文化祭 後編

前編より続き


 そこから先は怒濤の展開だった。
 女子たちは賑やかながらも整然とメイク班ウィッグ班に分かれ、適当に被せられていただけのウィッグをウィッグ班が持ち去ると、メイク班が河音を取り囲んだ。河音はなにをされているのかもわからないまま、顔中を刷毛だの指だのふわふわしたなんだかだのが走り回るに任せる。
「やっぱりピンク系かなあ」
「チークこっちのがよくない?」
「あ、それCMしてたやつー」
「つけまの予備どっかいった!」
「ひとに塗るの加減わかんない」
「はい、目閉じてー。おっけー、開けてー」
「ハルナが持ってたの使いやすかったわよ」
「これナオのビューラーなくしたって言ってたやつじゃない?」
「先グロス選んでてー」
 こうも忙しなくされると、女子の顔面が至近距離に迫ってきてもどぎまぎしている暇もない。化粧道具を手に河音を見つめる表情は一様に職人的な真剣みを帯びていた。河音は舞台用のメイクを施されたそのまぶたを見て、あんなところにぶれずにまっすぐ線を引くなんてすごいなあ、とぼんやり考える。
 かと思えば、
「早瀬くん奥二重?」
 などと突然問いかけられ、河音が返せるのは、
「え? あ、はあ」
 ぐらいものだ。
「エミちゃんアイプチ得意でしょ」
「これすごいの、テープじゃなくて糊のやつ」
「見せて見せて」
「早瀬くんて日焼けしない系?」
「え、す、するけい?」
「ふーん。顔白いけどくちびるカッサカサ」
「ゆっきーリップ貸してー」
「てか制服誰の?」
「うちの」
「スカートいい感じよね。脚どうする?」
「脚出そうよ! せっかくだし」
「タイツ?」
「出すって言ってんじゃん」
「ねえ膝どうしたの?」
「あー……これどうしよ」
「あれでしょ、早瀬くんずっと膝ついて看板書いてたから」
 ここ最近ずっと床で魔法陣を書いていたせいで膝が黒っぽくなっていることを言われているのだとはわかったが、正直に答えてしまうわけにはいかない。が、悩む間もなく女子たちはそれらしい理由を捻出してしまう。化粧だけではなく、コミュニケーションにおいても女子の手際はあざやかだった。
「ニーハイとかいいんじゃない」
「ありかも!」
「持ってるの?」
「ないない」
「C組って女装カフェじゃなかった?」
「ヒロキがミニスカニーハイだったわよ、やっばいの」
「見たー! 犯罪だよね」
「佐野ちゃんもらってきてよ!」
「いいの? そしたらヒロくん生足だよ?」
「それはやばい」
「でもうける」
「おっけーおっけー、任せといて」
 佐野ちゃんと呼ばれたポニーテールの女子が親指を立てて出て行く。その後のアイメイクを施しながらの会話によると、C組の女装喫茶でミニスカにニーハイを穿いて頑張っているヒロキくんは佐野ちゃんの彼氏で、女装にはノリノリだが出来映えは惨憺たるものらしかった。そういえば、定が結局教えてくれなかった衣装はなんだったのだろう。河音は、なんでもいいけれど、こんなふうに女子に手厳しい評価を受けていなければいいのにと思った。
「見てー! 内巻きできた!」
「カナコがやったの?」
「すごーい、かわいいー!」
 やがて、先に仕事を終えたらしいウィッグ班がマネキンの首にウィッグを被せてやってきた。メイク班がみんな振り返ったおかげで、河音にもこれから被るウィッグがよく見えた。
 可愛い、のかどうかは正直わからなかった。ばっつんストレートだった黒髪のセミロングがふんわりとした内巻きワンカール――そんな言葉で表現することを河音は知らないが――に変わっていた。河音はただ、この短時間で見事な変貌を遂げさせた女子たちの技術力に感心する。
「被って被って!」
「えっかわいいー!」
「どっか結んでみる?」
「このポンポンしてみてよ」
「きゃー! かわいいー!」
 瞬く間にウィッグが装着され、かわいいの嵐を浴びせられる。反応に困った河音が眉を下げると、女子たちはまた、
「いける! 早瀬くんならいけるわよ!」
