ルビィとアクア アクア視点三人称 本編終了直後時期
ルビィとアクア アクア視点三人称 本編終了直後時期
誰かに呼ばれた気がして、アクアは目を覚ました。いつもなら意識が目覚めてしばらくは開けたくない目が今日は真っ先に開き、つけっぱなしの照明陣から安っぽい白けた光を注がれる。背中が痛い。寝ていたのは堅い床だ。右腕には寝たまま探してかきついたのだろう、一メートルある紙のロール芯を抱いていた。
半身を起こして部屋を見渡す。新居であり実家でもある湖畔の屋敷の、地下。壁も床も天井も、白っぽいセメントだかモルタルだかの打ちっ放しで寝起きの目に眩しい。その一面に、大小さまざまな白い紙、汚れた紙、水の入ったコップやバケツ、鉛筆から筆までの多様な筆記具、種々の暗色が揃ったインク瓶、干からびたパレットやインク皿が転々としている。そして紙面のみならず床や壁に直接書かれたものさえある、魔法陣。ウォーティ家の地下室は、アクアの第二の作業場になっていた。
そんな中、アクアの腰の辺りに丸くなって眠っている少女の姿がある。こちらには背が向けられていて見えないが、おそらくその寝顔は幼く穏やかだろう。のぞき込んで確かめることはせず、アクアはしばし、ルビィの寝姿をぼんやりと眺めた。
小さな肩がゆっくりと上下し、最近すこし背中にかかるようになったぼさぼさの茶髪がそっと揺れる。膝上にまくれたワンピースから伸びた脚は裸足だ。おなかのところにだけ、アクアの貸してやったパーカーが引っかかっている。
アクアは起きあがった体のほうに脚を引き寄せてあぐらをかき、ルビィとわずかに距離を取る。だんだんと頭もさえてきた。周囲に花びらのように散った使用済み魔法陣を拾い上げ、寝落ちに至った過程を思い出す。
生活の拠点が魔界へと移って、学生時代に猶予をもらっていた仕事の始末をなんとかつけて、卒業後初めての連休。アクアとは真逆で、することのなにもないぼやっとした日々を過ごしていたルビィがそれを見逃すはずはない。暇に飽かせて魔力と体力の続く限りに魔法陣の調整をしよう、と誘われた。持てる魔力を最大限引き出す、という点でアクアの陣はひとつのゴールにはたどり着いていたが、効率化はまだまだ上を目指したいところだ。休みだから書きたくないなんて性分ではない。アクアにも断る理由などなく、地下室にこもったのが昨夕のこと。
夕飯は食べたはずだ。暇人ルビィが人間界で買ってきた、すでにちょっと懐かしい駅前のファーストフードの紙袋が部屋の隅でつぶれている。ポテトの袋だけルビィの手元に丸まっているから、アクアは食事もそこそこに魔法陣にかかりきりだったのだろう。
自分のことだけれど、確信は持てない。それだけ熱中していた。書いてはルビィに渡し、使わせて感想をもらって、一部を修正してまた使わせる。最初はルビィも楽しげにあれこれコメントをくれたし、催促さえしていた。けれど次第に疲れと飽きで視線はどんより重くなり、陣の話より休憩しようよーの数が増え、アクアの適当な相槌に返事がなくなり、言い出しっぺは先に寝た。
そこまでは覚えているが、自分が寝落ちしたタイミングまでは分からない。散らばった魔法陣を見てみても、修正個所が微細すぎてどの順序で書いたのだか自分でも判断がつかない。ついでに、窓のないこの部屋ではいまが何時ぐらいなのかもよく分からない。
そこそこ寝たような気もする。夢は……見たのかどうか、この数分でもう分からなくなっている。ふらふらと立ち上がって階段室へのドア脇に置いた小さな時計の前へ寄る。普通は枕元に置くような置き時計が直置きされているのをしゃがんでのぞき込めば、二本の針は11時過ぎを示していた。午前、でいいのだろうか。疲れきった自分とルビィなら、次の夜まで寝ていたということもありえる。
