マーレ編 高3 ルビィ視点3人称
マーレ編 高3 ルビィ視点3人称
がらりと開いたドアの音は、気持ちのわりにおとなしかった。もっと派手に開けてやればよかった、なんて苑美は詮無いことを考える。
8時15分。一時間目に単語テストを控えた教室は、いつもより多い七割ほどの生徒でざわついている。その真ん中ほどの席に、苑美は迷わず足を向けた。ぱたぱたと、後ろから上履きの足音をたてて楓生が追ってくる。
「苑美!」
教室入口から呼ぶ声に、苑美は答えなかった。目指した机の前で、しゃがみこんでいた依川のほうが振り向く。
「うお、天花。顔怖いぞ、どうした? ――あ、早瀬?」
ゆっくり、ほとんど音をたてずに河音が椅子を立った。通路に出て、苑美と向かい合う。
「おはよう、苑美」
「どういう意味!?」
よく通る苑美の大きな声に、教室が一瞬しんとする。多くの視線にさらされながら、苑美は重たげに再び口を開いた。
「あれは、どういう意味なの」
非難がましい声に、河音は怖じることなく答える。
「そのままだよ。おれはあの人と、会って話を」
「話って!?」
教室に戻って来ようとしたざわめきがまた引き返す。依川が困ったように二人へ交互に視線を寄越すが、どちらもそれをかえりみない。
「あいつと、話? そんなことできると思ってるの? あいつが本当のこと話すとでも?」
「それは苑美の先入観だ」
「経験で言ってるの! 河音はあいつのこと知らないからそんなことが言えるんだよ!」
「だったらおれが、自分で会ってそうだって分かればいいだろ。最初っから苑美に決めつけられるいわれはない」
頑として譲らない河音に、苑美はいら立ちを募らせる。とにかく相手の言うことを否定して圧倒しなくてはという焦燥に駆られて、思ってもいない言葉が口をついた。
「あたしは河音のことを、思って」
苦し紛れが見破られたことはすぐに分かった。河音が目を眇める。それだけにすればいいものを、向こうもこの問答に焦れたのだろう、苦々しげに意地の悪い言葉を吐かれる。
「……うそばっかり」
言いたくて言ったことでないのは分かっていた。それでもわざわざ聞かされたことが許せなかった。ふっと胸の芯がたぎって、苑美は思わず手を上げていた。
しかし、
「――あ」
依川が息をのむ。振り下ろした手を、河音が掴んでいた。細い手首は利き手とは逆の手に押しとどめられて、苑美の力ではもう自由にならない。目いっぱい力を込めて振りほどいてやったが、その時少し力を抜かれたのが分かって、不満は増すばかりだ。
その態度は河音の気にも障ったらしい。
「おれが止められるわけないと思った?」
厳しい目を向けられて、苑美は少し怯んだ。けれどその言い様を受け入れるわけにはいかない。
「関係ないでしょ、それは」
「じゃあなんでおれとあの人のことに苑美が口出すんだよ。おれ一人じゃどうにもならないと思ってるからだろ。おれは苑美に守られてるものだって思ってるんだろ!」
「違う!」
「違うなら! 苑美はただあの人が気に食わないだけだ!」
いつになく不穏な様子に、依川がおずおずと立ち上がる。
「おい、どうしたんだよお前ら……」
だがもう立ち止まれない。そんな場所はとうに過ぎた。図星をついたつもりなのか、単なる本音だったのか。そんなの知らない。踏んではならない一線を踏まれたことだけは確かだった。
心中に燻っていたものが怒りへと燃え上がる。湧き上がる気持ちのままに、苑美は思い切り河音を突き飛ばした。数歩たたらを踏んだだけの体を、大したことのない体重を使って押し倒す。遠く離れた窓際で、無関係な女子の悲鳴が場違いなほど可愛らしく上がる。
しりもちはつかせたものの、河音は簡単には倒れ込まなかった。脚をまたいで制服の襟元を掴んで、腹の上に座り込む。勝てた気は、全然しなかった。ただ息が上がって、強がりたい声が震える。
「河音は分かってない。あいつの言うことは信用ならないんだよ」
「でも苑美がルサ・イルに引きずられてるのは確かだ」
「あいつの言うことまだ信じるの!?」
「図星だったくせに!」
ぐっと苑美が押し黙る。教室中の目は、今や完全に二人だけに注がれていた。廊下を通りがかった他のクラスの生徒も、押し倒し押し倒されて睨みあう二人に気付くと、ぎょっとして足を止める。
凍りついたような教室の中で、二人だけが止まれない。
「っだいたい! なんで河音はあいつの肩持つの!? それこそ、フィーに引きずられてるだけじゃないの!?」
「だったら何だって言うんだよ! 理由がなんであろうと、苑美には関係ない! おれの問題だからおれが決めたようにして何が悪いんだよ!」
「悪いに決まってるでしょ! あいつが何やったか、言ったよね!? 知ってるくせにどうしてそんなことできるの!? あたしたちがあいつに何されたか分かってんの!?」
「苑美からしたらそうかもしれないけど、おれはそれだけじゃない。いつかは会わなきゃいけなかったんだ」
「そうじゃなくて! だからってなんであんな人間信用すんの!? 河音は分かってない!」
「そんなのお前の勝手な見方だろ! 自分が嫌いだからおれにも嫌いになれって言うのかよ!」
「違う、だから河音は分かってないって言うんだよ!」
バン、と音高く苑美は河音の頭の両脇に手をついた。露骨な威嚇に河音が一瞬目をつむる。水色の瞳は潤むには至らなかった。苑美の言い分に動じるところはないと示されているようで腹が立つ。言い返される前にと、苑美は一層声を荒らげた。
「河音はなにもされてないからそんなこと言えるんだ! 何にもなくしてないから! 全部、ぜんぶあいつのせいでめちゃくちゃでっ、フィーがいた河音には分かんないよねっ!!」
泣かれることも覚悟して、しかし最後の言葉は河音にとって地雷だった。
「なんだよそれ。何だよ、それっ! 全部一緒に見てたくせに、なんでそんな言い方出来るんだよ!」
重しをかけていたつもりだったのに、河音は苑美の手を払って難なく起き上がった。睨み上げてくる目から、自分の発言が許されない類のものだったことを理解する。だからといって撤回しようなどとは考えられない。苑美にとっても河音の決めたことは認められたものではなかった。
ここが教室であるとか、言って良いことと悪いことがあるとか、そんなことも分からなくなるぐらいの感情が渦を巻く。それは駄目だ、そんなの間違ってる。ただそれだけが言いたくて、苑美はアクアの言葉を否定するために息を吸った。
「――っ」
「やめ!」
後ろから手が伸びて口を塞がれた。グロウ、と言いかけて自分が口走りかけたことに気付く。我に返ったわずかな隙に、ぐいぐいと河音から引き剥がされた。教卓の前まで連れて来られて、やっと教室中から注目されているのが分かった。水を打ったような静けさの中、恥ずかしいという気持ちは起きない。危なかった、とだけ冷静さを取り戻した頭の隅が思う。
河音は依川に手を貸されて、おとなしく立ち上がらされている。目が合いかけた瞬間に、楓生が間に立って視線を遮った。そのまま手を引かれ、教室を連れ出される。
静まり返った教室に、朝のにぎやかさが帰って来た。