暗いテレビ画面を白い英字が下から上へと流れていく。画面の右端では、気味の悪い低音のコーラスの内容を、縦書きの字幕が次々に映し出している。その上を情緒もなにもないテレビ放送のスタッフロールが駆け足で横切っていき、番組は終わった。
さっきまでが嘘のように明るい中古車屋のコマーシャルが流れ出しても、アクアは身体の前に膝を抱えて縮こまったまま動けない。その真横で、あくびを噛んでいたルビィがリモコンを取ってテレビを消した。聞き慣れた替え歌がぷつっと途切れ、画面はほんとうに真っ暗になる。鏡ほどでないにしても、かなり鮮明に、画面に二人の姿が映った。
深夜二時前。精霊が五人で暮らす家に、いまはアクアとルビィしかいない。
「結構面白かったね」
「え?」
ルビィの気の抜けた感想に、アクアは耳を疑った。
何度か見たことのある、平和だけどくだらない深夜系バラエティ番組をついダラダラと見ていたら始まった、タイトルもよくわからない邦画だった。舞台は外国と日本を行き来していて、最初は洋画かと思ったものだ。親子を中心とした静かなドラマ物、だったのは序盤の二十分程度。気がつけば姿のない悪霊が次々登場人物を恐怖にどん底に陥れる、激しいホラー展開になっていた。
説明が少なく、わからない部分も多いが、とにかく救いがなかった。悪霊に関わった者は善人も悪人もなくみながその餌食となった。関わりの程度さえ問わない。エンディングでは視聴者もその関係者のひとりであると匂わせていた。描写が過激でないのだけが救いだ。
さすがに、その全部を信じる感性はない。魔界生まれ魔界育ちのアクアには、悪霊というフィクションは人間界特有の文化として、自分とは関係ないけど周囲の人たちにとってはそれなりに意味のあるなにか、と受け止められている。
それは間違いないのだが、ああいう演出の映像を観た後、廊下の暗がりや背後がなんとなく気になってしまうのはどうしようもないことだった。きっとみんなそうなのだと、アクアは思っている。
まったく、どうしてこんな嫌な気持ちになる作品を好き好んで作ったり視聴したりする人間がいるのか。と、アクアが認識しているものをルビィはまあまあ、いやだいぶ、結構、楽しんでいるのだ。しかも、
「主人公のお兄ちゃんがさ、子供のこと庇ってやられちゃったじゃん。ちょっとエグかったけどかっこよかったよね!」
なんというか、きっとかなり的を外れている感想を嬉々として語ってくる。
「ええ……」
と引きながらも、おれは面白くなかった、とは言えないアクアである。
ルビィはこの手のハラハラさせる要素のあるフィクションを好むが、どんな感動超大作相手でも余韻に浸るという習慣はない。イチオシのシーンを伝えたあとは、すぐに立ち上がって背伸びをした。
「もうこんな時間かあ。お風呂めんどくさいから明日でいっか。歯磨きはしたし、あたし寝るね。おやすみー」
小さな身体が座っていたソファを無駄に乗り越えてリビングを出ていく。アクアはまだ膝を抱えたままだ。閉じかける廊下への扉。雰囲気が出るからとキッチン以外の照明を落とした、薄暗く広い居間。テレビに映る呆然とした自分の顔。
背筋がひやりとするような心地がして、アクアも慌ててソファから飛び上がった。
「お、おれももう寝る!」
人間界の育ちではないから、風呂に入らずにベッドに入ることは気にならない。体臭らしい体臭よりも、部屋中の紙類から立ち上るインクの臭いがきつく染みついた布団で、アクアはほっと息を吐いた。大半の明かりが消えた広い家は、あんな映画を観たあとではどこもかしこも不気味な雰囲気に思えて落ち着かない。それでも自分のベッドという安全地帯では自然と穏やかさが取り戻せる。
明日、昼までにはユールが帰ると言っていた。グロウもゴッドも晩ご飯までには帰ってくるはずだ。そんなことを考えながら目を閉じたとき、きい、と小さな音を立てて部屋の扉が開いた。
びくっと飛び起きて、扉の隙間から差し込む廊下の明かりをたどる。薄手の毛布を肩から被ったルビィが滑り込んでくるところだった。
「ルビィ?」
「よかった起きてたー。ちょっと寄って」
「え? え? なに?」
混乱するアクアを、ベッドの上、壁際に押しやって、隣へ乗り上げてくる。毛布の絡みついた身体がアクアの胸元へぴたりと収まった。
「あたし今日ここで寝るから」
「…………………………なんで?」