「ほんと、似合う似合う」
「あとつけまね! 仕上げよ」
「ウィッグもっと馴染ませて」
 と、再び作業の手が動き始めたときだった。
「みんな! たいへん!」
 開けっ放しのドアから飛び込んできたのは、手に黒く細長い布をぶら下げた佐野ちゃんだった。佐野の反対の手には校則で持ち込み禁止となっている携帯電話があり、女子たちに異常事態を察知させる。
「どうしたの?」
「なになに」
「これ! 見てよ! あとこれヒロくんのニーハイ」
 河音の膝にしばらく男子が穿いてくったりとしたニーハイソックスを投げだし、佐野は女子の輪の中で携帯電話を開いた。
「高崎くんのメイド、やっばいの」
 映し出されたのは、安っぽいピンク色のメイド服を着せられて給仕をしている男子の隠し撮りらしき斜め後ろからの画像。学年で何番目かは知らないが、女子たちからイケメンという評判のかなり高い、そして陸上部で足が速い上に人格者であるため男子たちにも評価されている、C組の高崎だった。定しか友達のいない河音でさえ知っているし会話をしたこともある。
 女子たちは口々に高崎を褒めた。
「メイドにしたの誰よ、ナイス!」
「やっぱりイケメンはなにしても許されるのね」
「ユミじゃない? 頑張ったからクレープおごってって言ってた」
「高崎くんも女装コン出るの?」
「写メ送って!」
「わたしも!」
「これと戦うのきつくない?」
「普通に高崎ってだけで票入れるやつ絶対いる!」
「どうやったら勝てるのよー」
 女子たちのあいだに暗雲が立ちこめる。河音は別に構わなかったが、言い出しっぺの楓生はきちんとそこへ光明を差し込んだ。
「みんなあ、大丈夫。見て」
 びしり、小さな画面のなか、なんとも言えない微妙な表情で皿を運ぶ高崎の顔を楓生が指差す。
「そら高崎くんは男前で。でも見て、全然化粧もしちゃあせん、完っ璧に男の顔のままやん。いくら男前でも、これは女装コンテスト、女装の完成度で競うもんながで。勝つがはできるだけ可愛い女の子に仕上げた方やお。投票するがは枝高生だけやないし、保護者とか他校のひとはぱっと見で可愛い方に入れる!」
 堂々たる演説ぶりに河音も思わず飲まれかけた。もともとやる気の女子たちはもちろん、楓生の目論見通りに奮起され、
「よし! わたしたちで早瀬くんを完璧可愛い女の子に仕上げてあげようじゃないの!」
「おーっ!」
「じゃ、とりあえずニーハイ穿いて」
「つけま控えめの方が清楚感あっていいわよね」
「早瀬くん肩狭いけどもうちょいカモフラほしいわね」
「パーカーとか着てみる?」
「誰か男子の借りてー」
「おっきいやつ着たら彼パーカーって感じじゃない?」
「それいい!」
 あれよあれよという間に、河音はウィッグに淡いピンクのファーが付いた髪留めをされ、勝手に切られた眉を勝手に書かれ、制服のリボンを結び直され、アイドルがCMしているチークをはたかれ、また誰かがどこかのクラスから拝借してきた空手部男子のXXLのパーカーを着せられていた。
「あとなに?」
「グロス、グロス」
「そのオレンジ可愛い」
「舞台映えは赤でしょ」
 一度塗られたオレンジ系のグロスは「地味?」とのコメントともに拭き取られる。次の色を吟味する女子を待ちながらぼんやり廊下のほうを眺めていた河音は、そこによく知った顔を見つけて「あっ」と小さく声を上げた。
「定?」
「え? ……早瀬? だよな? ……なにやってんの?」
 女子ばかりの教室におそるおそるといった体で入り込んできたのは、目にやかましい真っ赤なミニスカサンタの衣装を着せられた定だった。しかもオフショル仕様で寒そうに腕をさすっている。
 脇に抱えたでかいボードは、C組の男子たちが恥も外聞も捨てて繁盛させている女装喫茶の看板。脚には安物なのかダイヤの不揃いな網タイツと、無駄にごつい雪国用ブーツを穿いている。髪はまったくいじっておらず、帽子を被っていたせいかいつもよりへたっていた。その帽子はいかにも邪魔そうに、腰のやたら太いベルトに挟み込まれている。河音とは違い化粧っけはゼロで、おふざけ感と手抜き感だけがひしひしと伝わってきた。
