社会科準備室

モブクラスメイト男子視点一人称 苑美の話 高一


 竹井先生は世界史の先生であると同時にうちの担任でもある。小学校で使ってた算数セットみたいなカラフルな磁石で勢力図を作るのと、しゃべるのがとにかく早いのが特徴のおばさん先生だ。早口なだけではなく、なにをやってもテキパキしている。カットできるものは総カット。なので、チャイムが鳴ったあとはほとんど切り替えなくホームルームが始まる。
 そのホームルームも、
「はい、じゃ、今日の掃除は一班三班五班。よろしくお願いしますね、終わりです」
 こんな調子で始まったかと思えば終わる。俺はその気楽さが性に合って好きだった。先週末の席替えで最前列になってしまったけど、それほど最悪な気分でないのは先生のおかげかもしれない。
 けど、今日は終わりの挨拶に続きがあった。
「ちょっと、林くん天花さん」
 リュックを背負おうとしたところを呼び止められる。隣の席の天花も一緒だ。
「これ資料室に戻しておいてくれない? 鍵は開いてるわ。適当な時間に閉めに行くからそれまでに。よろしくお願いしますね」
 そう言うと、先生は教卓に磁石の詰め合わせを残してさっさと教室を出て行ってしまう。えー、めんどくせー。
 天花を見ると、積み上げられた箱と紙袋から俺へと視線を移して、
「資料室ってどこ?」
 いまさらかよ、というボケをかましてきた。

 社会科資料室は四階の予備教室の隣にある。高三の教室からも少し離れているし、真横に理科の先生だけの職員室がある理科準備室と違って、社会の先生は普通に大職員室にいるからいつも静かだ。
 古い引き戸を開けると、かすかに埃っぽい臭いが広がった、図書室と似ているようで違う、古い本の臭いだ。紙袋を提げた天花が「おおー」と声を上げる。先に室内へ入ってきょろきょろしているのを見ると、ほんとに資料室は来たことがなかったようだ。
「竹井先生のおつかい初めて?」
「うん。そっちは?」
「何回か。中三ときも担任だったから。あの先生けっこう多いんだよ、おつかい」
「へえ」
 天花は本棚と机でできた狭い通路をどんどん奥まで進んでいく。戸口から見えなくなってから、
「で、どこ仕舞うの?」
 と声を張って聞いてきた。俺はドアを閉めて電気のスイッチを……探すのに時間がかかりそうだったからやめた。カーテンは閉まっているけど薄く、ちょうど日の当たる時間で室内を動き回るのに不便はない。
「そこ左。開いてる棚ない?」
 去年の記憶を引き出しながら窓際まで行って、通路の角を回ろうとしたところへちょうど天花が顔を出した。思いの外近い距離で丸い目が一回りおおきくなる。あっ、と小さな声が聞こえた。
「うわっ!」
 ぶつかる、と思って咄嗟に後退した足が段ボールの箱にぶつかる。箱から突き出していた地図かなにかを丸めた紙をぐしゃりとやりそうになって身をよじると、その勢いで積み上げていた磁石セットが滑り落ちた。
 かしゃーん! からからから、と、軽い音がいくつも響く。
「やべっ!」
「あちゃー」
