ユリシア9歳 ユリシア視点三人称
ユリシア9歳 ユリシア視点三人称
逃げ出した理由は単純だった。答えられなかったのだ。
最初から知らない道に入った。方向感覚には自信があったから、なにがあるか分からない方角ばかり選んで走った。めちゃくちゃな場所に着けばいい。知ってるすべてから逃げきれるくらい、遠くへ。
「あっ」
段差かなにかに躓いて転んだ。膝と肘を打ちつけ、ユリシアは泣かないために歯を食いしばった。染み込むように地面と触れた場所へ熱が広がって、やがてじんじんと痛みだす。
ユリシアは痛みに縛られる前にと起き上がった。手をついただけでも痛い。耳の下で結った長い髪が、目の端で不安げに揺れる。そのままうずくまって泣きたいくらいみじめな気持ちだったけれど、そんなの絶対ごめんだった。それでもじわりと滲んでいく視界に、ふと手が差し出された。
「大丈夫?」
女の人の声だ。顔を上げると、若い女性がひとり、ユリシアを心配そうにのぞき込んでいた。なにかを考える前に、ついその手を取ってしまう。優しいちからに引っ張って立たせてもらい、とっさに「お礼を言わなきゃ」と思った。ユリシアの家は挨拶や礼、謝罪に厳しい。
「あの――」
「あっ!」
いきなり出鼻をくじかれた。女の人は髪がぱっと広がるほどの勢いでその場にしゃがんで、
「ケガしてるじゃない! 大丈夫? 痛そう……泣かなくてえらいわね」
驚いて、心配して、褒めて。声色も表情もころころと変えて、最後にユリシアを見上げる。
「どうしたの?」
答えられない。
「どこから来たの?」
これも無理だ。
「ひとり?」
これにはこくんと頷いた。それから、初対面のおとな――ユリシアから見れば、であって、本当はこの人が何歳なのかはよく分からない――に対してその態度は失礼だと思って、
「はい」
と付け加える。
「あらいい返事。それで、そうね……お母さんやお父さんは一緒じゃないのね。迷子、かしら?」
「たぶん……」
迷子になってやりたかったのに、いざそう言われるとはっきりと肯定することはできなかった。自分から迷子と申告するのはなんだか恥ずかしい。
お姉さんは立ち上がって辺りを見回しながら、困ったわねえ、と呟いた。ユリシアもつられて周囲へと視線を巡らせる。
異変に気づいたのはその時になってからだった。地面、建物、道の形状……空の色以外のすべての町並みが、さっきまで走っていた城下のものとは異なる。暗い灰色に塗り固められた地面、しっかりとした塀で囲われた住宅、そびえる電信柱。見覚えがないわけではない。父やその恋人に連れてこられたことがある。
ここは人間界だ。
どうして。移動陣は使っていないのに。気づかないうちに誰かの設置した陣に踏み込んでしまったのか? 分からない。分からないけれど、
「そういえば君、お名前は?」
「ユーリ」
それ以上のことは言っちゃいけない、ということだけは分かった。
人間界での常識が魔界とは大きく違う、ということをユリシアはちゃんと知っていた。お姉さんからの、どうやって来たの? とか、お家どこ? とか、お母さんはいまお家? お仕事? とかの質問をだんまりでかわして、
「あっ、じゃあ、ユウリくんは何歳?」
「9歳……」
「へえ! えーと、だったら三年生?」
「…………」
「……あの、喉乾かない? わたし喉乾いちゃった。ジュース買ってあげるから一緒に来ない?」
「……行く」
というやり取りの末、ユリシアは駅前にあるファーストフード店のボックス席に座っていた。
実はここへは一度来たことがある。どうして来たのかは覚えていないけれど、父と二人でチョコレート味のなにかを食べたのがぼんやり記憶に残っていた。
いまは目の前に、リンゴジュースの大きな紙コップがある。秘塔の食堂で飲むものより数倍甘いジュースを吸って、ちらりとお姉さんの顔を窺った。対面に座るお姉さんは、なにか暖かい飲み物を買っていて、喉が渇いたと言ったくせに熱くてまだ飲めないでいる様子だ。いまは電話を取り出して小声でなにかを話している。
「あの」
「なあに?」
電話が終わったタイミングを見計らってちょっと声を出す。それだけですかさず微笑みかけられた。
「おなかすいた? ポテトとか欲しい?」
「大丈夫……えっと、ありがとう、ございます」
「そう。どういたしまして」
