9、此処は誰かの空想世界。

ルビィとユール ルビィ視点三人称


 そこは真っ白な世界だった。際限なく広く、白々と明るい世界。最初ルビィは、ひとりきりでそこにいた――つもりだった。
「ルビィ」
「わっ!?」
 ごく近くから声がして、思わず素っ頓狂にひっくり返ってしまう。幸いどこも強く打つことはなく白い大地に転がり、見上げた先にいたのは、
「ユール?」
 白い背景のなかでもじゅうぶんに白い肌、光を弾かない黒い髪、そこだけが鮮明に青い瞳。見慣れたいつもの無表情で、ユールが膝を抱えて座っていた。
 たしかにさっきは、そこには誰もいなかったのに。隣に座って、ルビィは不審がる様子を隠さずに聞いた。
「いつからいたの?」
「ずっといた」
「ずっとって?」
「お前が来たときからだ」
 淡々と返ってきた答えは、断言のかたちではあるが微妙に要領を得ない。そもそも、ここはどこなのか。来たとはいうが、ではここへ来る前はどこにいたのか。
 疑問は泡のように膨らみ、しかし泡のようにぱちぱちと、数秒のうちに消えてしまう。ここがどこだとか、どうやって来ただとか、そんなものはあまり重要でないような気がするのだ。
 だが真っ白いだけの空間は妙に居心地がよくない。どこか別のところへ行きたいと思って、ルビィは立ち上がろうとするが
「ん? え、あれ?」
 立てない。からだのせいではなく、空間のせいだ。弾力のある膜のようなものが、頭上と、それから横への移動を阻む。見えない膜はルビィとユールをすっぽり包んでいるらしく
「ちょっと、そっち行ってみて」
「無理だ」
 ユールが左手を伸ばそうとしても、なにかに引っかかったように途中でとまってしまった。
「なにこれ。出られないってこと?」
 急速に不安が広がる。膜にぶつかることさえ不気味に思えて、ユールにぴったりと肩を寄せる。互いの精霊服越しの体温は、いつものようにごく薄い。首をひねってユールを見上げると、至近距離で目があった。
「ルビィ」
 血色のない唇が、言い聞かせるようにはっきりと名を呼ぶ。
「な、なに」
 心なしか膜の圧迫感が強まった気がして、ルビィはぎゅっと肩を縮こめた。膝の上の手を、ユールがふいに強く握る。
「ルビィ」
「え、うわっ!」
 すっ、と、照明が落ちたように世界が真っ暗になった。より強く握られた手に視線を落とすと、そこだけはちゃんと見ることができた。真っ白な細い指が、ルビィの手をきつく握りしめている。ルビィは余っていた左手も使って、その手を握り返した。
 この手を離したら終わり。なぜだかそんな気がした。
 世界はどんどん暗闇を深くしていく。いつの間にか見えない膜は消えている。代わりに闇がぐんぐんと迫ってくる。徐々に見えなくなる手を必死に掴んだ。
 そして――

