眠れない夜

エメリア編直後イメージ 視点ころころ三人称


 夜11時というと、いつもならみんな寝静まっている時間だ。ルビィだってそのつもりで、いつものように烏の行水を終えて歯磨きをして、10時半には寝室へ引っ込んだ。明日着る制服と、シャツと靴下があること、時間割通りの荷物ができていること、ハンカチとティッシュも入れたことを確認して布団に潜り込む。
「おやすみ」はとっくに言ってきた。歯磨き粉のにおいが鼻の奥にわだかまる。目を閉じると、様々な光景が暗闇を彩った。
 眩むほど青い空。ひび割れたタイル敷きの道。銀色、魔力の乗り物ではない本当の刃物としての切っ先。間近で見た不思議な色の瞳の、射るような強さ。
『お前に何が分かる』――叩きつけるような声が脳裏に響けば、他の感覚が蘇るのは簡単だった。悲鳴が風の中にかき消え、髪先が暴れて頬を打つ。砂っぽい空気に唇が乾いた。その時しか訪れない独特の緊張が、ルビィは嫌いではなかった。好きだなんて言ってはならないことは分かっているが、胸の高鳴りはどうしようもない。全身を沸き立たせるように魔力がざわめき、思い一つで手の中の剣へと集って弾ける。
 体は軽く、しかし一瞬一瞬に引っかかるような重みを持つ。どの刹那を間違っても一巻の終わりだ。その一歩手前となるのが避け損ないの傷。今は薬とガーゼで蓋をされている場所が、切り裂かれたことを思い出して熱くなる。
 まばたきを一つして、ルビィは寝返りをうった。頭の中で血の偏りが入れ替わる。くたびれた脚を曲げたり伸ばしたりするが、すわりのいいところが見つからない。今さらに薬の臭いが気になった。
 これから眠ろうというのに、心臓はどくどくとやけにたくましく脈打っている。意識していなかった呼吸までも、なんだかリズムが合わないようで苦しい。気を紛らわすようにもう一度体の向きを変えると、体重を乗せられた肘がぬるり、と滑る嫌な感触があった。
「…………」
 仰向けに戻って腕を持ち上げる。肘からぷらーんとガーゼが垂れ下がっていた。
「……喉乾いた」
 言い訳みたいにつぶやいて、ルビィは布団ごと起き上がった。

 同じようなことは今までにもあった。何日もかけて大作を仕上げたあととか、短い期間に何枚も書き続けた時とか。そういうことがあると、何にも書かなくてよくなった時にふと手が寂しくなる。頭も、魔法陣でいっぱいだったのをいきなり空っぽにはできなくて、常にどこかで幾何学的な線がちらちらしている状態だ。
 いつものことだから、解決のやり方も分かっていた。手が寂しくて魔法陣のことを考えてしまうなら、それを書けばいい。そう思って、アクアは寝るのを諦め、部屋の明かりをつけた。
 けれど、白い紙を前にすると、途端に何も浮かばなくなる。ペンだこに乗っけたシャーペンは、やることもなくてくるくると回るのみだ。金属のキャップが蛍光灯を反射して、目の端でうるさい。
「……はー」
 アクアはシャーペンを机の上に転がして、部屋の真ん中にどんと置かれた箱へ向かった。本当はきちんと蓋をすると積み上げられる収納ボックスだが、今はめちゃめちゃに紙が詰め込まれていて見た目はゴミ箱と変わらない。その中へ手を突っ込んで、自分が書いた陣を一枚、抽選はがきのように抜き出す。同様にあと二枚選んだ。机にその三枚と白紙を並べて、三つの陣の合成を試みる。
 目標ができると作業はそれほど難しくもない。あっと言う間に基盤は出来上がった。そしてそこで、はた、と手が止まる。
 曲がっていた背を伸ばして机上を眺めれば、そこにあるのはまったくもって無意味な、ただの落書きであった。そのくせ、隣には清書のためのペンとインクまで用意してある。
 ぐしゃりと、思わず紙を握りつぶした。直後にゴミがかさばるからやめろと言われていたことを思い出して後悔する。
「あーっ、もう!」
 紙のつぶてを机の下のゴミ袋に押し込み、アクアはシャーペンとノートだけをひっつかんで一階に降りることにした。ユールかゴッドあたりならまだいるかもしれない。
 隣のルビィは確実に寝ているから、と静かにドアを開ける。しかし、
「あれ、アクアも起きてたの?」
 廊下で出くわしたのは、他でもないルビィだった。