「おつかれさま……」
 親友の惨状に、河音は自分の状態も忘れて哀れみの言葉をかける。定は椅子を引っ張ってきて前後逆にまたがると、ベニヤ板の看板を床に突いて不機嫌丸出しの声で言う。
「地獄。クソさみー」
「依川あ!?」
「うわー……ぷっ」
「なにそれじょーだんきっつ!」
 面白来訪者に気づいた女子はさっそく指を指して笑っていた。
「つーか早瀬は? オレと呼び込み手伝ってくれんの? 一瞬女子かと思った」
 女子が萌え袖! と言って伸ばしたパーカーの袖を、定が余計に引っ張ってさらに伸ばす。三原がそれを制しながら、
「ちょっとやめてよ。早瀬くんは女装コンテストに出るのよ。優勝目指してるんだから」
「そうそう。わたしたちみんなでメイクしてセッティングしたの、可愛いでしょ」
 急に見せびらかされたのが恥ずかしくて、河音は赤くなった顔をうつむける。けれどそんな反応慣れっこの定は、
「まあ可愛いけど、おまえもたいへんだな……」
 そう言ってぽんと肩を叩き、看板を提げて教室を逃げ出す。女子に圧し負けたのは明白だった。
「さ、定~」
 もしかしたら助けてくれるかもなどという甘い考えを砕かれて、河音は真っ赤な後ろ姿に手を伸ばす。
「がんばれよー、河音ちゃん。オレはもう着替える!」
 そんな声とともに定は消え、廊下の反対方向から、
「きゃっ! 依川どうしたの!? えっ、早瀬くん!? なにしてんの!?」
 店番を終えて賑やかな隣室をのぞきに来た椎矢の、混乱極まる大声が聞こえた。河音は戸口で目を見開いている椎矢に楓生が腕組みで事の次第を説明するのをぼんやりと聞いていた。

「それではっ! 本日のメインイベント、女装コンテスト結果発表! 開幕でーす!」
 すでに夕暮れ色を濃くしている校庭に、スピーカーを通して司会を務める女子の溌剌とした声が響き渡った。それに応じてバラバラと拍手や口笛が舞台に浴びせられる。だいたいは観覧席前列に陣取っている出場者のクラスメイトたちだ。
「ではでは入場していただきましょう! エントリーナンバー1、中学一年、A組、小田アキオくん!」
 司会が学年順に名前を呼び、計八名の出場者がスカートだったりハイヒールだったりを気にしつつぎこちなく舞台に並ぶ。ひとり出てくるたびに、彼らのエントリーに一役買ったとおぼしき友人たちがはやしたてたり笑ったりと、客席が賑やかになる。
 熱斗はパイプ椅子の最後列のさらに後ろに立ってその様子を眺めていた。コレと決めたら絶対にやめない強固な意志を持つ監督に見初められた可哀想な同居人の、応援というべきか見届けというべきか、その目的は彼自身にもよくわかっていない。投票開始イベントも、その後校内にばらまかれた投票用のビラも見ていないから、いちおう完成形を見ておくかという程度である。
 そのかたわらで、持ちうる指揮監督能力を遺憾なく発揮し終え、すでにやり遂げた者の表情をしている楓生は、舞台を見上げて満足げにほくそ笑んだ。
「遠目で見ても可愛いできちゅうわ。あの中でもいちばんやない?」
 確かに、河音の女装はよくできていた。楓生が日頃膝上丈で着ている制服は、身長差のある河音が着ると太腿にかかる。黒のニーハイソックスと裾のあいだにすこしだけ肌を見せながら、脚のほとんどを隠すことで男っぽさがかなりカモフラージュされていた。もともとなで肩で目立たない肩幅にも大きめのグレーのパーカーを着せて、シルエットに自然な丸みが加えられている。黒髪のウィッグはヘアアイロンで巻いたことですんなりと馴染み、男子にしては柔らかい輪郭により少女らしい趣を添えていた。