にこにこと、断られたというのにお姉さんは笑顔で応じた。それが不思議で、ユリシアは尋ねる。
「お姉さんは、なんでこんなに親切にしてくれるの?」
そこで一瞬、お姉さんは目を丸くした。ずっとユリシアを温かく見守るようだった目が中空をうろうろして、膝まで落っこちて、窓の外へ逃げ出して、
「えー、えー、それは、その、ふふ、んーとね。ごほん」
最後は優しい笑みに戻って、だけどその笑顔の質が先ほどまでとは違う。砂糖の入った飲み物にはまだ手をつけていないのに、なんだか甘いものでも食べたような、ほっぺたの緩い笑顔だった。
「ユウリくん、お姉さんの好きな人にちょっと似てるの」
なんと。
今度はユリシアが目を見開く番だった。少し驚いて、まあまあ呆れた。そんな理由でいいんだろうか。ユリシアは膝小僧に絆創膏をもらって、ジュースまでごちそうになって、帰り方が分からない以外はいいことづくめだが、お姉さんはユリシアのためにお金を払っている。そんな理由でそんなことしてもらっていいんだろうかと、ユリシアは心配だった。だってユリシアはなにもしてない。
そのときひとつのひらめきが脳裏に走った。
「お姉さんの好きな人って、どんなひと?」
素朴な問いかけに、お姉さんは生クリームみたいに笑んでシャーベットみたいに答える。
「優しいひとよ。自分より、自分の周りのひとたちを大事にしちゃうひと。とっても頭が良くて、運動神経も抜群で、手先も器用で、心がきれいで、それが全部目に見えるような、そういうひとよ」
それは完璧超人、というやつだ。お姉さんからヒントを得て、より好きな人に似せてみるという拙い返礼策はあっさり潰えた。コーヒーかカフェオレかなにかをゆっくり味わうお姉さんを、ユリシアはほとんど呆然と見た。
お姉さんがコップを置く。このままではまた、ユリシアがどうして迷子になったのか、どこでなにをしていたのかと聞かれてしまう。はらはらしながら、とにかくお姉さんから得たヒントを活用して絞り出した問いは、
「お姉さん、デートに行くの?」
好きな人、とか、ユリシアにはまだよく分からない世界のことだ。その中でほとんど唯一知っている言葉で、ユリシアは未知に挑んだ。デートってなにをどうすることなのかはさっぱり分からないが、お姉さんはまた甘ったるく眉を下げている。
「えへへ、ばれちゃった?」
ちらり、と目をやった先はハンドバッグ、それから足下、おそらく靴。汚れのないエナメルに、おめかししてるんだな、と思って顔を上げると、お姉さんはすこし遠い目になっていた。
「本当は、そうだったの。デートの約束してたんだけどね、ちょっと今日は無理ってことになっちゃって」
「ふられたの?」
「違うわ! わたしの好きな人は、なんていうのかしら、大事なお仕事をしてて、わたしのわがままでは休めないの。わたしも休んでほしくないの」
「お仕事してるとこが好き?」
「そうね。あんまり見に行けるものじゃないんだけどね」
けっして不幸そうではないけれど、どこか寂しそうな声に、ユリシアはそわそわしてしまう。なんだかひとごとではないような、お姉さんから見た自分も、いまのお姉さんみたいなんじゃないかという気持ちが、こぽこぽ、沸騰の泡みたいに浮かび上がってくる。
肩にかかる髪の束をいじりながら、ユリシアはいままで誰にも話さなかったことを言ってしまうことにした。
「あのね、ぼくお母さんいないんだ」
お姉さんは、しまった、という顔をした。ここまでさんざん、母親がいる前提の話をしてきたからだろう。だけどユリシアにとってそれはどうでもいいことだったので、お姉さんがフォローに迷っている間に続きを話した。
「でも、家にはお父さんだけじゃなくて、お父さんのお姉ちゃんもいるし、他にもお父さんとかお母さんみたいにしてくれる大人のひとはいるし、だから、お母さんはいなくても大丈夫なんだ。ずっとそうだから、友達とかもみんな知ってるし、へんとか言われないし、いいんだけど……」
ひかっ、と、またたきのように蘇る。いつもの帰り道、宿題が出ていて、憧れの職業に関する作文。ユリシアはやっぱ騎士団にいるおとーさんで書くの? ううん、あのさ、精霊って職業かなあ? なんて話の末に、聞かれたのだ。
ユーリってほんとにおかーさんのことなんも知らないの?
