年上組の概念 ゴッド視点一人称
年上組の概念 ゴッド視点一人称
俺の目の前をユールが歩いていた。
黒い精霊服の姿勢よく伸びた小さな背中が、ほとんどぶれずに進んでいく。俺は距離を変えずにその数歩あとをついて歩く。静止画のような視界だ。まっしろな背景に黒髪と精霊服のシルエットがくっきりと浮いている。
白い世界はぼんやりと明るいが眩しいほどではなく、足元に影らしい影は落ちていない。地面は滑らかすぎず、強い抵抗もなく、うっすらと足音が聞こえるだけの世界はどこまでも低刺激で平坦だった。
ユールは振り向かない。まっすぐ歩いていく。
行く手には壁があった。俺の身長より高い、ドアのような大きさの壁。その前へたどり着いたユールは、ふっ、と右に折れた。俺もそれにならって右へ曲がる。
十数歩ほど先に壁があった。
「…………」
ユールはそこへ向かってまっすぐ進み、壁の前で右に曲がった。
俺は壁の前で立ち止まった。大きさもドアぐらいだが、横から覗くと厚みもその程度だった。簡単に回り込める。裏も表となにも変わらない。模様も装飾もなにもない、ただの壁だ。ユールの規則的な足音が遠くなる。
とりあえず、ユールを追いかけた。
ユールの行く先にはまた壁があり、ユールはその手前で右に曲がる。俺はその背を追って歩きながら辺りを見回した。
壁は四枚あった。正方形の角を作る辺の、片方だけが残っているかたちだ。ユールがぶつかるごとに右へ折れることで、俺たちの軌跡はぐるぐると正方形を書き続けている。
よそ見をして歩調を緩めると、同じペースで歩き続けるユールにはすぐ置いて行かれてしまう。駆け足で追いかけながら細い背中に声を掛ける。
「ユール」
ユールは振り向かなかった。なんだ、とも問わない。ただぴたりと立ち止まる。
……違和感。
俺は少し考えてくちを開いた。
「壁にぶつかるたび同じ方向に曲がってても、同じとこぐるぐるするだけだろ」
言葉を切って待ってみる。反応はない。
数秒、躊躇った。こんな言い方をするには多少の思い切りと気休め程度の罪滅ぼしを要した。
「あー、……あとで俺も一個言うこと聞くから、右に曲がったあとは左に曲がれ」
「わかった」
こんなに受け身なユールにこんなにはっきりと命令めいたことを言うのはいつぶりだろう。必要以上に具体的な命令をユールは忠実に守って、次の次の壁で左に曲がった。
壁はそのあとも何度か現れた。ユールは右折と左折を淡々と繰り返した。あとに続く俺も同じように、右折、左折、右折、と単調な道をたどる。
やがて行く先に扉が見えた。今度はドアみたいではなく、ちゃんとドアノブもついた扉だ。それが二枚並んでいる。
ユールは扉の前で足を揃えて立ち止まると、案の定そのまま固まった。考えるまでもない、どちらを選ぶべきか分からないのだ。
このドアも、行き止まりの壁に貼りついている訳でもなく、回り込んで無視してしまえばそれまでのようだが、きっとそれではダメなんだろう。
「試しに両方開けてみろよ」
停止したユールの隣に並んで言うと、ユールはさっきまでの固まりっぷりが嘘のようにさっと右手を出して、右の扉、左の扉の順に開けた。
扉の向こうは、右が真っ暗、左は相変わらずの真っ白。
人間心理的に、もはや選択肢はひとつに搾られた。が、
「両方探検してみるか」
何の気なしに言った一言を聞くなり、ユールが右の暗闇に踏み込んだ。
ずぶ、と音がしてもおかしくないほど確かな質感をもって、真っ暗闇がユールの右足を包む。
「ユール!」
とっさに腕を掴んで叫んでいた。まっしろな横顔が闇に飲まれる寸前で、振り返る。青い輝きが俺を見る。一文字に結ばれた薄い唇はなにも言わない。
「……こっちにしとこうぜ」
「わかった」
答えたユールはあっさりと闇を抜け出し、再びのまっしろな世界へ歩き出す。
初めて目が合ったな、と思った。
ドアからまたもまっすぐ歩いて行くと、次に現れたのは階段だった。幅は校舎の階段より広く、柵や手すりはないが二人並んで歩いても問題ない。だがユールはど真ん中を一人で上り始めた。俺はまた数段後ろを行く。
これだけ離れれば、さすがにユールも見上げる高さになった。視線の先で、不揃いな髪の束がふらふらと揺れている。その横から階段の先を覗いてみたが、果ては見えなかった。
とっ、とっ、とっ、と軽い足音を連れて、ユールは階段を上っていく。ふらり、ふらり、と髪の毛が揺れる。揺れは次第に不規則に、大きくなった。
「ユール」
「なんだ」
「休憩しねえ?」
「しない」
「……そうかよ」
もうだいぶ上ってきた。来た道を振り返ると、白いばかりの景色も相まって最初に立っていた地面がどこかも分からないほどだ。
ふと、ユールの呼吸の音が聞こえた。こんなに静かな世界にいてさえ、ここまで音として感じられなかったのに。
「ユール?」