「ルビィ!」
 意外なほど高く、通りの良いまっすぐな声。そこに滲む苦しげな響きに揺さぶられて、すっと意識が広がっていく。
 からだが冷たい、と思った。続いて、肩の辺りの痛みが鈍く伝わる。脚が重く、右腕の感覚はない。目を開けると、薄茶の煉瓦の壁と、だらりと投げ出された自分の下半身が見えた。体の向きは縦。足の下にはなにもない。
「う……」
 痛む首を無理矢理に起き上がらせる。途端、頬にぽたりとぬるい滴が降ってきた。まだぼんやりとした視界を瞬きで晴らす。目に映ったのは、
「ルビィ……!」
 細い腕でルビィを支えるユールの、いまだかつて見たことがないような苦悶の表情だった。
 全身の感覚が一気に鮮明になった。掴まれた手のひらの湿り、体重のかかった肩の軋み、血が集って脚は重く、乾いて切れた唇がひりひりする。空気は透明に乾燥していた。吸うとからだが冷えるようで、逆に焦りの火を大きく燃やすようでもある。右腕は熱くてわけが分からない。
「っ、ルビィ」
 もう一度、たしかめるように名を呼んで、ユールが歯を食いしばる。白い世界で何度も名前を呼ばれたのはこれだったのか、と場違いな感想がよぎった。しかしそれも、再び頬を濡らしたなにかの感触に拭われる。
 涙だ。思うと同時に気づく。ばちばちばち、と断続的な音がしている。なにかが弾けようとして、そうはならない瀬戸際の緊張。胸の底をざわつかせるこの響きは、ユールが五感を断ち切ろうとしてそうできないときのものだ。
 そこまで思い当たるとすべてがつながった。常にはない苦痛の表情、涙、それはルビィを支えることによる身体的負荷によるもの。条件反射的に魔力は動いているのに五感を断てないでいるのは、魔法が使えない――すなわち、魔法行動禁止陣のうちにある、ということだ。魔法が使用可能であれば、ルビィひとりを引き上げるぐらい難しいことではなかったろう。だが、ユールの細腕だけで意識のない人間を引き上げるのは、いくらルビィが小柄でも無理だ。
 ルビィが目を覚ましたことで、多少は楽になったのか、ユールがぐっと手にちからを込め直す。ルビィは重いばかりで感覚の鈍い左手をそろそろと持ち上げた。なんとか動く。その手で、命綱のようにユールとつながった右手を目指す。
「ゆ、ユールっ」
 重心が動き、頼る場所のない足がぶらぶらと宙を掻く。ついすがるような声が出るが、ユールの左手は建物のへりを角が肉に食い込まんばかりに押さえて、ふたりしての転落を防いでいる。壁につま先をこすり、揺れをどうにか押さえながら、ルビィはようよう両手でユールに掴まった。
「いける? 引っ張れる?」
「っ」
 ぎゅっ、と目をつぶるときにほんのわずか顎が引かれた。弾みで目尻を濡らしていたものが線を引いてこぼれ落ちる。うなずいた、と取ってルビィも覚悟を固めた。すこしでも助けになるよう、つま先で壁にとっかかりを探す。組んだ煉瓦の隙間に靴の縁がなんとかかかった。
「引っ張って!」
「う、ッ!」
 ぶちぶちぶち! と魔力の立てる音がひときわ強まり、ユールが無理矢理に肩を引き、肘を曲げる。上半身が震えながら起き上がり、かたく結んだ手が建物のへりに近づく。
 いまだ、と思った。無理かも、とも感じる。けれど、ユールが自らのすみずみまで無理を強いて助けてくれたのだ。無理でもやる、その決意と勢いで、ルビィは感覚のない右腕でからだを引き上げ、左手を壁のてっぺんに伸ばした。
「あ、っつ」
 ぺたり、と屋上か屋根かに触れた手のひらが汗で滑る。全身を一息に寒気が駆け抜けた。
 が、
「っ!」
 ユールがからだを捻って倒れる。その動作に引きずられて手は滑り落ちずに済んだ。今度こそ平らなところへきつく手を這わせて、へりに肘をかけ、もうだいぶ焦りにやられた足でがりがり、壁を蹴って這いあがる。ユールも右よりましなのか左腕でからだを支えて起きあがり、全体重でルビィを引き上げた。
 互いにもう必死で、声もなく、感覚のない右手は離せず、屋根へずり上がり、折り重なって倒れ込む。
「はあ、はあ、はあ……っは、あー」
 低く、疲れを声にして吐き出すようにして、ルビィは乱れた息を整えた。下にはユールが敷けていて苦しそうだが、どうにもからだが動かないのでどいてやれない。薄い胸がいっぱいいっぱいに上下するのを感じながら、めずらしく荒い呼吸の音をただ聞く。
 ふと手をつないだままだったのを思い出した。顔だけ上げて指をほどくと、すでにちからの抜けていたユールの指に血が戻り、まだらに赤くなった。汗がどんどん冷えて、その肌はひどく冷たい。暗闇の世界で唯一の頼りだった、ほの白い手とはだいぶ違う。
 その手がもとの透けるような白さに落ち着くのを待って、ルビィはごろりと横に転がり、ユールの上を降りる。固い屋根からはすぐに起き上がり、大丈夫かな、と思いつつ立ってみる。しびれはあるが、両脚はちゃんとルビィを支えてくれた。
 そして、まだ横たわったままのユールの、ルビィを助けてくれた手を取る。
「ありがと、ユール」
「どういたしまして」
 とっくに息を静めたユールは定型文で答え、促されるまま立ち上がった。
 九死に一生を得たばかりだが、まだルビィたちにはすべきことがある。行く先となる方角を見やると、先ほどまでの焦燥が嘘のように、期待と自負が胸を満たした。ユールは絶対に同じ気持ちではないけれど、向かう場所、なすことは一緒だ。
「だいぶ時間くっちゃった。行こう」
「ああ」
 離れた手がそれぞれの剣の柄に触れ、ふたりは走り出した。


2015/11/07

ゆるびをぎりぎりカップリングじゃなくコンビかなーってぐらいに扱うのがとても好きです。
お題との距離感がすごい。あと、久々に一人称じゃないルビィ書くとまどろっこしい。