4、家族のような、仲間のような。

アクアとグロウ グロウ視点三人称 本編後


 その場所は、ようやく家としてのありようを取り戻そうとしていた。引っ越しは中途半端だけど、と家主は言うが、グロウを招き入れる態度はれっきとした住人のそれだった。天井の高いリビングに通されて、グロウはその実感を得る。
 広い部屋だ。大きな窓にかかったレースのカーテンが半分開いていて、穏やかに凪ぐ湖と、木々の深い緑が見える。床と天井は黒々とした木材で、壁紙は日が射せば眩しいほどの白。蓋をされた暖炉を中心に、二人掛けのソファが二台、暖房用の複雑な魔法陣を織り込んだ絨毯の上に置かれている。グロウはそのひとつに深く座った。背もたれに身を預けて顔を上げると、重たげなシャンデリアが視界に入る。城のホールにあるものほど装飾的ではないが、家庭に吊すには豪勢ではある。さらに首をそらせば、背後の壁にかかる、立ったまま半身を写せる通信鏡が見えた。その下には置物の並んだ猫足のチェストがあるはずだ。
 湖畔の土地を贅沢に使った二階建ての屋敷は、どの部屋もこんな調子だった。
 城下に土地を買って建てたグロウの家とは大違いである。広さだけではない。なんというか、遊びがあるのだ。ほとんど売り払ってしまったという装飾品だけではなく、家そのものに飾り気があった。例えばドア。床と同じ木を分厚く使い、植物のような模様が彫り込まれている。グロウの家はどのドアもただの一枚板だ。
 そんな扉を開けて、家主がリビングに戻ってくる。隙間を作ったドアに足を差し入れようとするので駆け寄ると、両手に冷たいお茶の入ったグラスを持っていた。
「お盆使いいや」
 グラスを片方受け取って言うと、アクアはえへへ、と笑って
「キッチン別だと、やっぱ不便だよなあ」
 全然話にならない返事をした。グロウは甲斐甲斐しい姉のように「もう」とこぼす。
 ふたりしてソファに腰掛け、お茶に口を付ける。氷は入っていないため、日の射す春にはちょうどよい温度だ。グラスを置こうとしてふと気づいた。テーブルがない。
「……置くくは?」
「ここ」
 アクアはグラスを、木でできた太く平らな肘掛けに置いてみせた。
「あんた、意外とそういうくは雑なでねえ」
 言いつつグロウもそれにならう。コースターもなしだ。グラスは汗を滴らせるほどではないが、上塗り材に包まれた木の表面がたしかに濡れる。
「いまさらだよ。いままでもしょっちゅう言われてた気がするけど」
「最初はそんなやなかったきね。ところで、荷物はどっぱあ片づいた?」
 尋ねると、グロウを迎えてからずっと柔らかく笑んでいた頬が固くなった。透き通る水色の目が、ひらりと正面の閉じた暖炉へ逃げる。
「上、すごいことになっちゅう?」
「いや、そんなことないよ。上はきれい」
「アクアの部屋、一階?」
「……うん」
「もしかして、ここがきれいながって、なんちゃあ運び込まんかっただけ?」
 うっ、とアクアは声を詰まらせる。その向こうをよく見ると、肘掛けに乗ったグラスは、グロウのものと微妙にデザインが違っていた。ほんの少し背が高い。この手の食器は四つでひと揃いとかそういうものが多い。ドールハウスみたいなこの家であれば、なおその可能性は高いであろう。
「あんたキッチンもぐっちゃぐちゃやお」
「ううっ!」
 グロウの読みはみごと図星を貫いた。アクアは敗北を受け入れるように、典型的なお手上げのポーズを取った。そしてくちでも、敗北宣言。
「片付け、手伝ってください」

