を伸ばし、鎌を体の前に持ってくる。
「お前、今なんつった?」
「聞いてなかった? 幽霊なの、この子。僕がそうしたんだけど」
「は……? っうわ、」
思い切り服を引っ張られ、後ろによろめく。目の前をなにかが勢いよく横切って、俺は目を剥いた。
「っ、お前なにすんだよ!」
男は俺に鎌の刃を向けたのだ。レイに引っ張られてなかったら……どうなったんだろう。俺はとっくに死んでる。死神でも消えることはある、とは聞いていたけれど、もしかしてこの鎌が?
「なにって、別に君を消そうってわけじゃないよ? たださあ、そのユーレイちゃん、僕の担当なんだよね。だから返してほしくってさ」
俺の内心を読んだように、男が猫なで声を出す。だけど俺は、最後の言葉のほうが気にかかった。
「返す、だあ?」
「そ。ちょっとユーレイちゃんに用があったんだけど、逃げられちゃってね。参っちゃうよ」
鎌を持たない方の手で、わざとらしく眉間を押さえる仕草。後ろでぐずぐず言っていたレイがぴたりと黙る。レイの拒否感は、そのまま俺に伝わってくる。気付けば俺は本気で怒鳴り声を上げていた。
「……逃げられちゃった、じゃないだろ。なにが目的だか知らねーけど、自分の担当者幽霊にしといて、なんだよその態度は! 死んだばっかの子供こんなに怯えさせて! 死神のくせに、死後まで適当なことしてんなよ!」
言い終えるのと同時に、男が鎌を振り上げる。俺は体をひねってレイを抱き上げ、左手に飛びすさった。鎌の先が見当違いのアスファルトを打つ。
男は明らかに取り乱していた。どこに地雷があったかは分からないが、これはチャンスだ。
そう見極めて、俺はレイを抱えて走った。もう一度振りかざされた鎌の下を抜けて、乱れる茶髪を尻目に橋を目指す。
鎌が地を打つ音が高く鳴り、男が俺たちを追いかけ始める。レイは腕の中でぎゅっと目をつぶっていた。
橋の真ん中まで来て、俺は足を止め、レイをしっかりと抱え直して声をかける。
「目、開けんなよ」
「分かった!」
レイの声は悲鳴のようだった。男はもうすぐそこまで来ている。俺はとん、と軽く跳ねて橋の欄干に上がった。
こんな状況は初体験だが、俺だってもうベテランと呼ばれてもいい頃だ。今さら失敗なんてしない。
そう自分に言い聞かせて、俺は真っ暗な川へと身を投げた。
たかが死者登録事務所への移動に、これだけ緊張したのは初めてだった。
殺風景な小部屋の中で、俺は今さら、息が上がっていることに気付く。死人に呼吸なんて必要なさそうだが、息が整わないと動きにくいし、呼吸ができないのは苦しい。
しばらく床に手をついて荒い息を繰り返していると、腕の中でなにかが動いた。
「苦しい、放して」
子供の声に言われて、ぱっと小さな体を開放する。レイはもぞもぞと俺から離れ、立ち上がって部屋を見回した。
「ここ、どこ?」
「来たことあるだろ。死者登録事務所の……あれだ、入口みたいなもんだ」
コンクリ打ちっぱなしの壁と床と天井と、あとはグレーのペンキが剥げかけの錆びた扉しかない、小さな部屋。外からこの事務所にやってくると、必ずこういう部屋から入ることになる。
ドアの外は事務所の受付で、おそらく死神に連れられた死者で溢れている。そんなところにいきなり飛び込むと、死後間もない死者たちがパニックになるから、という配慮でこの入口部屋が作られているのだ。
そう説明すると、レイはぱちぱちと目を瞬いて
「来たこと、ないよ」
「うそだろ。えっ、まじかよ……」
いや、まったくありえない話じゃない。レイはまだ小学生のがきんちょだ。そんなのが、いきなり死者登録を逃れて幽霊になるなんて非現実的だ。
座ったまま見上げたレイは、戸惑う俺を不安そうに見下ろしている。やっぱりこいつが自分から幽霊になったとは思えない。
「なあレイ、お前は――」
レイが首を傾げる。なにか聞こうとして、そのまま半開きの口を止めた俺が不思議なんだろう。
「死神さん?」
小さく、窺うような声。だけど俺はそれに答えられない。なんて答えればいいのか分からない。レイの死因を、死んでから経験したことを問おうとして、それきり動けない。
こんな小さな子供に、自分の死を語らせることはできない。
「レイ……お前、幽霊なのか」
結局俺が絞り出せた言葉はそんなものだった。レイはそれに、無言の頷きで答える。隠し事がばれてちょっとバツが悪いみたいな表情に、重苦しい死の悲しみはない。そんなの、俺が見落としてるだけかもしれないけれど。
「俺、書類の話しただろ。あの世かこの世か、それとも逃げるかって書いてあるやつ。知ってるか?」
レイはちょっと難しい顔をして
「その話は覚えてるけど、そんなのがあるって知らなかった。ねえ、」
一拍、生きてるみたいに息をして、レイが問う。
「わたし、なんで幽霊になったの?」
ああ、もうと言いたかった。なんでだろうなと言いたかった。だけど何も言えずに、俺は自分よりもちっぽけな幽霊を見上げて、その眩しさに目を細めた。
そのまま目を閉じて、うつむいて、やっとまた口を開く。
「さっき橋で会った死神、あいつはお前の担当だって言ってた。お前が死んだ時、あの茶髪野郎はお前に書類を見せず、死者としての正式な手続きをさせなかった。だからお前は幽霊になった。あの死神が、お前を幽霊にしたんだよ」