短い問いを絞り出すのにだいぶかかった。ルビィはなんてことないように、あのね、と切り出して、急にぐわっと腕を広げた。
「でっっっっかい、蛾がいたの」
アクアは暗い部屋の天井に向けて伸びる、大げさな手を見上げた。
「それは、うそだろ」
「まあこんなにじゃないけど、でっかいやつ。部屋にいたんだよね。あたしの机の明かりって人間界のやつじゃん。あれつけっぱで、窓も開けっぱだったみたいで。すごいの、明かり消そうとして近寄ったらあたしの顔くらいあるやつが留まってたの」
「たしかにすごいけど……」
人間界でも市街地に位置するこの家で、そこまで大きな虫と遭遇することはほぼない。ルビィがちょっと興奮気味に語る触角や羽の目玉模様から、アクアは定の家で読んだ昆虫図鑑を思い出して種類の当たりをつけた。
「だから明日になったら、アクア、あれ外に出してよ」
「うん、わかった。けど、なんでここに寝に来たの?」
蛾の訴えがひとくだり終わって、アクアは最初の問いに戻った。ルビィの答えは、
「だって勝手にグロウの部屋入ったら怒られるし――」
そこで終わった。
「え?」
すう、すう、と穏やかな寝息が、胸に押し当てられた前髪の下から、寝間着代わりのくたびれたTシャツ越しに感じられるように、聞こえる。
「……え?」
さっきより細い声でこぼしたきり、アクアは何も言えなくなった。グロウの部屋以外なら勝手に入って寝てたって怒られないだろうとか、アクアを部屋に呼びつけて蛾を摘まみ出せば自分のベッドで寝られるんじゃないかとか、ルビィの宣うであろうしょうもない理由に備えてあった反論が行き場をなくす。同時に、ルビィに気圧されて広げていた左腕も、行き場を失った。
腕なんか、ルビィの肩か背中に下ろしてしまえばいいはずだ。なのにそれができない。腕の中の少女が、どれほど強く、どこまで頑丈か、アクアが誰よりよく知っているのに、なぜだか触れるのが恐ろしい。
壊れるわけがないのだ。折れるとか砕けるとか、そんな言葉の対極に立っているのがルビィだ。聳えている、と言ってもいい。アクアにとってはそのほうがしっくりくる。そうだ、ルビィは猛る風のなかでも岩壁のようにたしかなのだ。
そう言い聞かせて、だれてきた腕をそれでもそうっと、意味不明に慎重に、横を向いたルビィの肩の辺りに下ろす。腕の内側に触れる、毛布の奥の体温はアクアより高いように感じる。息が止まりそうだった。身じろぎしたら映画の悪霊が聞きつけて悲惨な目に遭わされるかのように、アクアはひどく緊張していた。
どうして、と思う。理由がわからない。左手はシーツの上の変な位置に着地していて、ルビィの背中に触れるようにすれば収まりが良いのだろうと予測はつくのに、そうできない。そうしてはならないような気がする。誰に咎められるはずもないのに。
いま、この家にはアクアとルビィしかいない。
それはそれでそれもよくない、という考えが瞬間的に頭を過ぎった。だが、なにがどうしてよくないのかちっともわからない。
フィーと暮らしていたときからの習慣で、この部屋のカーテンは開けっ放しだ。この街で月光が差し込むのを感じられることはほとんどないが、代わりに深夜でも街路の明かりがそれなりにあって、目が慣れさえすればルビィの表情くらいは見て取れる。
至極平和な寝顔だった。朝焼けより赤い瞳は睫毛の薄いまぶたに覆われて、いつもきりりとしている眉からも力が抜けている。くちもとはもっと緩んで半開きで、まもなく垂れ落ちるであろう涎がくちびるの端を濡らして光らせている。深く静かな寝息に合わせて、その輪郭や睫毛やくちびるが、分かるか分からないか程度に揺らぐ。
いつもどおりだ、と、言い聞かせるようにアクアは考えた。これはいつもどおりのルビィだ。リビングのソファで、もしくは誰かの膝で、ルビィはいつもこんな風に眠っている。見慣れた寝顔だ。それが腕の中にあるくらいで、なにを、なぜ、動揺することがあるのか。
無防備そうに見えるから? でも、それになんの問題がある。ルビィは本能から精霊で、寝込みであろうが突発的な危険には飛び起きて反応できる。そもそもここに危険なんてない。いるのはアクアだけだ。アクアはルビィにとってなんらの脅威でもない。アクアの側に悪意があろうとなかろうと。
そこまで考えて、アクアの思考はふと立ち止まる。悪意? そんなもの、ルビィに対して抱くわけもないのに、なぜ悪意なんて?