 化粧の出来映えはどう考えても出場者でいちばん良かった。そもそも口紅以外を塗っているやつが河音の他にひとりしかいない。そんななかで、きっちり今時の清楚系フルメイクを仕上げている河音はそれだけで目立つ。ステージ上を強いライトが照らすと、その差は遠目にもはっきりと感じられる。そのうえで始終困ったようにちょっぴり眉を下げているのが似合うこと似合うこと。いつものことながら、楓生の見立てには間違いがない。
 けれど、舞台上でびくついている河音と鼻高々の楓生を見比べていると素直にその出来を褒めるのも申し訳なく、熱斗は楓生ご所望のものとはずれた答えを返す。
「女子の技術がすごいのはわかったけど、河音はもとから可愛いだろ」
「わー親ばか」
「おまえも変わんないだろ」
「そうやけど、今日はそれとは違う勝負なが。女装の出来映えを競うがやき。まあ見より、うちの河音が絶対に優勝するで」
 舞台ではもったいをつけたドラムロールとともに、順位が下から発表され始めていた。熱斗は舞台袖に貼りだされた入賞賞品のリストを見ながら思う。ほんとうに優勝してしまったら、米一俵もらいうけることになるがどうやって持ち帰る気なんだ、宅配とかしてくれるのか、と。

 苑美が定にとってもらった客席最前列から、ステージの上でおどおどしている河音に手を振った。
「そんな顔しなくて大丈夫だよ! がんばれ!」
「いまから頑張ること残ってないわよ。あと叫ばないの」
 隣の席の椎矢は袖を引っ張って、後ろの迷惑になる手を下ろさせる。D組の早瀬がなぜかA組女子たちによって女装コンにエントリーされたとあって、両クラスの物見高い連中が前列を占めている。苑美がへんに目立ってこれ以上河音を追い詰めては悪いと思っている椎矢だが、いちおう票は入れた。
 なにしろ出来がいいのだ。枝葉川中高は高校の女子でも学校に化粧をしてくるタイプの生徒はあまりおらず、すっぴんが当たり前の世界だ。そのなかで休日に磨いた腕を存分に発揮したフルメイクは、キャンバスが地味顔の男子であろうとも、そのへんの女子にまったく見劣りしない。
 複雑な気持ちのまま開票の行方を見守る。C組の高崎は五位だった。入賞賞品のつく三位を発表する前のドラムロールが始まる。
 その最中のことだった。
「ん? あ、待って、ちょっとストップ」
 司会が急にそんなことを言い出した。マイクをくちもとから遠ざけ、舞台に駆け上がってきた別の女子となにやら言葉とメモを交わす。
「すいません、すいません、えー、では気を取り直して! 四位の発表です!」
 どるるるるる……と再開されるドラムロールのあいだ、観客たちは一様に首をかしげていた。椎矢と苑美も顔を寄せ合い、疑問を共有する。
「いま四位って言った?」
「言ったわね」
「三位じゃなかったの?」
「エントリーイベントにいたひとはこれで全員のはずよ」
 客席のざわめきをまったく気にせず、どるるるる、だん! とドラムロールが終わり、司会が高一男子の名を発表する。残っているのはまだ素材が男臭くない小柄な中一男子と技術の粋を凝らした河音の二名。
 いきなりダブらされた順位にみんながそわそわするなか、三位に選ばれたのは中一男子だった。
「やっぱ河音が優勝?」
「まあそうよね。さっきの中一の子より可愛い男子とかうちで聞いたことないし」
 中一くんは夫婦茶碗を受け取ってマイクを向けられ、
「お父さんとお母さんにプレゼントします!」
 とはにかみながら言って拍手を浴びていた。息子が女装を評価されて得た夫婦茶碗を両親はどんな思いで受け取るのか、と椎矢はいらぬ心配をする。
「それではっ! 続いて、準優勝の発表です!」
 またも観客の疑問符そっちのけのマイペースなドラムロールが響き、その果てに司会が声高らかに叫んだのは――

「はあ!?」
 真横でキレ気味に発された声に、さすがに熱斗もぎょっとした。楓生は目もくちもまるく開いて衝撃に打ち震えていた。ちょっとは予想ついただろ、と言ってはいけない空気を読み取り、熱斗は黙って二の句を待つ。
「……熱斗、いまなんて?」
「準優勝、中学三年、D組、早瀬河音」