数歩駆け上がって様子をうかがう。ユールは同じペースを保って歩きながら息を切らしていた。顔色はいいのか悪いのか判別できない。重たそうな睫毛の下から、意外に鋭い視線が上だけを見つめている。
「大丈夫か?」
「ああ」
「無理すんな、休めよ」
「、わかった」
ユールはくるりと踵を返すと、そのまますとんと座りこんだ。いきなりすぎる。けれど休めと言った手前もあって俺も隣に座った。いつもより強い息の音が、何度か繰り返すうちに落ち着いていく。足下を見ると、白く明るかった世界が遠くの方から暗く暮れ始めていた。
「ここで明かせってことか?」
ユールから返事はなく、肩に頭がもたれてくる感触だけが返ってきた。
瞼の向こうの明るさで目が覚めた。俺が顔を上げた動きでユールも起き出し、吊り上げられるようにすうっと立ち上がる。すぐには歩き出さないユールの真横に立って、ふと気づく。
「お前、背ぇ伸びた?」
「わからない」
「まあいいか」
今度は自然と並んだまま歩き出す。果てが見えなかったのが嘘のように、間もなく階段は終わり、何事もなかったかのように平坦な世界が広がった。
そのうち、小さな段差が現れた。
「足下気をつけろよ」
「ああ」
ふたり並んで踏み越える。
しばらく行くとまた段差があって、越える。幅に限りのあった階段と違って、段差は見える限り左右どこまでも続いている。回り込むことはできない。
段差は、現れるごとに徐々に高さを増していった。
躓きそうな高さから、普通の階段ほどになり、階段としては急な部類になり、ユールの膝を越す高さになる。俺の膝も通り越し、歩くのと同じテンポでは乗り越えられなくなってくる。
「これ何段目か数えてるか?」
「十八段目だ」
すぐにユールは膝で乗り上げなくてはならなくなった。そうこうしているうちに上半身で乗り上げるようになり、その先は腕だけになる。俺は先に上がってユールに手を貸してやった。ユールは体力はなくても体の使い方は上手く、軽いから引き上げるのも簡単だった。
そのやり方でいくつか越えていくうちに、もはや段差は崖と呼ぶべきものになっていた。先に上がってやろうと崖の縁に手を掛けたとき、これはユールには届かないなと悟った。崖下に一旦戻る。
「ユール」
「なんだ」
「お前じゃ届かない。持ち上げるから先に上がってくれ」
「わかった」
頷いたユールの脇に手を差し入れて持ち上げる。ユールが崖の端っこへ手を伸ばし、肘の辺りまでが乗り上げた。しっかりしがみついたのを確かめて押し上げ、上りきるまで支えた。
一度崖の上に姿を消したユールが、膝をついたまま顔を出した。長い髪がカーテンのように無表情を囲んでいる。まっすぐな唇が開き、まっすぐな声が言う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
俺はいつもの決まり文句で返し、助走をつけて崖に飛びついた。
脇から持ち上げてもユールの手が崖まで届かなくなってきた。腰から抱え上げる方法に切り替え、なんとかやり過ごす。くたびれた頃にまた背後から暗がりが迫り、抗う術もないので崖の下で休む。
「この調子だと最後は肩車だな」
「どういうことだ」
「俺が肩車して立って、ユールはそこからバランス取りながら肩の上に立つ」
「おまえはどうするんだ」
「え?」
無駄話をしているうちに次の崖にたどり着く。なかなかの高さだ。
「まだ肩車ほどじゃないな」
「ああ」
俺から言うまでもなく崖の前で持ち上げ待ちのユールを、腿のあたりに腕を回して持ち上げる。ユールが身体を伸ばす気配がして腕にかかる重みが弱くなる。尻を押し上げ、足を支え、なんとかよじ上らさせた。
ふう、と息をついて見上げると、ユールは崖っぷちに立ってこちらを見下ろしていた。
太陽もなにもないけれど、白い顔が真っ黒な髪に囲まれて逆光になっていた。深い青の双眸がみずみずしい光を湛えて眩しい。自分で自分のことを見ることはできないから、このまっしろな世界で色があるのはそこだけに思えた。
「ユール」
首を仰いで声を出すと妙にしんどかった。それだけ崖は高くて、俺一人では上れそうもなかった。
潮時、という言葉が脳裏に浮かぶ。なんの抵抗もなく今がそのときなのだろうと思えた。手を離すべきときがきたのだ。
「行けよ」
促す言葉にユールは応えない。ただ見下ろしてくる瞳が眩しくて、額に手をかざす。
「行かなきゃいけないんだろ、なあ」
ユール、と、呼びかけようとして先手を打たれた。
「ゴッド」
細い体がすいとしゃがむ。髪を揺らしてひざまづく。まっすぐに手が伸びてくる。
「来い」
「気持ちはありがたいけど、無理だろ」
「無理じゃない。来い」
「……いいよ。行きたいのは山々だけど、お前にケガさせたら悪いし」
「あとで一個言うことを聞くと言った」
