本編後のアクルビと空也 ルビィ視点一人称
本編後のアクルビと空也 ルビィ視点一人称
アクアの声は甘ったるい。男の人だと、低くて優しい声を甘いと表現することがあるけど、そうじゃない。女の子みたいに高くて、心許なさからすがるような響きがある、そういう甘さ。そして同時に、なにか恐れているような緊張感もあり、それがぴんと冷たく張り詰めたようにも聞こえる。甘くて冷たい。あたしは、アイスクリームみたいな声だと思う。
その声が、
「でも、だから、円基盤だったらいくら重ねてもいいってわけじゃなくて、主な効果とそれを受けての効果の順番を、結構みんなそこ適当だろ、でももっと複雑な陣にするときに、そういうの、ちゃんと意識しないと、動いてるように見えて出力が十分の一とかになってるやつよくあるんだよ、もうあれ、設置で初めて気づくとかさあ、ほんとさいあく……結局、耐用年数内でダメになるから……外して、並べて……多少面積的に場所取っても、必要、なら」
散々、魔法陣に関する技術的な蘊蓄とお仕事的な愚痴をつらつら吐いて、途絶えた。
徐々にテーブルの上の前腕に近寄っていた顔が、完全に腕を枕にしている。いくらでも続きそうだった言葉は寝息に入れ替わってしまった。
あんまり心地よさそうでもない寝顔を隣から覗き込み、空也が目を丸くする。
「すごい、ほんとに寝ちゃった」
「だから言ったじゃん。アクアにお酒は睡眠薬だよって」
「その通りなんだね。びっくり」
空也はアクアの指が絡んだままのグラスを抜き取って、ほとんど減っていない中身にくちをつけた。甘いだけのジュースみたいなお酒を検分するように味わう。
「これ、ほんとにお酒かな?」
「まあ普通に考えて信じらんないよね」
「ルビィちゃんは水飲んでるみたいだよね」
あたしのグラスは五杯目だ。同じものを飲んでると飽きるから、次々と瓶を開け探している。この家はそうやって遊べるお酒がたんまりあって、集めた元・家主もいまは興味をなくしているから、自由に飲めて都合が良い。アクアが住み始めてから、散らかり方が異次元なのはちょっと気になるけど。
広々としたダイニングテーブルは半分が作業台、残りのさらに半分は日持ちする類いの食材とこれまでにあたしたちが勝手に出してきた酒瓶で埋まっている。酒盛りは残った隅っこの角地でひっそりと行われている。
寝顔を肴にするように、空也はアクアのグラスを空にしてしまうと、あたしに向き直ってちょっと声を潜めた。
「ねえ、ところでさ。ルビィちゃんて、ほんとにアクアくんのこと好きじゃないの?」
「ん?」
「うん?」
あちこちで聞かれたような問い、に近いけれどなにか違う。首を捻るあたしをからかうように、空也がもっと首を捻ってみせる。
「逆じゃない? 普通、ほんとに好きなの? って聞くでしょ」
「それは好きらしいけどどうもそうじゃないなって思ってるひとの聞き方だろう」
「好きだよ」
「もう一回言って」
「空也じゃなくて。あたし、アクアのこと好きだよ。どういうこと? 空也は、あたしがアクアのこと好きじゃないっぽいけどどうも違うなーって思ってたわけ?」
空也はううん、と唸って眉間を押さえた。
「もう一回言ってほしいのはそっちじゃないんだけどなあ。や、まあね、あるよ。あわよくば、的な? 僕の期待がそう言わせたところもさ。でも端から見てて、ルビィちゃんってアクアくんのこと好きじゃないのかも、ってところあるよ」
あたしは叱られているのだろうか。なんとなく、なにかを言い返したいような感じがした。空也は饒舌だ。
「だって、アクアくんて僕のこと別にそこまで友達とも思ってない、みたいなとこあるだろ。魔法陣の趣味が近いし、仕事仲間よりは気楽だし、くらいの。それで僕っていわば彼の恋敵なわけじゃない。でもルビィちゃんがそういうのちっとも気に掛けないから、ほら、こうやって謎の三人組で、アクアくんちのこの……この部屋、ここなに? リビング? で飲んでるわけで。……あ、なんかいまの僕傷ついたなー。自分で言っておいていろいろ、酷いな君たちー。これはルビィちゃんがチューしてくれないと治らないなー」
アルコールが余計に舌を回している様子ではあるが、酔ってはない。ふざけている。あたしでもこのくらいは分かる。なので受けて立った。
「チューは一万円」
「いいの? 払うよ僕」
「お金ないでしょ、しかも人間界のだよ」
「借りるから」
「誰に?」
「ルビィちゃん」
「あたしが貸したらあれだよ、えーと、えーなんだったっけな」
たしかめちゃくちゃあくどい高利貸しを一言で表現した言葉があったはず。悩んでいると、空也がふふっと笑った。
「トイチのことかな? ていうか、ルビィちゃん、それだよ」
「どれ?」
ここまで普通の音量か、もしかしたら酔っ払いの音量で騒いでいたかもしれないのに、空也は急に囁き声になった。
「ルビィちゃん、アクアくんのこと好きなのに一万円で僕とチューできちゃうでしょ?」
頑是ない子供の無駄な行動を見守るような、仕方ないなあみたいな表情がやけにむかつく。
できないわけないじゃん。できちゃ何かダメなのか。しないひとはしたくないとかしちゃダメだって思ってるだけで、現実的には不可能なわけがない。あと一万円は関係ない。
でも、そういう反論は負けのような気がして、
「それはそうかもしれないけど、あたしだって、アクアのこと好きじゃなきゃ――」
好きじゃなきゃ、あんなことしない。その中身をパッと返してやろうとしたのに、出てこない。なんだろう。あたし、アクアのこと好きじゃなきゃしなかったような何かって、あった?