 まるっきり司会が言ったとおり、一言一句違わぬリピートを、楓生はようやくかみ砕いたかのように二度三度うなずき、
「まあ、そうやね、そう。二位やったら炊飯器やもんね。それはかまんがやけど」
「覚えてたのか。すっかり忘れてるかと」
「バカ言いな。炊飯器も欲しいけど、ここまでやったら優勝狙いたかったが。それはともかく――」
 こん、とひとつ咳払いしている様子を見るとほんとうに忘れていたのではないかと疑ってしまうが、それも言わない。
「河音が準優勝やったら、誰が優勝ながで? あの子より可愛いしちゅうひとらあておる?」
「さあなあ。……そういえば、そもそも女装って可愛さで競ってるのか?」
「可愛さ以外ち……美人系? あとは不自然やないかとか……」
 なんの気なしに言った言葉を楓生が真剣に考え始める。熱斗はふとある可能性に思い至って、まさかな、とそれを打ち消した。

 椎矢たちの見守る前で、河音は炊飯器をその場で受け取り、重そうに抱えながら、
「うちの炊飯器、最近調子が悪いので助かります」
 と結局は楓生の思惑通りのコメントをしていた。さっさと退場していった四位以下とは異なり、準優勝の河音と三位の中一くんはステージのすみっこに残される。そしてついに、客席の困惑を晴らすべく優勝者を発表するためのドラムロールが鳴り響く。
 大音響のなか、椎矢は苑美と頬がぶつかるほどの距離でささやきあう。
「苑美は誰だと思う?」
「さあ。あたしたちの知らないひとじゃない?」
「もしかして高三かしら。それでエントリーイベントにはいなかったとか」
「だったら絶対わかんないよ」
 ドラムロールが終わった。司会がマイクの前ですうっと息を吸う音がスピーカーに拡大される。そうして、
「えー、優勝の方はいまちょっと生徒会が呼びに行ってます。到着したら――あ、来た来た。早く! こっちでーす!」
 司会がぴょんぴょん跳ねながら手を振る先は、椎矢たちの位置では立ち上がっても人垣で見えない。誰? 誰? という声が客席のあちこちから聞こえる。やがてその人物は裸足でステージに上がり、
「あーーーーー!?」
 苑美がパイプ椅子を蹴立てて立ち上がり、絶叫した。ステージの上では河音もぽかんとくちを開けている。椎矢も舞台中央に現れたその姿を見て、
「……なに? ……えっ、あれ? うそ、えーっ!?」
 苑美のように立ちはしなかったけれど、絶叫。
「冬山柊!?」
「柊さーん、おめでとうございまーす!」
 世界でいちばんよく知る声が後ろのほうから聞こえて振り返ると、客席のなかに「柊」とハートマークの上に書いたウチワを振る姉の姿があった。
「優勝者は、高校二年、B組、お化け屋敷の首を吊って死んだ女の霊さんでーす!」
 柊は、まさに司会が紹介したとおりのなりをしていた。裾がぼろぼろに裂けた白い着物を左前に着て、そこから覗く脚は真っ白だが薄汚れて、口元から襟までなにやら赤っぽいものを垂らしている。目の下には隈が塗られ、長さの不揃いな長髪はぼさぼさに乱れて、真っ暗な瞳がその奥からじっとりと覗いていた。 そして極めつけは、首に巻かれた荒いロープ。それがうなじからまっすぐ、頭上二十センチほどまで伸びていた。針金を巻き込んで立たせているようだ。
 その完成度はある意味で河音の女装の比ではなく、お化け屋敷の幽霊にありがちな三角巾も、うらめしやの手の振りもなくとも、柊はどこからどう見ても「首を吊って死んだ女の霊」そのものだった。
 音の割れた録音のファンファーレが鳴り響き、舞台袖からわっと出てきた生徒会メンバーが手持ちクラッカーを次々に引く。駆け寄ってきた司会が、似合わない銀テープを浴びた柊の、痩せて骨張った手にマイクを握らせる。
 そうやく席に腰を戻した苑美が、なかば呆然としたままつぶやく。
「よくできてるとは思ったけど、まさか柊がエントリーされてるなんて」
「苑美、お化け屋敷行ってたの?」
「うん、午前中に熱斗と差し入れ持って行ってきた。あの血糊っぽいやつ、フランクフルトのケチャップだよ」
