ゆるび

IFでユルビ ユール視点3人称


 面倒なことになった、というのが最初の感想だった。次いでユールは自身の不備を反省した。「近しい人にはよく好かれるけど、遠くから見たらなんでそんなに人気か分からない」という友人の評価を思い出したためだ。その性質は赤の他人に心当たりのない妬み嫉みを向けられる理由となりうる、と彼は言っていた。
 その忠告をきちんと聞き入れなかったことが現状を招いたのだろう、とユールは回りくどく反省する。夕闇迫る城下の路地裏で、三人の上級生男子に取り囲まれた状況で。
 全く焦りを覚えない、という訳ではもちろんない。自分にいくらでも弱みがあることは自覚している。けんかなどしたこともないし、訓練以外で人に魔法をかけたこともない。そういう物理的な制限だけでなく、さっき奪われたカバンの中身も、十分に人質として弱みになりうる。自分の進級を左右する書類もあるし、絶版になった教材も、姉の出店計画の要まであの中に入っている。
 それらを踏まえて、ユールはざっと三人を見回した。見下ろしてくるにやにや笑いはどうにも軽薄で、肩を壁に押さえつける手にもそれ以上の意味をうかがえない。目的は単なる嫌がらせや鬱憤晴らしで、ユールの持ち物は把握していないようだ。どう対応すべきかしばし黙考し、とりあえず当たり障りのないことを問いかける。
「おれに何か用事ですか?」
 過度に強がりも怯えもしない声を心掛けた。こんなことをしていても相手は秘塔生だ。素行が悪いのに退学になっていないということは、相当に世渡りに長けているのだろう。暴力沙汰に持ち込まれれば、損をするのはユールだけとなる。その悪まで正す意欲はユールにはなかった。目指すような精霊になるには問題なく秘塔で進級を重ね、勉強しておくことが必要不可欠だと思っている。今さえ切り抜ければ、この男たちがのさばることは止めなくても構わない。むしろそんな余計なことをして将来魔界を守れなくなる方が、精霊の視点からすればよっぽど悪いことだ。
 そんなユールの内心など露知らず、正面の男が目鼻に比べて大きな口を開く。
「むかつくんだよ、お前」
 あまりにも陳腐な言いようだった。だが、何を言っても悪い方にしか傾かないことは分かったため、彼の言葉に聞き入る態度を取る。
「精霊だか騎士団だか知んねーけどさあ、自分ちょっと特別とかって調子乗ってんじゃねーの? オレらの学年の試験まで受けに来て、何? お勉強できますアピールかよ、うっぜんだよ!」
 顔の横ぎりぎりを蹴られて、反射的に目を閉じる。それを見てげらげらと笑う男たちにはさすがに腹が立ったが、目をつけられたのはあの時か、と冷静に分析してこらえる。
 母に勧められた試験だった。無料だし、どうせ暇なんでしょ? と言われて受けに行った。未修了の範囲も多く結果は今一つだったが、担当の教師は受験した熱心さを評価してくれた。この事実を白状すれば相手の気は済むかもしれない。しかし、母との関係や勉学への姿勢を笑われることは目に見えている。それを許せるほど損得で生きてはいない。
 どうしたものかと策を講じていると、路地の外を見張っていた男が「来るぞ」と嬉しそうな声を上げた。
 何かと思って首を伸ばすが、路地は暗すぎて人影はぼんやりとしか見えない。小柄な影は躊躇いなく路地に駆け込んで、一声叫んだ。
「ユール!」
「っ!?」
 さっと血の気が引くのが分かった。何を聞かされたのか焦りでいっぱいになった声は、紛うことなくルビィのものだった。
 慌ただしく走ってきたルビィに見張りの男が足払いをかけて転ばせる。地についた手をあっさりとまとめて押さえ込まれ、ルビィは簡単に確保された。