ユリシアは答えられなかった。別に対した質問ではない。ユリシアは母親の名前も年も生い立ちも知らされていない。生きているのか死んでいるのかも教えてもらっていない。父から、母を愛していたという言葉ひとつ聞いていない。それはきっとユリシアが尋ねないから、でしかないのだろうけど。
「けど、たぶん、知ってるんだ。分かってるんだ。言われなくってもぼくはぼくのお母さんが……だから、お母さんのこと知らないのかって聞かれて、返事できなかった……会ったこともないし、写真もないし、誰もなにも教えてくれないから、ほんとに知ってるとは言えないし、でもたぶん、なんにも分かんないって言ったら嘘だし……」
言葉がかたちにならないまま喉に詰まって苦しい。それでもうつむくのは悪い気がして唇を噛むユリシアに、お姉さんは優しく言った。
「ユウリくんは、嘘が嫌いなのね。きれいね」
お姉さんの大好きな人とおなじ形容を受けて、ユリシアは面食らった。
「きれい、って」
「嘘がつけないのは心がきれいな証拠よ。いいことよ。そんなに落ち込まなくってもいいわ」
「でも、ぼく、返事できなくて逃げて来ちゃった……」
「それで迷子に? それは、お友達に心配かけちゃってるかもね」
心配、という言葉を聞いてはっとする。まったく悪意のない友達や、父親や、父親の姉や恋人の顔が次々と浮かんだ。
なにも危険はないのに勝手に心配するぶんにはかまわないが、自分の不注意や間違いで心配をかけるのはよくない、と、なんとなく思い始めている頃だった。今回のはユリシアの中ではよくない方の心配だ。
帰り方はまだ分からない。でも、ここだって来たことのある場所だ。父がかつて暮らしていたという家まで行けば移動鏡がある。
道順が思い描けていたわけではない。そこまでの想像はできなかったが、こうすれば帰れるという思いつきはみるみるうちに確信へと変わった。
「ぼく、帰る!」
ついには立ち上がってそう宣言していた。お姉さんが慌ててコップを置き、中腰で手を伸ばす。
「ま、待ってよ、帰るってきみ迷子――」
「ジュースごちそうさまでした! ありがとうございましたっ」
子供ならではの動き出しの早さにお姉さんはついていけない。どこか名残惜しそうな彼女の表情を、一目散にドアを目指したユリシアは見ることがなかった。
そうしていれば、ユリシアはきっと気づいていただろう。
住宅街を出てすぐの角にポストがあったことは覚えていた。そこを目指せばいいと思って、来た道を走る。途中、視野が狭くなりすぎていたせいで、前から来たひとにぶつかってしまった。あっと思って、でも顔を見て謝っている余裕もなくて
「ごめんなさい!」
頭だけ下げてまた走る。次の角を曲がるとき、なにかが足に引っかかった。勢いのついた体では踏ん張ることができない。せめて顔から落ちないようにと、思わず目をつぶりながらも両手を前へ突き出す。
ずしゃ、と腕が滑った感覚は、人間界へ転んだときとは違っていた。やすりのようなアスファルトではなく、冷たく踏み固められた土の感触。
「リーシャちゃん! 大丈夫!?」
顔を上げた途端振ってきた声は耳慣れたもので、しかしいまはどこか懐かしい響きを持っていた。
「椎羅さん……」
手を伸ばすまでもなく抱き起こされる。手足の土を優しく払われ、あたたかく微笑みかけられる。
「どうしたの? あら絆創膏。鬼ごっこでもしてきたの?」
「ち、ちがい、ます」
首を振って否定しながら辺りを見回すと、そこはよく知った城下、騎士団訓練所前だった。
「学校……秘塔よね、今日は。どこか寄り道?」
「えっと、はい」
知らないお姉さんとお茶をしたことをなんと言うか、よく分からないけど寄り道であることには違いない。
「どこに行ってたの?」
椎羅はいつものように、好奇心だけではない優しさを含んだ目で問うてくる。詳しい回答は避けたかった。そうしてユリシアが絞り出した答えは
「ちょっと……人間界、へ」
「……ずいぶん遠くへ行ってたのね。ひ、ひとり?」
