アクルビ短編詰め合わせ
アクルビ短編詰め合わせ
アクアが、ルビィが世の中的にバカだと言われる部類だと気づいたのは、精霊の皆で成績を見せ合う習慣がしばらく続いてからのことだった。
グロウは、
「考えなしなくもあるけど、考えたち考えいだち変わらんがよ。バカなきね」
と手厳しく評するし、ゴッドも、
「ルビィのバカなんて可愛いもんだけどな。バカで迷惑かけてるわけじゃねーし」
とフォローだかなんだかよくわからないし、肉親のクルスでさえ、
「でも、バカな子ほど可愛いって、あれほんとうなんだよ」
と、兄バカ全開でニコニコしながらそんなことを言う始末。
世間知らずのアクアからすれば物知りだし、思いきりがいいだけかもしれないけど頼れるし、学校の成績が悪いのは魔界で育った影響がとても大きいだろうし――それにしては五人のなかでずば抜けて成績不振であることはさておき――、バカだと思ったことはない。
ないが、どうやらアクアの好きな女の子は誰に言わせてもバカなのだそうだ。
そしておバカなルビィの常套句は「天才!」である。
グロウが桂剥きを見せれば「天才料理人じゃん!」と褒め、ゴッドが宿題を教えてやれば「教え方うまっ! 天才!」とどこから目線で感心し、ユールが去年読んだという本の一節をさらりと暗唱したときは「ユールって実は天才かもしれない……」と真剣な顔でアクアに耳打ちをした。それにはアクアも頷いたものだ。
ただしこの天才、アクアにはほとんど与えられたことのない称号だ。
アクアがルビィに褒められる機会といえば魔法陣絡みが多く、いざ実践で使用するときのルビィはみんなの言うバカなルビィとは一味違うし、平時もアクアの魔法陣を見る目はちょっと他より厳しい。期待の表れであるのはわかっていてもちょっぴり寂しい。
と、その程度に思っていた。すこし前までは。
今は違う。今のアクアが思うことはひとつ。
「だから、ほら、ここをこう引っ張ってくれば同じ効果になるんだよ!」
「えーすごーい! 空也、てんさーい!」
「……っ、それは! おれが考えた構成だ! 横取りすんなっ!」
「でも試し書きで先に成功させたのは僕じゃない? 僕の才能の成果だよ?」
「じゃあ完成品だけ自慢しておけばいいだろ! 案はおれの! ルビィがバカだからって、適当な説明するなよ!」
「そりゃあたしバカだけど……アクアに言われると思わなかった」
ルビィはバカだし、天才って言葉の使いどころは全然間違ってる!
六時間目は校外から講師を呼んでの総合学習だった。地域で児童のための活動をしているというおじさんの話を聞くために、教室ふたつ分の広さのあるホールに学年の全員が集められる。
希望した保護者も一緒に講義を聞けるということで、一部の生徒は席が足りず、教室から自分の椅子を持ってきていた。
苑美もそのひとりで、いちばん小さい規格の椅子を抱えて河音の隣までやって来た。
「よいしょ」
隣いい? の一言もなく、高さの違う椅子をほとんどぴったり真横に並べられる。その距離に驚いた河音は、無意識にホール備え付けの椅子ごと体を引いた。
「邪魔だった?」
苑美が声を潜めて聞く。珍しく殊勝な物言いにどきりとして、河音は慌てて首を横に振った。
「ち、違うけど。椎羅たちのとこ行かなくていいのか?」
「遠いもーん」
苑美が親指でぞんざいに示す先には、何列も向こうでひとつのテーブルを分け合う椎羅と椎矢の姿があった。
「でもこれは近いよ、逆に」
言いながら、河音は拳もうひとつぶん椅子を引く。
「そっかな。でもアクアだけだよ」
平然と、あくまでなんでもないことのように放たれた言葉に、河音は目を見開いた。あ、と苑美も目を丸くして、
「しまった」
囁き声でこぼしたあと、すました顔で前を向いてしまう。河音はその横顔を数秒見つめて、見つめていることにはっと気づいて目をそらした。
頬が熱い。
そんなことがあったのがほんの数時間前だ。だというのに。
定と図書室に寄り道して帰ってきた河音を出迎えたのは、リビングのソファで本を読む柊と、その太ももに頭を預け、よだれまで垂らして寝こけている苑美だった。
「……だけってなんだよ」
思わずそんな言葉がくちをつく。柊は静かに顔をあげて、
「おかえり」
