帰りを待つ

アクアとグロウ グロウ視点三人称


 仕事は峠に差し掛かっていた。ゴッドが飛び込みで取ってきた依頼に着手して、早三ヶ月。ようやく依頼主である未亡人の夫の死後処理を担当した死神の、前の職場までたどり着いた。
 かの死神は、すでに死神を辞めている。その後三度職を替え、現在の仕事はいまだ掴めていない。明朝、ゴッドがその答えを持ち帰る手筈だ。
 長かった。私塾で教師になり、警察に入り、陣書き事務所に籍を移しながら、元死神は、転職の度に引っ越しをしていた。あとのほうはまだいい、最初の引っ越しなど天界の首都から天冥の共通居住地域に引っ込んだのだ。ほとんどの人間関係はそのときに絶たれていて、その痕跡を追い求めるだけに丸々一ヶ月を費やした。死神になる前に看護師として勤めていた病院の院長を見つけ出し、ようやく光明が見えた。その後の転職は程度の差こそあれすべて院長の計らいによるもので、おそらく現在の職場も院長の紹介による。
 グロウはまさに、その院長に未亡人の名で送る手紙の推敲をしているところだった。ドアがノックされたのは、未亡人の書いてきた長すぎる一文を三つにぶったぎったときだった。
「グロウ、起きてる?」
 そっとドアの隙間から顔を覗かせ、机に向かうグロウを見てほっとしたように眉を下げる。アクアだった。
「どういたが?」
 紙を畳みながら尋ねる。部屋のなかに入ったアクアは、左手で後ろ手にドアを閉めた。右手には枕が抱えられている。半分くらい、どういうことかは飲み込めたけれど、グロウはアクアの言葉を待つ。
「ゴッド、いないんだね」
「うん、仕事」
「……いやな夢見て、目が覚めて寝れなくて」
「ごめんよ、おらんって言うちゃあせんかったね」
 どうしよう、とその目は言っている。アクアがなにかあって眠れないと、いまだに向かいの部屋を訪ねているということは知っていた。
 グロウは椅子を引いて、ベッドを指し示す。
「狭いけど、どうぞ」
 アクアは、いいの? と目だけで問いかけてくる。グロウは鷹揚にうなずいてやる。
 手紙を片づけにかかるグロウの背後で、何度か布団の動く音がした。振り返ると、持って来た枕に頬をひっつけて、アクアはやっと落ち着いたみたいに息をついた。
「そんな端っこ寄らんでえいで」
「でも、真ん中にいたらグロウが寝れないだろ」
「うちは起きちょく予定やき」
 ふうん、と言いつつアクアは壁際に丸まって動く様子はなかった。
「……夢の話、聞いてくれる?」
 甘えた声に求められて、グロウはうなずいた。机の上だけついている電気は、ベッドのふちまでしか届かず、アクアの表情は半分影だ。それでも水色の瞳が揺れる、動きがわかる。
「怖い夢?」
「いやな夢だよ」
「どんな?」
 問いかけながら、彼ならどんなふうにアクアの話を聞くのだろう、と思った。
「……誰かいない夢」
「誰かち、誰で」
「わからない。誰かいないのに、誰がいないのかわからなくて……でも、それに気づいてるのはおれだけで、みんなはみんないるみたいに普通にしてた」
 子供のように、アクアは語る。とりとめのない、まとまりのない、浮かび上がるままにくちびるを滑り落ちるような言葉たち。
「いないんだよ。ちゃんといないんだ。おれがおかしいのかと思ったけど、数えてもやっぱりひとりいないし、それに……さびしい」
 それがすべてみたいに、つぶやいたきり瞼がおりる。そう、とグロウが返して、しばしの沈黙のあと、アクアが目をひらく。瞼の裏で育っていた涙が、晴れた空の色を揺れる水面に変える。
「ゴッドいつ帰ってくるの?」
 笑ってしまいそうだった。
「ゴッドがおらんで寂しかったが?」
 そう結びつけたのはアクアのほうだ。グロウは、そういうことはあまり思わない。信用しているし、慣れているから。ただときどき、腹立たしくなることがあるだけ。
 可愛くないのはわかっている。でも、素直じゃないつもりもない。信用しているのだ、ほんとうに。
 アクアは素直な上にかわいげも備えているので、
「そうなのかなあ」
