8、誰かが歌えば皆歌う。

ルビィとゴッド 時期不詳 ゴッド視点三人称


 肩近くまで湯船に沈み、静かに息をつくと、やがて水面からすべての波紋が消えた。湯をはってから一時間以上も経ち、薄くなった湯気には壁のタイルばかりが透ける。窓の外は狭いながらに裏庭で、聞こえてくる物音もない。
 深夜と言うほどのこともないこの時間、最初から最後までひとりで風呂に入ることは、ゴッドにとってはめずらしいことだった。皆がほぼ同じ時間に寝て、同じように起き、同じ時刻に登校しなくてはならないこの家では、特に意図していなくとも風呂を使おうとするタイミングはぶつかるし、いちいち譲り合わずに分けあえるならその方が楽というものだ。今日のように、覗いてみて誰もおらず、あがるまでに誰も来ないのは、実に一ヶ月ぶりである。
 だからまあ、こうなるだろうとは思っていた。
「あっ! まだいる! よかったー」
 洗面所のドアが開く音がして、同時にほっとしたような声が言う。視線を上げると、曇りガラス越しに小柄な影が脱衣所に飛び込んでくるのが見えた。洗濯機になにか置く様子が見え、ラグランのTシャツを着たままのルビィがドアを開ける。
「まだ出ない?」
 答えに期待しきっているのは、聞く前から分かっていた。ゴッドは当然、それに応じてやる。
「お前が出るまでいてやるよ」
「やった、ありがと!」
 ばたん、とドアのパッキンが空気をつぶして閉じ、ルビィはばさばさと服を脱ぎ始める。まったく手の掛かる妹だ。風呂まで付き合ってやらきゃいけないなんて。それを面倒などとは、まったく思わないのだが。

 冷めないように半分でとめていた浴槽のふたを、全部まるめて端へ寄せる。どこにも同じようにあるような湯気でも、ふたがなくなるとすうっと拡散していくようだった。
 服を脱ぎ終えたルビィが入ってくる。起伏に乏しいからだは、いまの身長に達してからというもの一切の変化がない。いつまでも子供のように、細いながらに健やかで伸びやかだ。そして、その態度にも変わるところはない。タオルの一枚も持たず、形式程度にざばーっとシャワーを浴びると
「よーせーて」
「はいはい」
 足下の方から湯船に入ってきて、ゴッドに背中を向け、膝の間に座り込む。
「あれ? なんか狭くなった?」
 立てた膝を揺すって収まりのいい尻の位置を探しながら、ルビィが首を傾げた。肩まで浸かろうと上半身は大きく傾け、できれば足も伸ばしたいらしい。しかしそれは無理というものだ。
「お前もだいぶ背が伸びたからなあ」
「ほんと?」
 上向こうとして顎に頭をぶつけてくるところなんかは、全然変わっていない。でも、初めはもうちょっとコンパクトに抱え込めていた。いまでは膝の間に抱いているというより、ルビィと浴槽の間に脚を挟まれているという感じだ。
 背が伸びたのはどっちもだけれど、やはりゴッドのなかではルビィの小ささが際立って記憶に残っていた。膝に乗っかっていた手を取り、自分の手と重ねる。
「なになに?」
 とルビィはうれしそうに指を絡めてくる。
「手えちっちゃ」
「そうかなー」
「つか爪ちっちぇー」
「あはー、深爪」
 ぎゅ、とお湯にふやけてまったく痛くない爪を立てられた。その手がふっと腕の内側に触れ
「いっ」
 つい、腕を引いた。
「あっ、ごめん!」
 慌てて謝るルビィに捕まえられた腕には、細い線の傷。大したものではないのだけれど、気が緩んでいたらしい。そもそも痛みに鈍い――とゴッドは読んでいる――ルビィとは違って、ゴッドは痛みに強いだけだ。だから油断はしたくなかったのだけれど。
「へーきだって。お前こそ、」
 見え透いたごまかしに、ルビィは容易に流される。ゴッドの言葉が切れるのを待たずに笑顔のまま答える。
「大丈夫!」
 吹っ飛ばされて転がって作ったであろう背中の傷は、ばしゃ! と湯を跳ねながら振り返った動きで見えなくなった。見るからにまだしみそうだが、ルビィはその傷をひっつけて平然と湯船に沈んでいる。そして上目遣いに甘えた声で言うのだ。
「それよりさ、髪、洗って?」
 この湿気の中でもぴょこんと跳ねている髪を撫で、ゴッドの返す答えは、言わずとも決まっている。