 天界に何かが起きていることは分かっていた。だが、まさかこんなことになっているとは。精霊狩りの捜索を優先して死神探しを断っていたせいで、情報が遅れたのだろう。失態だ。
 現実は後悔から立ち直るのを待ってなどくれない。しゃがみこんでいては置き去りにされるだけだ。置いていかれてなるものかという執念で、グロウは山と積んだ資料を次々にめくった。
 リビングの電気は消されて、明かりはキッチンとダイニングからしかない。テーブルを半分ほど占拠して、手がかりとなるものは右へ、ならないものは奥へ押しやる。
 別にこんな作業、自分の部屋でやればいいことだ。それでも今夜は狭いところに一人でいる気にはなれなかった。そんなことしたら、くすぶる気持ちが充満して、一酸化炭素中毒になってしまうような、そんな不穏な熱が渦を巻いている。
 今、ここにはグロウ一人だけれど、キッチンから一続きの空間は広くて息もつまらず、ドアの向こうからはドライヤーの稼働音も聞こえて、人の気配がする。それだけのことに深い安心があった。
 明日から、今までの方法をすべて見直そう。精霊狩りという存在に手がかりはほとんどない。その薄い影のような足跡をたどろうとすること、それ自体に無理があったのだ。天界にまで捜索の手を伸ばすのには危険もあるかもしれない。しかし、それでもやる価値はあると、今日までのことで確信が持てた。
 一秒たりとも止まっていられない。そんな気分が全身を支配していた。時はどんどん証拠を滅失させていく。あがいてあがいて報われなかった人の言葉が頭から離れなかった。
 ダイニングの方でドアが開いて、静かな裸足の足音がする。ドライヤーの音は止んでいた。
「グロウ、背中の手当てを頼む」
 そっと声をかけられて顔を上げる。グロウの横へ膝をついたユールは、乾かしたばかりの髪を右手で一つにまとめて持ち上げ、左手には寝間着の上を提げていた。
「ちっと待って」
 資料チェックを中断して、テレビ横の棚から薬箱を持ってくる。救急箱ではない、ヒュナお手製の薬セット。最初の治療で様子を見て、全員の状態に合わせて作ってくれている。ガーゼやテープの方は救急箱から持ち出しだ。
 グロウは傷を塞ぐように軟膏を塗りながら言う。
「体育、プールの時期やのうてよかったねえ」
 思った通り、返事はなかった。

 換気扇のスイッチを入れてドアを空かす。脱衣所の窓も開けると、夜風がするりと入り込んだ。洗面台の鏡が晴れ、自分と目が合う。左耳のそばに3センチほどの傷。きれいに閉じたそれは、あと二日もすれば消えるだろう。
 ゴッドは耳にかけた髪をおろした。傷は隠れる。少々首を振った程度では見えない。ひとまずこれで叱られることはないだろうと安堵する。赤の他人に近づいて信用を得るには、身なりは非常に重要だ。何も欠けていない、つまり何も欲しがるべきものがない、満ち足りていそうな人間を他人は信用する。そういう人間は他人の持ち物を奪おうとはしないからだ。傷のなくなるたった二日も待たず、そんな役目が回ってくることは容易に予測できた。
 脱衣所の明かりを落としてリビングに戻ると、予想通りグロウはその下準備に精を出していた。だが、予想外だったのは、グロウが半分使ってるテーブルの、残り半分でアクアがノートに向かっていたことだ。後ろのソファからルビィがその手元を覗き込んでいる。書いているのはわりあい単純な魔法陣のようだった。おおかたルビィのリクエストであろう。それ自体はよくあることだが、時計を見ればもう11時である。二人が起きていることさえめずらしい。
 広い空間は息をつめたように静かで光は乏しい。唯一明かりのついたキッチンで、一足先に脱衣所を出ていったユールが麦茶のコップを傾けていた。近寄ると、髪に残る水気にまじって独特な傷薬のにおいが立つ。
「俺もちょうだい」
「はい」
 飲みかけをそのままくれた。いらねえの、と聞けば「多く入れすぎた」と、これまためずらしいことを言う。していることは思った通りといえ、グロウがこんなところであんな資料を広げているのも滅多にあることではない。
 理由は察せられる。というか、同じ心当たりはゴッドにもあった。
 ほんの半日前まで繰り広げられていた、目まぐるしい戦い。そこで得られた知らなかったこと、受けた衝撃。とめどなく走らなくてはならなかった体はまだ慣性に引きずられて、頭も何かを処理せねばと働き続けようとする。身も心もくたくたで、眠りたいと思うのは誰も一緒だ。けれど出来立ての傷から吹き出す熱が、無意識への没入を許さない。目を閉じても光は消えず、横になっても声は止まない。そうしてみんな、広々と静まったこの場所に腰を下ろしているのだろう。
 眠ろうとすれば眠れない状態ではない。けれどゴッドは、しばらくここでみんなに付き合うことにした。