「痛い! ちょっと何よ! 離してっ!」
 いくらじたばたしても小柄な少女では敵うはずもなく、男はポケットから紐を取り出して細い手首を後ろ手に拘束する。そこまで来るとルビィは顔を強張らせて口を噤み、大人しくぺたりと座り込んだ。
 一部始終を呆然と見ていたユールに、正面の男が愉悦たっぷりに言う。
「女はちょろいな。お前の名前だけでほいほい釣られるなんて、なあ?」
「……何がしたい」
 たかが嫌がらせでここまでするのか。そう思って、これと似たような思考回路を知っているような気分になる。そして耳元に囁き込まれた声に、ユールは確信した。
「何って、お前を傷付けたいんだよ」
 頭を殴られたような衝撃が走った。同時に肩を押さえていた男に突き飛ばされ、倒れ込むよりも先に両手を捕らえられる。男は背中を踏みつけてユールを完全に押し倒したかと思うと、髪を掴んでうつぶせた顔を無理矢理上げさせた。強制的な動きで、怯えるルビィと目が合う。
 その目に射抜かれたのはユールの方だった。
 男の一人がルビィに何か耳打ちし、ルビィがまた抵抗を始める。男は舌打ちとともにルビィの頬を叩き、一瞬動きを止めた体をユールの目の前まで引きずってきた。
「やだやだやだやだって! なんで!! っ、やだ!」
 ルビィは顔を真っ赤にして激しく頭を振る。不規則に、ぶわり、ぶわりと風が巻き上がる。魔法だった。しかしコントロールが利かないらしく、手首の紐までは届かずに髪を乱すだけだ。
 その必死さにユールは引きずられる。自分が何もせず見ていてはいけないと悟る。
 ――道徳的には正しかったのだろう。だが結果的には、彼はまんまと引っかかった。
「ユール……っ」
「ルビィ!」
 泣き声につられて右手を伸ばす。後ろの男はその動きを邪魔しなかった。おかしい。感じた瞬間、ルビィを押さえていた男がその手を掴んだ。そしてルビィの頭とユールの手を、まとめてユールの方に押し付ける。
 ひっとルビィが息をのむ音、頬に唇に触れる冷たい皮膚、眩いフラッシュ。すべてが同時に押し寄せ、頭が真っ白になる。
「や、やだ! はら、て、え、ふ……うう」
 ルビィが身を引こうとする度、唾液と涙に唇と頬を濡らされる。めちゃくちゃに吹き散らしていた風はルビィの頬を薄らと傷つけたのを最後に吹き止み、それきりルビィはぎゅっと目をつぶってすすり泣き始めた。
 ユールは目を閉じることもできず、あまりに可哀想な泣き顔を見つめる。どうしてこの子がこんな目に遭うんだ。そんな思いが先に立ち、男たちの目的が理解できなくなる。
 解放は唐突に訪れた。男の手を振りほどこうとばたつかせた足が空振りし、髪を引っ張る手が離れ、ルビィの体がぐらりと倒れる。
 ユールはすぐさま起き上がって、男たちを追いかけたい思いをぐっと抑える。外の道に消えていく彼らは、今見逃せばもう探せないだろう。惜しくないと言えば嘘になる。だが目の前の少女を放っておくことはもっと躊躇われた。
「ルビィ」
 大丈夫か、とはあまりに白々しくて聞けなかった。手首の紐を解いて抱き起こし、顔を覗き込む。
 ルビィは大きく見開いた目からぼろぼろと涙をこぼして、ユールにとってはあまりに痛い言葉を口にした。
「ごめ、なさい……、ごめんなさいぃ」
 肩からずり落ちた上着の袖で、ルビィはごしごしとユールの口元を拭う。何度もしゃくりあげ、自身の顔はぐちゃぐちゃのまま、強く強く。
 震える肩を抱きしめたい衝動をこらえて、ユールはただ、頬の切り傷に手を伸ばし、指で血を拭った。