まあ、それは外に出たら分かるか、と一旦保留にして、もう一度ちからを込めて立ち上がる。心なしか手足に震えがきかかっている。作業用エプロンの下、ズボンのポケットに手を突っ込むと個包装のチョコレートが出てきた。どう考えてもでろでろに溶けている感触だが、構わず開けて啜るように糖分を摂取する。包みは汚れてもいいエプロンのポッケにつっこみ、寝ていた位置へ戻る。
よいしょと座り込んで、
「ルビィ」
一回呼んでみた。結果は予想通りの無反応。
「ルビィー、朝だよ。たぶん」
言いつつ、今度は片手を伸ばして肩を揺する。寝起きに低血糖で加減のきかない手のせいで、ぐらぐらと大きく揺れた体がぱったりと仰向けにひっくり返った。そして
「あ……んん?」
うっすら開いていた唇がもぞもぞうごめいて、しぱしぱしぱ、と素早い瞬き。一度ぱちりと開いた目が照明の刺激にきゅっと細められてまた開く。そして
「……行かなきゃ」
がばり、とひょろい体が起き抜けにしては力強い腹筋のちからで起きあがる。ルビィがぐりんと首を捻り、ぎょっとするアクアを真っ赤な瞳が射抜いた。
「アクア、――」
どこか緊迫感のある声が名を呼んで、非常を告げるような声は――しかし、先に続かない。言いかけのまま静止した唇が、ぱくり、ぱくりと空気を喰んで、剣呑なまでの表情が一気に脱力した。
「……なんだっけ?」
こてん、と首を傾げてちっこい手が後ろ頭をぽりぽり掻く。謎の気迫に身を堅くしていたアクアも、はあ、とため息をついて
「なんだよもお~」
無駄に使ったエネルギーを回復するようにだらんと床に倒れた。紙の乾いた感触と頬が擦れて、寝心地の悪さから結局すぐ起きあがる。
「あ、おはよーアクア」
「うん、おはよ。よく寝てたな」
「うん、よく寝た」
やっとまともに顔を合わせて、ふたりしてうんうんうなずきあう。
「それでルビィ、なんの夢見てたの?」
急に飛び起きるからびっくりしたんだけど、とアクアが尋ねると、ルビィは腕組みしてうーんと唸ってから、そのへんに散らかっている魔法陣をかき回し始めた。しばらくガサガサやって
「えーとねー、あったあった。これこれ、こんな感じ」
出てきたのは、大小三つの円が触れあった構成の精緻な魔法陣。まあアクアの作品に精緻でないものなどほぼないが、これはそのなかでも一等細かい。なぜならこれは、世界の根幹にふれる魔法陣だから。
「こんな感じ、って……」
それは悪夢ではないか、とアクアはおののく。
ひどく緻密なこの陣はなにを隠そう、アクアたち精霊の人生を大きく変えた、神魔戦争のきっかけとなった魔法陣、その再現なのだ。先代ルサ・イルの編み出した、編み出してしまった、世界の仕組みに差し障るほどの陣。その影響はアクアやルビィや仲間たちの死に物狂いの働きによりなんとかこの世を去ったが、すべての根元であった魔法陣そのものについてはまだ解明されきっていない。事件自体は解決したが、謎を放置するのも気味悪く、また前のルサ・イルに挑みたいとの気持ちもあり、アクアはこのところ、その再現に尽力していた。その背を強く押したのがルビィだった。
そういうこともあり、またルビィが睡魔に完封された頃に書いていたのがこれということもあり、夢に出るのはうなずける。しかしこんな感じの夢とはどういうことか。
ルビィはアクアの心中などいざ知らず、なんかさー、とどこか感慨深げに言う。
「これってさあ、まだ終わってないってことなんだよね」
穏やかに噛みしめる口調とは裏腹な、なんだかぞっとさせられる内容に、アクアはつい身構える。けれどルビィは声に微笑さえ含ませて、
「まだ、あたしたちにはやるべきことが残されてるんだよね。まだやんなきゃ、まだ行かなきゃ、もっとなんか、すごいものが待ってる気がする」
「それは……たしかに、すごいものはあるんだろうけど」