フリーズするあたしをよそに、空也はグラスを持つのと反対の手をぱっと開く。
「ふふん、じゃあ僕がルビィちゃんの代わりにアクアくんの好きなところでも言ってあげようかな。そうだなあ。まずはやっぱり、いじめ甲斐のあるところ! とにかく反応が良くって最高だね。すぐ泣いちゃうところも分かりやすくていいよね。ずっとこのままでいてほしいなあ。アクアくんのすごいところは、いくつになっても、いじめる前から可哀想な雰囲気があるところだよね。これが手応えを感じられていいんだよ。嗜虐心をそそるよね。あ、普通に魔法陣もセンス良くて好きだよ。最近の凝ってるやつとか結構オシャレだし、評判いいのも納得だね」
ぺらぺらと語りながら、空也は開いた指を順番に折っていった。あたしはその仕草をじっと見つめながら、頭でははるか遠くのことを考える。
アクアとは、一緒に住んだ。これは精霊だから。
アクアの魔法陣を、あたしは心底頼りにしてきた。これは実力があったから。
アクアと、世界の果てに行った。これは権限をもらったからだし、そのあとはアクアとあたしだけが窓を開けられたから。
好きだからそうしたわけじゃない。好きじゃなきゃそうしなかったかというと、そうでもない気がする。でも嫌いだったらこうはしなかったようにも思う。
「それじゃ足りないのかなあ」
「ちょっと展開が読めないね?」
ぼそっとこぼした言葉を空也はすかさず拾い上げる。あたしは素面でもたいした回転はできない頭で、とりあえず中間の結論みたいなところから説明する。
「あたし、好きじゃなきゃできないことってあんまないんだよね」
「だろうね」
言いながら空也が、テーブルの上にあった手の甲に指を重ねた。グラスを持っていた指先は冷たく、ほのかに湿っている。その指がなにか言いたげに、すり、と手を撫でた。空也はそれをしながらあたしをじっと見て、
「こうだもんなあ、ルビィちゃん。仕方ないことだとは思うけどね。その魔力で、おまけにルサ・イルと長年べったりだったんだから、パーソナルスペースなんかおかしくなって当然だもの」
「どういうこと?」
骨を辿るみたいに往復を続ける指先はそのまま、空也はまた明るく多弁になった。
「普通さ、この皮膚から、それどころか産毛が触れる範囲から先は、自分なんだ。よっぽど特別な理由がない限り、他人にどうこうされたくない領域っていうか。で、これはもうその領域を侵食しちゃってる、と感じる。普通ならね。でも君ら……まあ精霊がみんなそうって感じじゃないけど、僕の見る限りルビィちゃんとユールはそうなんだけど、君らはこの身体そのものが自分って思ってないよね。頭では思ってるかもしれないけど、感覚としてそう感じてない。魔力でしょ、他人に触れさせないべき自分の領域って。だから身体にベタベタ触られること自体はわりとどうでもいいし、おまけに強いから、そんなやつどうとでもできるし、だから気にならない。違う?」
「うーん……わかるわかるめっちゃそんな感じーってわけじゃないけど、そんなに的外れじゃなさそう、とは思う、かなあ。ユールの話なら、たぶんそうなんだろうなって思うけど、あたしもそうって言われるとほんとかなあ? だってほんとに嫌いなひとが空也みたいなことしてきたら、もう振り払ってどっか行ってるよ」
「じゃ、僕のこと好きなんだ」
「……あっ」
わかった。空也が嬉しそうににやけている。違う空也はいまどうでもよくて……ああ、わかったことがぼやけていく。空也がなにか言うけど頭に入ってこない。だって考えるのに必死だから。いまなにか閃いた気がするのに! もうちょっとで掴めそうだったのに!