崖から遠ざかろうとしていた足が止まった。そんなに前のこと、よく覚えてたな。お前そういうのほんと得意だよな。
「おれは、おまえを置いていくつもりはない」
抑揚のない声が、それでもはっきりと、凜と響く。
「ゴッド」
そんなふうに呼ばれたら、応えないわけにはいかなかった。でも、
「待てよ。ちょっと、心の準備」
急に脚のちからが抜けた。顔もまともに上げられない。どれだけ歩いてユールを抱えても疲れなかったのになんで。万が一にもユールを引きずり下ろすことなどあってはならないのに、こんなんじゃ崖登りなんてできそうもない。
つかれた、か。そうか、疲れもするはずだ。
どれだけ歩いてきただろう。ユールが俺に手を差し伸べるまでの道のりは、どれほどだったろう。
壁にぶつかったら右に曲がるという単純極まりないルールは、間違ってはいないが次の場所への道しるべにはならない。俺の与えた右の次は左というルールも結局は同じことだ。選ばれるのを待っているドアの前ではなんの意味もない。
ユールは選ぶということができなかった。俺が勝手に選んだ道は、俺なりに正しいと思える根拠はあったが、もう一方を確かめてもいないのにこれがユールの最善だと言い切ることは出来ない。ユールはまだ、立ち止まるべきときすら判断できなかったのだ。ゆっくり考えて解決することでもない。ユールの代わりに選んだことに、俺は責任を持つ。
だからユールが躓かないように、進めなくなってしまわないように、そばについて、手を貸して、いつか自分だけのちからでなんでもできるようにと一緒に歩いてきた。かたちばかりの導きかも知れないと思いながらもずっと。
ユールと俺は、堂々巡りをして、選び方すら迷って、先の見えない道を休み休み、一緒にここまでやってきた。ユールはその全部を糧にして、進んで、上って、どこに行けばいいか分からないながらもまだ先を目指している。その先に、俺を伴おうとしてくれている。
こういうのを、報われたって言うんだろうか。
気を取り直して崖の上を見上げる。ユールの手は俺を待っている。助走のための距離を取って、一応申告しておいた。
「なあユール、これ一回じゃ無理かも」
「わかった」
なにがわかったんだか。結局、二回失敗して三度目でなんとかよじ上った。ユールの腕が抜けなくて本当によかった。
崖の上には道がついていた。まっしろな道。あれだけ白々としていた世界はこれまでを取り返そうとするかのように黒一色に染まり、遙か先へと続く道はそのなかへ消えていく。
「行くか」
「そうだな」
並んで歩いて、ちょうどぶつかることはみ出すこともない道を行く。道はずっと続いている。途中で振り返ってみたが、あの白い世界はどこにもなかった。
「ユールはさあ、どこに向かってるか分かってんの?」
「分からない」
「じゃあどこ行きたい……とかはねえな」
「ああ」
「そこでそんなしっかり頷かなくていいんだよ」
これまでの平らで滑らかな地面と違って、道はそれらしくでこぼこしたり、おおむねまっすぐではあるが微妙に蛇行して左右にぶれたりしていた。
「なんかますます暗くなってねえ?」
「そうか。おれにはわからない」
「じゃあ気のせいか。俺が気づいてお前が気づかないわけないだろ」
暗さは変わりないようだが、次第に道幅が狭くなってきた。横並びでは通れなくなり、ユールに前を歩かせる。
お互い歩くペースは一定だが、歩幅が全然違うから、二つの規則的な足音はずっとずれたまま響いている。
やがてユールが足を留めた。四つ角だった。
右の道も、左の道も、闇のなかへ吸い込まれるように先が見通せない。振り返った道も同様で、きっと来た道のように果てしなく歩いて行けるのだと思う。
正面の道は明るかった。ユールの頭の向こうに、この世界のすべての光を発しているようなしろい輝きがあった。やはりこの道も、眩しすぎて先は見えない。
ユールが振り返る。逆光の中から青いひかりが俺を見つめる。そして、
「どちらへ行けば良い。おれはどこを目指せば良い」
この期に及んで、そんな問い。まだ選べないのかよ。お前はどっちに行きたいんだよ。自分で選ばなきゃ意味ないだろ。
なんて、俺は言わない。ユールはそんなことを言うべき相手ではない。
すべての道を見回す。きっとすべての道の先に可能性がある。どれを選んでも、ユールはちゃんと歩き続ける。
でも、ここまでユールと歩いてきた俺に、選択肢はひとつしかない。
「明るい方だろ」
お前が行くなら絶対そうだ。俺は正面の道を指差した。
ユールが半身で振り返り、横顔に光を浴びる。表情のない頬の輪郭がくっきりと浮かび上がる。俺はその背中を押す。
「行こうぜ」
「ああ」
並んで歩き出す。道はすこし、上り坂になっているようだった。
年上組はこういうことなんですという話
ユールの成長に貢献したひとたちはみんな報われてほしい