この魔法陣が完成を見る、そのとき。それは世界にふれるときだ。アクアとルビィは一度見た、世界の仕組みに、次はふれるのかもしれない。それはもしかしたら、この世界でいちばんすごいことなのではないか。
はるかな恐れと、わずかな、しかし確かな期待が意識を冷やす。アクアは世界にふれあって生きていたひとを知っている。彼女の生のありかたに、そのとき自分もふれられるかもしれないと思うと、自然と胸は高鳴った。たぶんルビィも、同じようなことを思っている。
灰色の壁の向こうに、まさに世界の果てでも見るような目をして、そのくせルビィの声は春風のように軽い。
「そんな感じの、夢でした。……内容ちゃんと覚えてないけどね」
てへへー、と日だまりみたいな笑みを向けられて、アクアはふと思う。同じ夢を見ていた、ような気がする。もうさっぱり覚えていないけれど、誰かに起こされたような目覚め、焦燥、まだほんのかすかに体に残る、冷たい汗の引いた感覚。アクアなら、この陣みたいな夢を見たら、ルビィと違って鷹揚に構えてはいられない。だって、夢中になって魔法陣を書いていても、この陣の完成はやっぱりどこか空恐ろしい。
意識してしまうともうだめで、不意になにかにすがりたい思いが胸に広がる。けれどなにか危険があるわけでもないのにルビィに助けを求めるわけにもいかず、アクアは何となくうつむいた。
その手を
「じゃ、行こっか」
小さな手が軽やかに取って、力強く引く。
「え」
と言う間に、アクアは引かれるまま立ち上がっていた。いままで何度もされたように、ルビィの行くべきと決めたところへ引っ張って行かれる。無理だと言えばあっけなくその手が放されることはよく知っていた。それで慌てて足をもつれさせながら付いていこうとすると、
「そんなに焦んなくても。外出るだけだよ?」
きょとん、とルビィは首を傾げた。アクアははっと我に返って、
「そ、そっか。……え、なんで?」
微妙に冷静になりきれず、そんな問いかけ。
「だってここじゃ時間も分かんないじゃん。のど乾いたけど、外に出ないことには飲み物もないし」
「時間は11時ちょっとだけど」
「昼の? 夜の?」
「……さすがに昼だろ」
「わっかんないよー?」
いたずらっぽく笑った表情が不意にひきつって、
「ふ、ふわ、ふぁああ」
ルビィは大口を開けて大あくび。それにつられて自然に手が離れ、顔の前へ持っていかれる。アクアは空になった手をすこし寂しくぶら下げて、
「上でまず顔洗ったら?」
「ふあー、そだね。あとおなかも減った」
まだあくびのやまないルビィの前に立ち、地上へのドアを開けた。息を吹きかけるようなささやかさで空気が流れる。先に立って歩こうとして、アクアはなぜかルビィを振り返った。どうしてかはわからないけれど、なにか物足りない気持ちになった。
目を細めて立ち止まったアクアを、ルビィが軽やかに追い越していく。瞬間、物足りなさがかき消えた。ちっこくて、だけど大きな背はアクアを待たずに階段を駆け上がっていく。その姿にアクアは見入った。やっぱりルビィは風上にいなきゃだめだ、なんて。
階段のてっぺんにたどりついたルビィが、とまったままのアクアを見下ろす。来てとか早くとか、そんなことは言わない。ただひとこと
「行くよ、アクア」
ルビィはそう言って、風を引き連れていく。アクアはそんなちっぽけな期待をめいっぱい受けて、その背を追って階段をあがるのだ。
ルビィ誕生日おめでとう。ではなくて。
「神魔戦争の危機は回避されても、ルサ・イルが世界に残した傷跡が消えても、それでもあたしたちは精霊としての役目を背負って生きていくんだよね」って話でした。
物語は終わっても登場人物は生きてるっていうけど、やっぱりそこも書きたくなっちゃうんだなあ。
ということでおつかれさまでした!