「おれが悪かった。お前が謝ることはない。だから――」
 一瞬、ぱっ、と暗がりを水色の光が照らした。ルビィの体からいきなり力が抜け、ユールはそれを支えて消えた光の源を探す。
 路地の入口に、一人の少年が立っていた。壊れた機械を手につかつかと歩み寄ってくる。ルビィを挟んでユールの真正面に立ち、彼はいつになく険しい顔で言った。
「どうして何もしなかった? 人の悪意がそんなに珍しいかよ」
「……アクア」
 名前を呼ばれて、アクアは持っていたものを地面に叩きつけた。すでにぼろぼろになっていたそれを思い切り踏みつけ、粉々にする。呆気に取られてその様子を見ていたユールを、アクアは明らかにバカにした目で睨んだ。
「あいつらの狙いはこれだ。カメラ。お前の立場を危うくしたくて、女を襲ってるかのような画が欲しかった。分からなかったのか?」
 ユールは素直に首を横に振り、尋ね返す。
「お前はあの三人を知っているのか?」
 いつからいたのか、どうして助けたのか、そんな聞きたいが聞かなかったことにまでアクアは答えた。
「あいつらはちょっと前の親父のオモチャ。親父が飽きて縁切ってからもちょろちょろと目障りだから、痛い目見せてやりたかったんだよ。まあ、それは偶然すれ違ったルビィを追っかけたらあいつらがいて、何となくそう思っただけだけど」
 アクアの口調は始終八つ当たりのように刺々しかった。その矛先は当然、ユールにも向かう。
「で、ユール。お前はどうなんだよ。おれとしてはあいつらと同じくらい腹立つんだけど。そんだけ魔力あるんだから、適当でも何でもボコボコにしてやればよかっただろ。なんで何もしなかったんだ? 今回はこのくらいのことで済んだけど、じゃああいつらにルビィを犯さなきゃ殺すって脅されたらどうする? そんなのありえないと思うか? もしあいつらの後ろに今も親父がいたら、そのくらいのこと簡単にやったと思うけど?」
 アクアの言動は、いつも空っぽの毒針のようだ。いくら殺すと脅して刺してこようとも、小鳥一匹殺せない。けれど今彼が語る世の悪意はそれとは違う。触れただけでも身動きを取れなくなるほどの毒、明確な害意がそこにはあるのだ。そしてきっと、それを語るアクアはその惨憺たる姿をよく知っている。ユールがあの三人の裏に感じた悪意の回路は、アクアの父のものだったのだろう。
 少しだけならユールも知っている。だからこそ、アクアの刺す言葉が痛い。できる想像をせず、できる抵抗もしなかったことを思い知る。
 無意識にうつむくユールの顔を、アクアが片手で手荒く上げさせた。真っ向から覗き込んでくる水色の双眸を、ユールは静かに見返す。数秒が冷たく過ぎ、やがてアクアがふいと顔を背けた。
「やっぱないわ。おれ、帰る」
 そう言うが早いか、くるりと踵を返して去っていく。ユールは呼びとめることも考えて、止めた。
 ルビィが静かな寝息を立てているのを確かめ、軽い体をゆっくりと抱き上げて背負う。そして、地面に落ちたカメラの残骸を意図して踏んで、路地を出た。
 空は一面の夜だった。


2012/6/27

今までifで書いた話、ネタの中では、時系列的に一番新しい出来事だと思われます。
周囲の人に恵まれて向上心の絶えないユールとは違って、へらへらと現状に甘えているように見えるアクアはマーレの影響を強く受けつつも、一部は反発したり彼の行動に嫌な思いをしたりしてる みたいなことでした。
ユールの行動力の偏りとかもまだまだ書けそう。
ちなみに本編精霊sは人の悪意を意識し出すより先に、敵→精霊の当然の敵意に触れてるから、個人→個人の悪意にもifユールのように驚かない。