 俺と天花は慌てて床に膝をつき、散らばった磁石を拾い集めた。ほとんどは見える範囲に転がってたからかき集めて、遠くまで転がっていったものをそれぞれに探す。
「にーしーろーはーと、よし、赤全部ある。そっちなに持ってる?」
「緑とー、黒二個。あっ、黄色これで全部じゃない?」
 箱の隙間に天花がいくつか握っていた磁石を埋めていく。俺は並んだ磁石を色ごとに数え直していく。
 自分で落っことしてしまった責任感からか、普段そんなに話すこともない女子と暗がりで頭を突き合わせている状況に緊張していたのか、俺は手元に集中しすぎていたらしい。その異変にはまったく気づかなかった。
「……あれ?」
 急に天花が顔を上げた。どうした? と言うより早く立ち上がられ、スカートのなかを覗いてしまいそうになってそっと視線を逸らす。
 細い足首が視界を外れて、戸口のほうへと歩いて行く。揺れるスカートの裾が角を曲がって見えなくなり、間もなくがたがたと引き戸を揺する音がした。
「あー、やっぱり」
 そんな言葉とともに戸を揺するのをやめて天花が戻ってくる。めんどくさい宿題が出たみたいな、困ったようなだるそうな表情だ。
「なに?」
「あは。鍵かけられちゃった」
 なぜか天花は照れたように笑って頭を掻いている。だが内容は笑い事ではない。
「えっ? えーっ? 鍵ぃ!?」
 出口へ駆けていって戸を引くと、がたがたと鳴るだけで開かない。わずかな隙間から、戸と枠に取り付けられた金具を南京錠ががっちり押さえているのが見えた。
「マジかよ……せんせー! おーい! 竹井せんせーい!」
 返事はない。耳を澄ましても、ほかの生徒や先生が近くにいる気配もない。
 適当に鍵を閉めるとは言ってたけど、まさかなかに誰かいないか確認もしないとは思わなかった。先生、そんなとこまでショートカットかよ。
「マジだねー」
 この衝撃的な事実を最初に確認した天花は、全然堪えていないみたいに磁石セットのもとへ戻り、箱を閉めると棚を見回して、
「で、これどこに入れとけばいいの?」
「……その上、スペース空いてるとこ」
 あまりに普通に聞かれたから、俺も普通に返事をしてしまった。なんだよ、困ってたんじゃないのかよ。
「つーかどうすんだよ。ここ、教室も階段も遠いし、絶対誰も通らねえよ」
「誰か呼ぶとか。ケイタイ持ってないの?」
「教室。鞄なか。いちおう聞くけど天花は?」
「あたしそもそもケイタイ持ってないもん」
 天花は開き直るみたいに両手をひらひらとやる。先に聞いてきたってことはないってことだろうとは思ったけど、返事は予想の斜め上だった。そして天花はさらに予想外の行動に出た。
「そうだ、窓は内側から鍵かけるよね」
 そんなことを言って窓を開け、スカートがめくれるのも構わず片足を窓枠に掛ける。地上で浴びるより強い風が吹き込んで、短い髪とセーラー服の襟がはためく。
「おいっ、それはやばいって! ここ四階! 死ぬ気か!?」
 俺は肩を掴んで必死に止めた。その手応えがあまりに軽く、勢いで吹っ飛んでいきそうでビビったけど、天花はきょとんとした顔でサッシを踏んでいた上履きをおとなしく床に下ろし、じっと俺の目を見た。なに、なんだよ、からかってんのか?