 キッチンはそうと言われないとなんの部屋か分からない状態だった。
 そもそもグロウからすると、キッチンだけに使うにはもったいない広さである。壁に接したシンクは子供が水浴びできそうなほど広く、コンロは互い違いに四口も並び、天井から立派な換気扇が身を乗り出している。作業スペースの奥の壁には、薪オーブンの半月型の窓が開いて、足下にはかくれんぼにぴったりの大きな収納が備えられていた。
 しかしそれらも、いまは形無し。作業スペースを新聞で包まれたままの食器が埋め、コンロにはぴかぴかの鍋やフライパンがとりあえずの居場所とばかりに座り、オーブンの扉は段ボールで塞がれている。足下も封を切られた箱、箱、その中身、箱……。キッチンマットは袋から出したはいいものの、敷くべき空間が埋め尽くされていて、丸めっぱなしで転がされていた。部屋の中央はどっしりとした作業台が占領し、その上にも荷物がごちゃごちゃ広がって、足の踏み場どころかこれ以上ものを出せるのかも怪しい。
「これはまた盛大にやったね」
 グロウの声も、あきれを通り越して引きつり気味だ。広い戸口にあえて並ばず、後ろから覗き込んでいたアクアが首を引っ込める。
 グロウはその手首をひょいと捕まえた。
「あんた、お茶はどうやって出いたが?」
 この有様だ。常識的に考えれば、お盆どころかグラスも探せやしない。
「それは、ダイニングから。必要最低限の食器と、こっち来てから買った食べ物とかはあっちに置いてるんだ」
 アクアが指さすほうには、キッチンのより数段立派な、リビングと揃いの扉があった。人間界ではひと続きだったLDKが、ここでは全部ばらばらなのだ。
 なるほど、といくつものことに納得がいった。仕事で忙しく、家よりも城下にいる時間のほうが長いアクアは、そもそもここで料理をする気などない。広い部屋をあちこち行き来するのも面倒だ。朝食と飲み物だけなら、食べる場所に置いておき、そこで支度すれば済むのだった。
「それで荷物は全部、ここにぶちこんだ、と」
「うん。納戸はもとからいっぱいだし、個室と他の水周りは散らかすと生活できないし、ここなら大丈夫かなって」
 アクアはだめだったかー、とばかりに眉を下げる。見れば散らばっている荷物には、キッチンにふさわしくないものがいくらでも混ざっていた。洗面用品、ばらした三段ボックス、本ばかり詰まった段ボール箱、服だかタオルだかの布を詰めた袋。作業台の奥に頭だけ覗かせているのは、信じがたいが季節の違う布団のようだ。
 ここへは二カ所から荷物が運び込まれているため、多くなるのは仕方がない。それでも、散らかしっぱなしにしておいていいかというと、それは別のお話。
「いまは大丈夫でも、ずっとこうしちょく訳にはいかんろ。やるで」
「はあーい」
 この期に及んでへっぴり腰の家主を、背中を叩いて激励しつつ、グロウはその部屋へ一歩を踏み込んだ。

 グロウたちの手より日の落ちるほうが早かった。射し込む陽も赤みを増したダイニングで、グロウとアクアは引き際を悟ってめいめいに椅子を引いた。これまた張りのある、高そうなシートに沈み込んで、はーっと天井にため息をのぼらせる。
「……だいぶ片づいたんじゃない?」
 どこが? と返しそうになってグロウはいびつに唇を結んだ。アクアは完全にひと仕事終えた顔で、テーブルに出しっぱなしのお菓子のパッケージをさぐっている。大手メーカーのクランチチョコレート。人間界のものだ。
「それ、わざわざ買うてきたがや」
 疲れているせいで剣呑さの拭えない声に、アクアが上目遣いで様子をうかがう素振りを見せる。グロウが肘掛けにぐったりしているのをみとめると、素直にこっくりとうなずいた。
「引っ越し前に、しばらく分買ってきた」
 視線が移った先にはスーパーの袋があって、中に同じパッケージが透けている。グロウはようやく頬を緩めてお菓子に手を伸ばした。
「これ気に入っちょったもんねえ」
 アクアのために買ってきていたのは自分だった。すでにそれも懐かしい。そう思いつつ個包装を破っていると、頬の片側に丸ごとを入れたアクアが、ふいに言った。
「気に入ってるんだよ、まだ」
 ごりっ、と音がして噛み砕かれる。はっきりした声だった。グロウは反対に、ささやくような声になってしまう。うん、とだけ答えた。
 アクアはそれを聞き逃したように、
「だけどグロウはそういうの、すごく覚えてるよな」
 と嬉しげに言う。半分だけかじり取ったお菓子を手に、グロウは正面に座るアクアの顔をじっと見る。アクアは撫でるように穏やかな視線を部屋に巡らせる。ダイニングテーブルの半分を使って買いためられている食料品は、どれも人間界でグロウが選んでいたものだった。それらひとつひとつに、水色の視線が注がれ、途切れて、すいと離れる。
 ときどき、お菓子の小さく割れる雑な音がする。それ以外はまったく、静謐に光の濃さだけが増していく。夕焼け時。帰ってご飯を作らなければと、どこか他人みたいな自分が思う。
 音をたてるものがなにもなくなって、アクアが立ち上がった。その動作に伴う音が遅れたように、手の中でぐしゃりと包装が潰される。
「もう帰るだろ」
 信じられないみたいに言うのがおかしくて、グロウは笑いながら椅子をたった。
「帰るで。ご飯の準備せないかん」
 不思議だと思う。目の前にアクアがいるのに、ここから帰ってご飯を作らなきゃいけないなんて。昨日今日に始まったことではないのに、なぜだかいまは強く、それを感じた。
 感じながら、それでも部屋の出口へと足は動いている。見送ろうとするアクアを、グロウは仕草で制した。
「でも」
「かまんちや、またすっと来るき。あんたもちゃんとご飯食べよ」
「うん。今日、ありがとう。またね」
「また手伝いでもえいけど、できたら片づけちょきよー。じゃあね」
 重い扉は、閉まるときにパタンなんて軽薄な音はたてなかった。ぴったりと空気を遮断する、なんともいえない音がする。それはまるで、あの家の玄関ドアのような。
 いってきます、と言ってしまいそうな気分で、グロウはそっとそこを離れた。


2015/06/17

こういう距離感