「えーと、あっ! ユール!」
驚きつつも探りを入れてくる椎羅の、道を挟んだ後ろ。訓練所の門を出てくる父を見つけて、ユリシアはとっさに名前を呼んだ。椎羅にはユールがいちばん効くということを、ユリシアはよく知っていた。案の定効果はてきめんで、椎羅は蝶が舞うようにスカートを翻して振り返る。
「柊さんっ! おつかれさまです!」
ぱたぱたと訓練着のユールに駆け寄り、生クリームでもなめたみたいにあまーい笑みを浮かべる。人間界で会ったお姉さんそっくりだ。椎羅はユールの現在の恋人である。好きな人のことを思うと、女の人はみんなああなるのかな、とユリシアは思った。
ともあれ、説明しにくいことを詮索される危機は脱した。秘塔の前で分かれてしまった友達とは、あのあと行くことになっていた文具店にでも行けば会えるだろうか。そう思ってこそこそとその場を去ろうとしたユリシアを、椎羅が呼びとめた。
「リーシャちゃん」
「は、はいっ」
ぎくっとしながら足を止めたユリシアに、椎羅は優しく、名残惜しく手を振る。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
ユリシアは手を振り返して
「はい、いってきます!」
今度こそ、友達のもとへ駆けだした。
男の子のダッシュについていけず、やむなくその背を見送ってしまった椎羅は、やがてゆっくりと腰を下ろした。自分でもうまく説明がつかないけれど、ただ心配な以上にあの男の子との別れが惜しく思えた。
だいぶ冷めてきたカフェオレをじっと見つめる。テーブルの反対側には、あの子が置いていったリンゴジュースがきんと冷えている。まだ半分も減っていないコップの奥に、す、と音もなく誰かが座った。
顔を上げる。
「柊さん……!?」
「遅くなってごめんなさい」
丁寧に頭を下げて謝るのは、魔界に緊急の――おそらく精霊としての――用件ができて今日は来られないはずの柊だった。
「いえっ、そんな全然……というか、どうしたんですか? 大事な用事があったんじゃ……」
「用は終わった。留守番電話に、ここにいると伝言があったから来た」
ダメもと、というより単にドタキャンを気にして欲しくない思いで吹き込んだ留守電だった。迷子の男の子と一緒に駅前でお茶してます。来てという意味じゃなかったから、店の名前まで言わなかった。きっと同居人の誰かが、駅前だったらこの店だろうと教えてくれたのだ。
こういうことも一度や二度ではないけれど、うれしすぎて泣きそうになる。けれど今日は泣いている場合ではない。
「ありがとうございます。無理させちゃったみたいで申し訳ないけど、やっぱり会えてうれしいです。あの、留守電で行ってた迷子の子なんですけど、さっき帰るって行って飛び出してっちゃって……それっぽい子とすれ違ったりしませんでしたか?」
これこそダメもとの問いだったが、柊は意外にも静かに首肯した。
「すれ違った」
「えっ! ほんとですか、困ってそうじゃなかったですか? 探しに行ってあげたほうがいいのかなって思うんですけど……」
思わず前のめりになる椎羅に、柊は淡々と
「必要ない」
「えっ……なんで、ですか?」
「あの子供は人間界の子供じゃない」
衝撃の事実。
「なんで……あっ、目の色! そっか、わたしじゃ分からないですもんね。じゃあ交番とか行ってもダメだったんですね。わたしあの子に迷惑かけちゃうとこでした」
柊は相づちは打たない。椎羅はとりあえずあの子の件はこれでしまいにすることにした。けれどその前に、置いて行かれたジュースのコップを見下ろす柊に、ふと言いたくなってしまう。
「柊さん、わたしが会った迷子くん、柊さんになんか似てたんですよ」
それでなにか返してもらえると期待していたわけではないんだけれど。
「そうか」
と柊は困ったときの必殺技みたいに便利使いしている貴重な相づちのひとつをこぼした。
タイトルだいぶ関係ないです。イメージBGM未満、ぐらいの。