ズボンによだれを染み込ませられながら、とてもそんなことは感じさせない態度で言う。河音はなんとも言えない表情のまま、なんとか返す。
「……ただいま」
廊下に出ると、洗面所のドアが開いていた。暗い空間にドア一枚分だけ、蛍光灯の光が差し込んでいる。
水を使う音の向こうに聞き覚えのあるメロディをとらえて、アクアはふと足をとめた。ルビィだ。てっきりグロウが洗濯の準備でもしているのかと思っていた。
ところどころ鼻歌で歌詞を飛ばしながらルビィが歌っているのは、どうやら水曜日にやっているドラマの主題歌のようだ。アクアはちゃんと見たことはないが、椎羅と椎矢の好きな俳優が出ているとかで、ルビィとグロウは毎週見ている。
「教えて~、ちゃん、ちゃららー、」
鼻歌の音量がわずかに大きくなる。その先はアクアもなんとなく覚えてしまっているサビだ。
「あなたはー覚えーてないでしょう、初めての夜のこーとー、わたしもう気づいてた、これが最後だあってー、髪のー匂い、指のおーんど、忘れないよーうにー」
ラブソングの似合わない、さっぱりした声が悲恋を歌う。原曲にあった切ない雰囲気はどこにもない。けれど歌手の情感に満ちた歌い方より、歌詞は聞き取りやすかった。こんなに大胆な歌詞だとは知らなかった。
聞いてはいけないものを聞いているような気がして、アクアは早く部屋へ引き上げようと思った。けれどなぜか名残惜しく、足は動かない。
「心ーにも、体ーにも、焼きつけたくーてー、……」
と、突然歌が止まった。数秒水の音だけが流れ、
「焼きつけたくーてー、ちゃらちゃっちゃーちゃらちゃらちゃんちゃちゃーん、英語のテストはーんい、どこだーあたっけなー、ふーん、ふーん、ふーん」
なぜかまったく別の歌になって終わった。
アクアがあっけに取られていると、水道の音が止まり、ルビィが廊下に出てきた。手には上履きを提げている。
「あれ、いたの?」
「えっと、あの、うん」
立ち聞きがバレたかと焦るが、ルビィは気にする様子もなく、
「アクアわかる?」
「な、なにが?」
「範囲。テストの」
「英語なら、二十六ページから四十一ページだけど……」
まさか歌って答えなくてはいけないのかと思ったが、そんなことはないらしい。ルビィは洗いたての上履きをひょいと上げて、ありがと! と言うと、
「にっじゅーうー、ろっくページ~」
今度はCMソングのメロディで歌いながらリビングへと去っていった。
なんだか微妙な気持ちで、アクアは電気をつけっぱなしにされている洗面所を眺めた。そして、本来の用事を思い出して階段を上がった。
「手だけでいいよ」
と言って、ルビィが手繰るようにアクアの手を引いた。子供のように丸い指先が、アクアの乾いた指先を握って、反対の手が手首をそっと包む。その手のひらは湿ったように柔らかく、温かい。
引き寄せられて、アクアの手はルビィの頬に触れた。細い血管の見える頬は、しっとりとして表面だけ冷たい。丸い目をいまは閉じて、どこか笑いだしそうな雰囲気のルビィは、ほんとうに、どこもかしこも幼い。
所長に「老けていくのは手ばかりか」とからかわれたアクアの手は、あちこちタコが出来て無惨に乾燥し、爪のかたちまで不揃いだ。血豆だか瘡蓋だかよくわからない逆剥けの痕に、また新たな逆剥けが差し掛かろうとしている。
「ルサ・イルの手だねえ」
とルビィが言う。捉え方が大きいな、とアクアは思う。
アクアにとって魔法陣を書くのは、究極的には点だ。陣書きを詰るのに、手にしか価値がないというような言い回しが使われることもあるが、それさえアクアには雑な把握のように感じられる。
魔法陣は線で出来ている。線とは軌跡だ。軌跡をえがくのは点だ。指先、正確には魔力的な負荷をかけ続けている一点。ルビィのために書くとき、アクアのすべてはただその一点のみにある。体も、腕も、手も指も、その点を運ぶための道具でしかない。
す、と、アクアは目尻にあった人差し指の先を浮かせた。点を運ぶときの動きで、ルビィの閉じた瞼のうえに触れる。
「なあに」
笑みを含んだ声に、「うん」となんの意味もないいらえをして、瞼越しに触れても感じることのできないものを思う。