 動揺した分、天花の落ち着き方にいらっとしてしまうが、天花はやっぱりこっちが拍子抜けするようなトーンで、
「そっか。窓はダメかー」
 当たり前のことをさもいま気づいたかのように言う。
「ダメに決まってんだろ……天花ってバカなの?」
「えへへー、よく言われるー。じゃあ誰か知ってるひとが通りかかったら声かけるってことで」
 天花は開けた窓の隣にもたれかかって外を眺め始めた。
 なんだこいつ、疲れるな。天花って、クラスでは別に目立つ方でもないし、成績良くないのはなんとなく知ってたけど、こんなにへんなヤツだったのか。
「知ってるヤツって言っても、こっち通りそうなのっている?」
 窓は中学の駐輪場と裏門のほうにある。知り合いが通りがかる可能性は低い。俺の後輩は残念ながら部活だ。ていうか俺も部活行きてーよ。
 そうだ、俺が部活に行かないと、誰かがそのことを不審に思うはずだ。メール送ったり電話かけたりしても俺は出られない。荷物が教室にあるのが分かったら、残ってるやつに聞いたり担任に聞きに行ったりしてくれるだろう。竹井先生は高三の添削もやってるからいつも帰りが遅い。そこまでたどり着けば確実に俺たちの居場所はわかる。よし、これしかない。
 俺は期待のできない窓ではなく、ちょうどいい高さの机に腰掛けて逆光の天花を見やった。茶色い髪の毛は黒髪より多くの光を通していて、輪郭が少し小さく見える。
「通りそうなのはー、あー、河音とかどうかなあ。商店街行くならこっちでしょ」
「カオンて、早瀬? だっけ、E組の」
「そう、早瀬。早瀬河音」
 なぜだか天花はちょっとおかしそうに同級生の名前を繰り返した。
 中学の頃から、天花と早瀬が一緒に帰ってるのは見かけている。どっちも部活はしてないっぽく、塾が一緒という話も聞かないけど、だいたい同じ面子でつるんでるようで仲は良いみたいだ。
「早瀬って家あっちなの?」
「ううん。えーと、こっちがあっちだったら……あれ、ちょっと方角わかんないや。ごめーん」
「いいよ。つか家知ってんの? 商店街のほうってなんかある? あそこ本屋も漫画置いてないし、遊ぶとこないだろ」
「スーパーあるよ。ちっさいけど。今日火曜だから、なんだっけ、なんかが安いんだよね」
 一個目の質問はスルーされた。けど、天花がスーパー情報を語っているのはなんか意外だ。
「天花って、家の買い物とか行くの?」
「行くよ。うち当番制だから。まああたし料理しないから、買い物リストもらわないと買い物できないんだけど」
「へー、すげーじゃん。俺かーさんがどのスーパー行ってるかも知らないし」
「そうかなあ」
 けっこう本気で尊敬したんだけど、天花の返事は素っ気なかった。このままだと会話が途切れてしまう。それはどうも気まずいので、俺は流されてしまった質問を蒸し返す。
「早瀬の家は? 知ってんの?」
 ぱっ、と、窓の外へと向かいかけていた目が俺を射貫いた。天花は上半身を窓に預け、午後の日差しを背負って顎を引き、上目遣いに俺を見ている。けど、その眼差しには俺が持ってる上目遣いというもののイメージからはかけ離れた迫力があった。
「……林は河音と話したことあるの?」
 ゆっくり、確実に言葉を選んでいるとわかるテンポで問われる。俺は天花の豹変についていけず、とりあえず正直に答えるしかない。
「あるけど、ちょっとな。去年はクラス一緒だったし。隣の席になったことはないけど」
「ふーん。じゃ、ナイショ」
「はあ?」
 こてん、と子供がやるみたいに首を傾けて露骨にはぐらかされた。
「なんか隠してるだろ。……あ」
 自分で言ってみてから思い出す。天花と早瀬は付き合ってるとか付き合ってないとかの噂があった。女子がマジになるとしたらそれしかない。
 女テニに噂好きの井上がいるから、俺のところはかなりそういう情報が入ってくる。現時点ではどうも付き合ってはないということになっているが、なにかあったのだろうか。
「別に誰にも言わないからさー、なあ、天花っていま早瀬とどうなってんの? こんなとこ閉じ込められたよしみで教えてくれよ」
 身を乗り出すと、天花は腕を組んでうーんと唸り、妙な答えを寄越した。