たしかに、ルビィはアクアに対して結構むちゃくちゃで、不満がないと言えば嘘になる。けどもうルビィがそういう女の子だということは何年もかけて骨身に染みて理解してきたことで、いまさらそれに苛立つなんてことはない。傷つくことは多々あるけれど、アクアの不満程度では到底変わらない、そのしたたかさがルビィなのだ。
どうしてか、頭のなかでルビィの強固さを何度もたしかめずにはいられなかった。ルビィの方から飛び込んできたというのに、ルビィを胸に抱いて眠ることになにか許しのようなものが欲しかった。それはルビィが強ければ許されることなのか、そもそも誰の何の許可が必要なのか。ルビィの許可なら、自惚れを心配する余地もなく、ある。だから許して欲しい相手はルビィじゃない。
解決しないな、とアクアは悟った。これはひとりで思い悩んだところで埒が明かない。誰か頼るべきだ。
良いことか悪いことかはさておき、アクアはすぐ人に頼る質で、明日を待てば頼る当てもあった。
そうと決まれば難しいことはない。涎を食って寝ているルビィの傍らでそろそろと身を起こし、足元の方からベッドを降り、ドアの開け閉めに注意しながら部屋を出る。アクアが魔法陣で再現したいと思っている人感センサーライトがついた廊下を歩き、まずルビィの部屋に入った。
部屋の照明は消えているが、デスクライトと開けた窓からの街明かりで暗くはない。件の机にひっそりと近寄ると、ルビィの言うでっっっっかい蛾はまだそこに羽を休めていた。きっと朝までには出ていってしまうだろう。せっかくだから見ておきたかった。
目玉みたいな羽の模様をじっくり眺めて興味を満たしたあとは、そっと持ち上げて窓の外へ逃がした。窓を閉め、ライトを消し、部屋を出る。
それから廊下の奥、ゴッドの部屋へ向かった。主のいない部屋のベッドへ、明かりも付けずに勝手に潜り込んでほっと一息。グロウの部屋じゃないから勝手に入っても怒られないし、ユールは明日早い時間に帰ってくるからこの選択しかない。ルビィもそうしていてくれればよかったのに。
ちょっぴり八つ当たりのほうに思いながら、アクアは悠々とかき集めた布団を両腕両脚に抱え込む。これと、ルビィを抱きしめることには、アクアが思いつく以上の違いがあるはずなのだ。それを誰にどう相談したものかと悩みつつ、冷えたシーツに足を滑らせる。
ふと、その冷たさをきっかけに、観ていた映画のシーンを思い出した。
「………………」
部屋は暗い。アクア以外、誰もいない。蛾の羽にあった目玉模様が脳裏に浮かぶ。映画には暗闇で目玉だけがこちらを見ているという描写があった。
抱き枕にしていた布団をそそくさと広げ直し、しっかりと足先から首元まで収めて目を閉じる。なんとなく眠ったら眠ったで悪夢を見るような気がした。ルビィと二人きりと決まった時点から、今夜は落ち着いて眠れないことになっているのかもしれない。
アクアには、好意に端を発するピュアじゃない欲望について、あまり理解できずに困って欲しい。