ルビィの、らんとした目の輝き。アクアがただの点であるように、あの赤だけがルビィなのではないかと思うことがある。ちいさな手でも、柔らかな頬でも、痩せた体でもなく、あの赤だけが。
「アクアになら何されてもいいよ」
春の夜だった。低く大きな月の出た砂漠にそれらしい季節感はなく、ルビィの言葉にはなんの脈絡もなかった。
アクアが小さい頃、フィーと暮らした家の屋根に上っていたことを聞いて、真似をしたがったルビィはアクアが訪ねるとしばしば屋根の上に誘った。ルビィの家の屋根は、石造りでほとんど平らで、窓を足掛かりにしないと滑り落ちてしまう三角屋根で鍛えたアクアには、わざわざ上る面白みなんてまったくない。ルビィが誘うことだけがここまで上ってくる理由だった。
日中はルビィに勝るとも劣らぬ風が吹いていたが、夜は静かだ。月ははちみつ漬けの金柑のように濃く、星はその黄金の光に追いやられて姿を消している。いちめんの砂漠は真っ白に光を返して、ルビィの赤い瞳を無防備に見せていた。
ルビィの使いこなす無防備は、十数年の経験に裏打ちされた確かさでもって、アクアを射抜いた。
明るい夜空を眺めてぽつぽつと、実のあることもないこともない交ぜにして、今日アクアが用意してきた新作魔法陣の感想戦を述べていた、その途切れ目。探した言葉がうまく見つからなくてうまれた数秒の空白に、ルビィはアクアの視線をしっかりと捕らえて先の台詞を吐いたのだ。
何されてもいいよ。甘い響きがぬるま湯のように胸を満たす。けれどアクアには、それが雰囲気に飲まれての睦言ではないとはっきりわかっていた。
思いきった様子も、切羽詰まった気配もなく、ルビィはただ真剣だった。アクアはその力強さと途方もなさに、ただ戸惑う。
ルビィに正面向かって、好きだ、と言ったのはもう去年のことだ。ルビィはそれを受け止めた。それだけだった。めまいがするほど何にも変わらなかった。
ルビィはそのとき「あたしも好きだよ」と言ってはくれたが、思えばルビィに好きだと言ってもらうのはそれが初めてではなかった。
変わらないはずだ。ルビィはアクアの気持ちに関わらず、アクアのことを好きでいてくれた。その信頼はすでにほとんど全幅のもので、いまさらアクアが好きだと言おうが言うまいが関係ないのだ。
「……そうなの?」
「うん」
無言の時間に耐えかねただけの問いにためらいもなく答える声は、甘く、軽く、心地よい。いつまでも少女の響きだ。
こんなふうに、何されてもいいよなんて言われて、その無防備につけこむ方法がどれだけあるか、きっとルビィのほうがアクアよりずっとよく知っている。受け入れがたいであろう選択肢のいくつかは、アクアでさえ考えつくものだ。
なのに、
「いいよ」
そう言って細くわらう、その自信。ルビィには自信があるのだ。
何されてもいいよって言っても、アクアはルビィの意に染まないことはしない。それはアクアの好意や良心への信頼であり、自分がアクアにとってそれだけの存在であるという自信だ。ルビィという意思が、アクアにとって到底無視できないものであるという自信。
それを見せつけられて、噛み締める。何もかもを許されても、アクアはルビィの望むほうを選んでしまうのだろう。いつか、引き返せない岐路に立つときも、きっと。
すがるように伸ばした手に、ルビィは誉められるのを待っていた子供のように頬を寄せた。予期せぬ感触にはっとするうちに、頬は離れ小さな両手が手のひらを包む。何度怪我をしても、治りの良さのおかげでルビィの手は柔らかかった。その手が、荒れていく一方のアクアの手を引く。
「行こっか」
立ち上がったルビィの背後へ、精霊服のマントがぶわりと広がった。月光が遮られておおきな影ができる。その逆光のなかでルビィが屈むのが、アクアにはまともに視認できず、気づいたときには唇に吐息となにかが触れて離れていくところだった。魔力は通わない。力移しじゃない。認識の順番がおかしいとは自分でも思うが、こうなったのはルビィのせいだ。
「今日はおしまい、続きは明日。週末までに実用化して空也に自慢しよ!」
「ま、待って」
屋根のふちへ危なげなく駆けていく背中はマントが垂れ下がってしまえばあまりに小さく、アクアは慌てて立ち上がる。
一瞬、くらりときた。見上げると月はいつの間にかその光を白く強めて、夜の高みへと昇っていた。