 一番にルビィが沈没した。隣に座ったゴッドに、甘えるようにすり寄って、しばらくはアクアとぽつぽつ言葉を交わしていた。それが不意にやまってアクアが振り向くと、ルビィは切った唇から涎を垂らして寝こけていた。ぽかんとするアクアに、ゴッドがちょっと笑って人差し指を立てる。
「いつの間に?」
 紙がこすれる程度の声で聞くと、同じ音量で「ついさっき」との答え。
「次、何書こう」
「じゃあさ」
 手慰みには十分な指定をもらって、アクアは再び作業に取りかかる。今度はユールがその紙面を見つめるが、その眼差しにはルビィほどの興味も意欲もない。ペンの走る音はごく小さく、グロウがテーブルにファイルを落とす音がよく響いた。
 積み上げられた資料は大きく二つに分けられ、続いてその内容の吟味が始まった。ファイルから中身を出して、並べ替えて入れ替えて、頭の中で組み上げられたプランのかたちに作り替えていく。
 おおよその作業が終わって、グロウは静かに息をついた。ちょうどゴッドもいることだし、やってもらうことは今伝えておこうと振り返る。
「なんでそれ」
 ゴッドは両肩にすやすや眠る頭を乗せられていた。二人にもたれられて重いだろうに、本人は楽しそうに微笑んでいる。その片方の頭がずるりと滑って脚へ着地した。ズボンにつけられそうになった涎をゴッドは指で拭ってやる。ルビィは起きる様子もなく、平和そうに寝息を立てていた。
「普段は夜更かししないからなあ。グロウ、ティッシュ取って」
 ささやき声で言われ、見れば時計は3時に近づいていた。もしやと思って目をやった先で、アクアもまたテーブルに突っ伏して眠っている。右手にはシャーペンが握りしめられたままだ。膝で立って、その奥にあるテッシュ箱から一枚を引き出す。
「はい。寝にいかせたらよかったに。運ばないかんで」
「ありがと。いーんだよそんくらい。この方がちゃんと眠れただろうし」
 甘やかしいなことを言って、ゴッドはそうっとユールのもたれる先をソファにすり替え、
「あ、起きた?」
「……ああ」
 青い目がぱちりと開いて、寝起きとは思えないしゃんとした返事が返る。
「もうみんな寝るから」
「ユール、これ持ってっちゃって」
 グロウがアクアの手からシャーペンを、腕の下からノートを抜き取ってユールに託した。グロウ自身は自分の荷物を全部まとめて腕いっぱいに抱える。
 ルビィは膝から下ろされてもむにゅむにゅと何か言いかけただけで、よく眠っているようだった。ゴッドはまずアクアを抱え起こして背負う。角度を変えられたせいか、さすがにアクアは半分目を開けて起きようとする。ゴッドは腕だけきちんと首に回してもらって、あとは
「寝てろ」
「はい……」
 とあっさり夢の中へお返しした。立ち上がって落ちないようしっかり脚を支える。
 ユールがドアを開けっぱなしにして先を行く。グロウ、ゴッドの順に続いて、アクアの部屋もユールが開けた。グロウは一人自室へと向かい、ちょっと無理してドアを開ける。おやすみー、の声はアクアをベッドに下ろしたところで聞こえた。ゴッドとユールはほぼ同時に挨拶を返し、ユールが机の上にノートを置いて自分の部屋へ戻る。
「おやすみ、ユール」
「おやすみなさい」
 ぱたん、と部屋は真っ暗のままドアが閉じた。ゴッドは最後の一人を回収に向かう。
 ルビィは置いてきた姿勢のままで眠っている。膝裏と首に腕を差し入れて抱き上げると、ユールと同じ薬のにおいと、ガーゼや包帯の感触があった。思い出したように自分の傷も痛む。けれどもう、疲れた心身を苛む温度はなかった。
 台所の電気を消して、暗闇を二階へと上がる。ドアはなるべく静かに開けた。ありがたいことに布団はめくられっぱなしになっている。そこへルビィを下ろし、布団を掛けてやる。おやすみは言わずに部屋を出た。
 素足で踏む廊下は冷たい。グロウの部屋だけはまだ明かりがついていた。ドア枠のかたちに、ほんのりと白い光が漏れている。これでは明日朝、グロウも起きてこられるか怪しいものだ。弁当は作る気らしいけれど、何時に起こせばいいものか。そんなことを考えながら、ゴッドは対面にある自室のドアを開けた。


2014/05/22

順番に視点変えて、最後は誰視点か分からないようにしたかった
いわば実験でした
けど視点人物になれる人が一人になっちゃうとその人視点になってしまうというか、してしまうというか
視点って難しいなあ