「どうって言われても、普通だよ」
「ただの友達ってこと?」
「友達……は椎羅とか椎矢のことでしょ。なんかさー、あたしそういう質問のぬ、にゅ、ニュアンス? っていうのがわかんないんだよね。だからあたしに聞いても無駄だと思うよ」
 うんうん、と勝手に頷いて納得されてしまう。女子があの子は変わってると言ってるのは聞いてたけど、おお、なるほどこういうことか、と俺も納得してしまった。でも早瀬が天花を好きらしいという噂は井上だけじゃなく丸山も言ってたやつだからガチだ。地味な印象しかないけど、実は早瀬もめちゃくちゃ変わってんのかな。
 ふいに風が強くなって、思い出したように天花が窓へ向き直る。
「誰か通りそうか?」
「河音はダメかも。昨日だったらいけたんだけどね」
 やっぱなんかあるだろ絶対。と思ったけど、またはぐらかされてもむかつくからなにも突っ込まないでおいた。
 俺もそろそろ本気で誰かを呼び止めなければならない。天花に並ぶと、隣でアホ毛を跳ねさせている頭は思った以上に低い位置にあった。
 その天花が、急に俺の肩をぐいと押した。抱きつかれたかと勘違いするほどの勢いにぎょっとする。天花は気にも留めず、開いた窓から顔を出して体格に見合わない大声で叫ぶ。
「ひーーーらぎーーーー!」
 知らない名前は誰を呼んでいるのか。駐輪場にも裏門にもひとけはない。天花の目はもっと先を見ていた。敷地を囲む塀の外、角の信号のところに学ラン姿らしき人影がある。この距離は無理だろ。
「ちっ、さすがに無理か」
 天花も同じことを考えたようで、だがその続きまでは俺には理解できなかった。
「どいて」
「へっ?」
 対して長くない腕が視界を横切り、窓枠を掴む。再び上履きがサッシを踏みしめた。
「それやべーつったじゃん!」
 背筋がぞっとして声を荒らげてしまうが、天花は聞く耳を持たず、両手で窓枠の左右をしっかりと握ると上半身を完全に外へ出してしまう。そして、めいっぱいに息を吸い込むと、
「ひーらぎーーーーーっ! こっち見ろーーーーー!!」
 叫んだ。同時に風が急激に強さを増し、壁に跳ね返ったのか外へ向いて吹き抜けていった。スカートが思いっきりめくれて、今度こそ中身が見えてしまう。体操服ぐらい丈のある黒いスパッツだった。セーフ、か?
「よし」
 やり切った顔で天花が窓を離れる。び、びびった……マジで飛び出しやしないかと思った。
「なあ、誰あのひと。聞こえたって?」
「柊。これでそのうち誰か来てくれるよ」
 ふふんと満足げに鼻を鳴らす姿はちょっと小学生っぽい。なんか、天花には謎の自信があるんだよな。バカってよく言われるらしいし、頼りになるキャラでもないのに、なにを根拠にしてるのかは分からない。ただ、風を受ける横顔は奇妙に堂々として見えた。
 今日はもうここから出られそうだし、それほどピンチにならずに済んだ。けど、たとえばこのままどんどん日が暮れて、真っ暗になっても社会科資料室を出られないかもしれないとなったら、もしかしたら俺は天花に助けを求めてしまうかもしれない。そう思わせるなにかが天花にはあった。実際、ひとが来てくれるのも天花のおかげなんだし。
 そこまで思い至って、お礼を言ってないことに気づいた。
「天花、ありがとうな」
「なにが?」
「助け呼んでくれたじゃん」
「あー。どういたしまして?」
 しゃべらせるとこれだ。こっちの話を聞いているんだかいないんだか分からない。そして結局、声を掛けたひとが何年かも教えてもらっていないのだった。

 五分も待っただろうか。日の傾きが変わらないうちに先生がやってきて、俺たちは埃臭い資料室から解放された。天花が呼んだのは高三の先輩だと聞いたが、先生と一緒に現れたのは同じクラスの夏越で、二人は連れだって帰っていった。
 俺は荷物を回収して部活へ向かう。こんな事件があったことなど知らないチームメイトが、
「林! おっせーよ!」
 と体育館前から呼ばわる。そこで俺は、そういえば天花って俺の名前一回しか呼ばなかったな、と思った。


2019/01/13

林くんはテニス部です。