 なんて寝言に近いぼやけた声で言う。
「グロウじゃないんだから」
 と、可愛くないこともちゃんと、言ってくれる。
「うちは別に」
「でも、帰ってくるの待ってるんだろ」
「……そうよ」
 用事があるから、とか、行かせたのは自分だから、とか、そういう言い訳はできたけれど、しようとは思わなかった。待ちたくないなら待たない方法だってあるのに、待ちたいから待っている。待つのも、送り出すのも、ほんとうは嫌いだけれど。
「何時まで起きてるの?」
「何時にしょうねえ」
「帰ってくるまでじゃないんだ」
「そんなに起きておれんわね。あんたらあのお弁当もせないかんがで」
 ごめん、とアクアは布団にくちもとを埋めて言った。
「なんで謝るが」
 聞けば、よくわからない、という顔をする。そしてちょっと布団を下げて言うのだ。
「早く帰ってきたらいいね」
「そうかねえ。まあ早う済むにこしたことはないけんど」
 嘘じゃない。さほど早く帰ってきてほしいとは思わないのも事実だ。夜更かしにつかれた頭でゴッドの相手をするのは面倒だ。話すなら、慌ただしくても朝がいい。朝の、まだユールも起きてこない時間帯のほんの10分、それだけがいい。これは仕事の話だと、ちゃんとわきまえた自分を整えるための眠りがほしい。
 けれど、早く帰ってきてほしいのもほんとうだった。安全のためには仕事にかける時間は短いほうがいい。依頼は素早くこなせたほうがいい。ゴッドだって夜は眠らなくてはいけない。
 家で帰りを待つ者として、上司として、グロウは相反することを同時に思う。自分の持つふたつの顔が素直に対立してくれれば楽なのに、と思う。上司としての自分は、もっとばりばり働け! と部下を叱咤していればいいのだ。でも部下はそんな発破をかけなくとも十二分に仕事をするし、なにより上司としてのグロウは労務管理に手を抜きたくない性分だった。
 父がいた頃の話だ。グロウが最初に任されたのは総務だった。外へ出ていく父とゴッドの管理。職場としての家のなかの管理。家計と一体をなす財務の管理。管理。把握。調整。いまでこそ父の担っていた運営、企画、契約なども一手に引き受けているが、グロウの根本は総務担当だ。それはこの家でも変わらない。グロウは主婦ではなく、総務の立場で家事の一切を取り仕切っている。
 ゴッドが帰ってくるのを待ちたくない。朝になってようやく顔を見るのがちょうどいい。今日の帰宅が夜明けになることはお互い事前にわかっているのだ。待っていては、明日の弁当に差し支える。でも早く帰ってきてほしい。起きている間に帰ってきてくれたら、きっとうれしい。
 全部、全部ほんとうだ。嘘じゃない。可愛くない気持ちも、多少はかわいげがあるかなと思える気持ちも、どっちもほんとうなのだ。
「どうながやろう。はよう帰ってきたとして、会いとうはないし」
 こんなこと、たぶん椎羅にも椎矢にも言えない。アクアにだけは言えた。
「それでもいいだろ。おれだって、いますぐとかじゃなかったら、早く帰ってきても絶対寝てて気づかないよ。けど、早く帰ってきたらいいと思うよ」
「それもそうやね」
 早く帰ってきてほしいことと、帰ってきてすぐ会いたいことは、別にセットじゃなくていい。そうだ、これでいこう。グロウはすんなり納得した。アクアはそういうことをぽろっと言ってくれる。こんな女の子になりたいなあ、とときどき思う。
「アクア、夢はもうかまんが?」
「んんー。違う話してたら、あんまり思い出せなくなってきた……」
 声に眠気が漂っている。そう、とこたえたぎり、グロウは黙った。机の上のものを、ひとつひとつ、ゆっくりと定めた位置にしまっていく。
 そのうちに穏やかな寝息が聞こえ始めた。午前三時。好きなひとはまだ帰らない。
 グロウはそっと布団をまくって、アクアの隣に滑り込んだ。布団の下の空気は、体温でほのあたたかくなっていた。座りっぱなしで冷えた体に馴染まない温度のなかで、グロウは目を閉じた。


2016/11/03

アクグロは百合ってずっと言ってるけど、どっちかというと姉妹みたいだ