「こうやって見てたら血にしか見えないわよ……リアルすぎ」
「言われてみればこれも女装だよねー。あんまり似合ってて女装かどうかなんて考えなかったよ」
「たしかにそうね。でも、冬山が自薦で出てるわけないし、誰がエントリーしたのかしら」
「さあ。椎羅じゃないよね?」
 いくらなんでもそれはない、と断言する自信がなく、椎矢は笑って返事をごまかした。

「俺じゃない、俺はなにも関わってない」
 そのすごい勢いで振り向いた楓生に、熱斗は先回りで答えた。壇上に現れた柊の姿に、熱斗だって驚いたのだ。その格好は校舎内小ホールで絶賛開催中のお化け屋敷で見てきたものだが、まさかその衣装で女装コンに出されているとは。
「ほんとやね?」
「ほんとだって。あいつのクラスには苑美と差し入れ持って行ったけど、それだけ。……あのくちんとこつけてるのケチャップだな。拭けって言うの忘れてた」
「関わっちゅうやん」
「女装コンには関係ない」
 言い直すと、楓生は感心したように、
「にしても、柊には悪いけどよう似合うね。そらお化け屋敷も混んじゅうはずや」
「あいつがいちばんのメインだったからな。ほかのお化け役と違って全然気配がなくて、振り返ったらそこにいるんだよ」
「こわっ」
「大丈夫、たぶんおまえなら気づく」
「そうやおか?」
 無駄口を叩いて笑って、思っていたのとは違うけれどこれはこれで楽しい文化祭でした、という空気がふたりの間に漂う。
 ステージでは柊が優勝の感想を求められ、まったく生気のない、男子にしては高く抑揚の死んだあの声で、クラスメイトたちに吹き込まれたと思われるお化け屋敷の宣伝をしていた。前髪の簾越しにどこを見るともつかない様子の目が、熱斗たちを除く生徒たちには真っ黒に見えているはずで、それはさながらあの世から見つめてくる視線のようであろう。
 やがて三位までの入賞者が並んでの写真撮影が始まる。河音はまだびっくりしている顔で、隣に立つ柊を上から下まで何往復も眺め回していた。
 その背景に、熱斗は目を留めた。
「なあ」
「わかっちゅう」
 話が早い。楓生も同じく、和装の柊のバックに合うんだか合わないんだかわからない米俵を見ていた。日本史の教科書の挿絵の、農民が年貢を納めるシーンでしか見たことがなかった物の、実物だった。想像をはるかに超えることはないが、大きい。
「あれ本物だよな」
「炊飯器の箱も持ち方からして中身あるし、あれもそうやない?」
「誰が持って帰るんだ?」
 柊が、という選択肢は彼らにはない。あの貧相きわまりない幽霊の腕でどうにかなる代物でないことは一目瞭然だ。
「みんなで転がす? でもたぶん送ってくれるろ。柊に任せるがは不安やき、確認してくるわ」
 真顔で笑えない冗談を言って、楓生はするりと人混みに入り込んでいく。
 記念撮影を終えたステージから、本日のメインイベントの終了がアナウンスされる。ようやく終わった。すでに日は暮れかけている。熱斗は自分のクラスに戻ろうと踵を返して、
「あ」
 誰かを探している様子のクラスメイト女子を見つけた。否、見つかったのは自分のほうだった。
「いた! 明坂くん、今日ちゃんと校舎内にいた!? 午後からぜんっぜん集客よくないんだけど!?」
 たこ焼きなんて午後から売れるものではないが、女子の言いたいことはそれではない。ああ面倒くさい、と思いつつ、熱斗はその場で絡まれる前にクラスの片付けにかかってしまうべく、校舎へ足を向けた。

 ほんとうにすべてが終わった頃には辺りは真っ暗になっていた。河音は白い息を吐いて校舎を振り返る。もう電気のついている教室も数えるほどしかない。
 そのうちのひとつ、楓生のクラスの明かりが消える。彼女自身はとっくに帰っているだろう。今日の奮闘を讃えて夕飯は好きな物を作ってくれると言っていた。柊のクラスにはまだ何人か残っているひとの姿がある。女装コンのあともそれまで以上の大盛況で、時間ぎりぎりまでお客さんが並んでたいへんだったらしい。