空也はあたしの顔を見て、口元は笑ったまま眉を下げた。
「なんか僕また振られちゃったなあ。ルビィちゃんてほんと、人の話聞いてなくて可愛いよね。そう思うよね、アクアくん」
「ううんう」
自分の腕枕に伏したまま、アクアはなんだかわからない声を出す。空也がその肩を揺さぶる。
「起きたほうがいいよー。友達扱いされてない友達として、君のために言ってるんだよー。いま起きないと損だよー」
「いいよ別に。あたしアクアに言うことないし。なんか言っても、ちゃんと説明できないからアクアは聞いたって得なことないし」
いつの間にか、あたしの手をさすっていた空也の手はどこかに行っていた。あたしはその手でアクアの向こうにあるお酒の瓶を掴み取る。
アクアを一発で寝落ちさせた、ジュースみたいなお酒を氷だけが残った自分のグラスに半分注いだ。味見ならこのくらいでじゅうぶんだ。
お酒は味も香りも甘かった。まといつくような甘さと氷から移った冷たさが、もつれあって喉を滑っていく。空也に起こされて、アクアが寝ぼけ眼をこすりながらもにょもにょと言う。
「空也? なんでいるの?」
「記憶喪失? 君がここで飲んでいいって言ったんだよ」
水色の瞳が空也をとらえ、あたしをとらえ、ひとつ瞬いて不機嫌に眇められる。
「これ……ジュースって言ったよな。うそつき」
その声の甘さったら。咎められた空也はにやけながら後ろ頭を掻いている。でも甘い声には、ほんとうに裏切られて傷ついて、いまにも心を閉ざしてしまいそうな頼りなくつめたい緊張感を伴っている。空也はそれを、可哀想な感じと表現した。
あたしはアクアを可哀想とは思わない。だけどアクアを守ると決めて、守るよと宣言して、世界を守る次に大事なことにした。好きなもの全部守る、そう言った好きなもののひとつとして、アクアを守ってきた。
一方で、アクアを危険なところへ連れ出して、怖い目に遭わせて、たくさん傷つけて、ずいぶん泣かせた。けど、あたしはいつもアクアを無事に帰した。アクアの魔法陣に力を引き出されて、荒れ狂う風の風上になって、アクアはあたしの脚や腰にしがみついてどうにか息をしている、あの瞬間。魔法陣を介して魔力を奥底から引っ張り出すことも、さっきの空也の何倍も遠慮のない強さで掴まる指先も、全部。
全部、アクアじゃなきゃありえないこと。
それが理由でアクアを好きなのかというと、それはまったく別問題で、ただ、あたしの魔力にああやって、あれほどに触れられるのは、世界でアクアだけ。それじゃ、やっぱりだめなんだろうか。
空也がアクアに水を渡して肩を小突く。視線であたしを示されて、アクアの潤んだ目がこちらを向く。
「ほら、さっきのやつ言ってあげなよ。あ、主語なくていいよ。僕は僕でこう、補完して聞くから」
期待の目と、なにもわかってないけど不安の目があたしを見つめる。甘いお酒を飲み干しても、それに応えられるなにかは見つからなかった。
「……いい。なんかまた泣かせそうな気がする」
「えっ、なに? ふたり、何の話してたの?」
「うふふー、アクアくんの話だよ」
空也がいじめっこの笑顔で性懲りもなくアクアのグラスをお酒で満たす。アクアはそれを空也のほうへ押しやって、
「ルビィ、」
その続きをなんと言葉にすべきかわからないみたいに、甘い声で呼ぶ。あたしは、いつだってこれだけは返せる、ひとつきりの約束で返す。
「大丈夫。アクアはあたしが守るよ」
アクアはきょとんとして、空也の含み笑いをじとっと見て、あたしにはただ、うなずいた。そうするほかないみたいに。
あたしは有言実行のために、まずは空也がなみなみ注いだ甘いお酒を奪い取ることにした。
空也がいるほうがそれらしくなるアクルビ。
アクア誕を触れること中心に書いたので、ちょっとその要素込みで。