 バスマットの端に座ったルビィは、ゴッドがその後ろに胡座をかくと、臑に尻がひっつくまで後ろへにじってきた。
「近い近い。シャワーぶつかるだろ」
「えへへー」
 シャワーを握ると腕が窮屈だが、ルビィは気にも留めない。仕方ないのでそのまま湯を出して髪を濡らしてやる。
「う、ぷはっ」
 湯をとめて、顔の水滴を払うルビィの肩越し、シャンプーをワンプッシュ取る。髪に絡めて泡を立てると、それが背中へと流れ落ちた。さすがにこれはしみそうだ、と思った瞬間、ルビィが背中を反らして前かがみになった。
「あーうあー! しみるー!」
 排水口に向かって叫びつつ、両足の指が忙しく開いて閉じてを繰り返す。なんともないように湯船に浸かっていたくせに、極端なやつだ。
 とりあえず、湯で泡を流してやる。
「はあ、びっくりした」
「俺もびっくりしたよ。ていうか、お湯は平気なのかよ」
「んー? ちょっとぴりってするくらいかなあ」
 再びちょっと背を丸めた姿勢に戻ったルビィに、無理をしている様子はない。そこにもう泡が垂れないよう気を使いつつ、ゴッドは明るい茶髪をかき混ぜる。
「早く治せよ」
「うーん、あたしもそうしたいんだけどねー。なんか時間かかっちゃって」
「かさぶた触るからだろ」
「そっか、あはは。ゴッドはもうそれだけ?」
 うつむいたまま言われたのは、たぶん腕の傷のことだ。信用してるけど、心配もしてる、そんな気持ちが一切隠れない声。ん、と短く答えると、ルビィは半分ほど首を捻って振り返り、
「あたしたち、がんばったよね」
 そう言って笑った。
 たしかめるような言い方には、自分たちを認める思いだけじゃなく、疲れとか、緊張の余韻とか、わずかにある恐れとか、そんなものも滲んでいる。それでも笑って言えるところが、ゴッドには眩しくてならなかった。
 たまに、羨ましいと思う。ルビィは強くあることに一生懸命だし、頑張っているし、意地だって張っている。だけどその、時には無理をしてまで作り上げられた強さは、まっすぐで確かだ。危うさがない。いつか現れることがあるのかもしれないけれど、いまはまだ。まだ、これまでルビィが直面してきたことは、ルビィを折るには到底足りていないのだ。それはルビィ自身が確信している。
 ゴッドは違う。本当は無理だけど、耐えるしかなくて耐えてきた、そんなことばかりだ。平気なように振る舞うことにかけては誰にも負けないかもしれない。でも、それではいつまでも――
 なんて、詮無いことだろう。思いたくもないことを、ゆっくり、カランを開きながら振り払う。
「よくがんばってるよ、お前は」
「ゴッドもでしょー」
 シャワーを取ろうと伸ばした腕に、もう冷め始めた指が触れる。気遣われるほどのことはなにもない、本当に明日にでも消えてなくなる傷だけれど、ルビィはそれを労る。お前の方が、と言いかけて、やめた。そんな意味のないことを言ったって仕方ない。
「そりゃあ、精霊ですから」
「ふふ、あたしと一緒だ」
 ご満悦の返事をもらって、水の勢いを強くする。
「流すから覚悟しとけよー」
「はあーいうわっ!」
 しみるー、と結局排水口に吹き込みつつ、やっぱりその声色は笑っている。なにがそんなに楽しいのか、分かっているからゴッドは聞かない。代わりに、いつもぼさぼさの髪を丁寧に梳いてやる。本人が突っ走って傷だらけにしてくる体を、大事に大事に扱ってやる。
「次リンス?」
「いらないやつだろこれ」
「じゃあー」
「今日は体も洗ってやるよ」
 ゴッドは髪の水気を絞りつつ、ルビィのおねだりを言い当てた。最近はさすがにどうかと思って、自分でさせていたけど。もとより世間的にへんという以外に理由のない自重だ、たまにはいいだろう。
「やったー!」
 案の定ルビィは甘えた全開にばんざいで喜びを表し、
「あっ、じゃああたしも背中流そっか?」
「いいよ、俺もう出るとこだったし」
 可愛いけれどいらない提案をしてくれた。湯の落ちたあと、肌は簡単に冷えてしまうけれど、声は、言葉は、満ちた湿気よりあたたかい。
 たぶんこのあと、20数えなきゃと言ってまた湯船に誘われるのだろう。たったそれだけでも、ルビィはひとりでは風呂に浸かりたがらない。それに付き合って、あがったら背中に薬を塗ってやって、この傷も、明日で治ればいいと思う。きっとルビィならできることだ。そのためにもまず、壁のタオルに手を伸ばした。


2015/10/15

考えてることぜんぜん違うけど波長あうふたり。
ゴドルビにはもうひたすら仲良ししててほしい。