 しばらくその光景を眺めていた河音は、やがて正門へと歩き出した。すっかり夜に沈む景色のなか、ぽつんと点いた街灯の下で、苑美が腕をさすりながら待っている。
「大丈夫? 持とうか」
 並んで歩き出すと、苑美はそう言って手を差し出してくる。河音は首を振って断って、両手に提げた電機屋のレジ袋を持ち直した。新品の炊飯器は今日の疲れを表したようにずっしりと重たい。苑美は元気があり余っているようだが、持ってもらう気にはならなかった。
 けれど、
「じゃあ半分」
「わ、」
 ひょいと伸びてきた手が、手袋の指の間から袋の持ち手を引き出してさらっていく。ふたりの間で炊飯器の箱が大きく揺れる。
「急にやめてよ、びっくりするだろ」
「いいじゃん。ちょっとは軽くなった?」
 苑美は腕の振りが大きすぎて、炊飯器はひとりで持っていたときよりずっと激しく動き、河音の腕には前へ後ろへと無駄な負荷がかかっている。苑美の、寒がるくせに邪魔だと言って手袋をしない手に、細くなったビニールが重くかかって、指先が真っ赤になっているのも気になった。
 でも、苑美は満足そうに、さあどうだと言わんばかりに笑っている。
「……ありがと」
 おふざけだし、お節介だ。けれど河音はそう言うしかなかった。
「どういたしまし――あ」
 にまーっと笑っていた唇がふいにまるく開いた。次の瞬間には顔の前まで手が伸びてきて、河音は思わずのけぞる。苑美はそんな反応など気にも留めず、背伸びでぐっと近づくと、河音の目元を親指で強くこすった。
「な、なに?」
「これ。きらきら」
 目の前にかざされた親指の腹に、きらきらとなにかが光っている。アイメイクの、落としきれていないラメのようだった。
「洗ったのに……まだついてる?」
「うん。ごめん、さっきので広がっちゃった」
「ええー」
 あんまり悪びれていない声の苑美は、
「写真楽しみだねー。去年は二枚ぐらいしかなかったけど、今年はいっぱい買わなきゃね」
 と、嫌なことを思い出させる。行事ごとの写真は体育館前の廊下に張り出されて、番号を控えれば全校生徒誰でも注文することができる。不本意な目立ち方をした河音にとっては迷惑な話だ。
 これまでも定と一緒に見に行っては苑美の写真を買わなくていいのかとからかわれていたが、今年はさらにおまけができてしまった。そんな内心を苑美が思いやってくれることはなく、河音は本気で楽しみにしていそうな写真の件から話題をそらす。
「それより、炊飯器、せっかくもらったけど今日は前ので炊いてるのかな」
「先に持って帰ってもらったらよかったのにね」
「それはさすがに不自然だろ」
 楓生が賞品目的で河音を推薦したと言うにしても、炊飯器を熱烈に欲しがる女子高生というのがどこまで自然に受け入れられるのか。女子たちの遊びに巻き込まれたことにしておいたほうがよっぽど簡単だ。それに、炊飯器を持って帰ってもらっていたら、こんなふうに苑美と歩くこともなかった。距離の取り方が雑すぎて、時折ごつごつと膝に炊飯器の箱をぶつけられるけれど、それでも過ごせてよかったと思える時間だった、
「炊飯器は、柊のお米がきてからおろそう」
「それまでいまのがもつかなあ?」
「おかしかったのタイマーだけだし、大丈夫……だと思うけど」
「ならいっか!」
 苑美がひときわ大きく腕を振る。炊飯器がふたりの腕を強く引っ張る。河音は歩幅を広げてそれにあわせてやった。
 そんなふうに、どうでもいいことを話しながら歩いていると、なんだかたいへんだったけれど、それでも楽しい文化祭だったような気がしてきた。
「楽しかったねー」
「うん」
 苑美にそう言われた河音は、目元にピンクゴールドのラメが残っていることも忘れてうなずく。ふたりの間ではぶらぶらと、炊飯器が機嫌よく揺れ続けていた。


2017/6/12

おつかれさまでした。だいぶ二次創作ノリで楽しかった