秘塔の敷地をぐるっと回り、ほとんど城壁に突き当たろうかというところに通用門があった。そこを抜けて秘塔が巨大な影を落とす北側を通ると、ステージの裏に出る。歌姫の楽屋はそこに設置されたプレハブ小屋だった。ドアの横には物々しく、冥界軍広報部筆頭広報官控え室、の看板が掲げられている。
補佐の女性がそのそばに控えていた。
「お待ちしておりました」
この間のスーツとは違い、着ているのは青い軍服だ。人間界ではアイドルのマネージャーなんて普通目にすることはない裏方ってイメージだけど、筆頭広報官補佐の胸にはすごそうな金ぴかの刺繍とバッジが光っている。実はそれなりに偉いらしい。
グロウが歩み寄って挨拶を交わそうとしたときだった。
「まだ決まってないってどういうことよ!?」
控え室の薄い壁をつんざいて、激高する女性の声が響いた。続けて、バン! と机を叩くような音。あっけにとられるあたしたちの前で控え室のドアが開き、補佐より数段素朴な軍服の男が転がるように出てくる。男は補佐に気づくと慌てて姿勢を正し、
「おっ、お客様がもうすぐご到着だと、お伝えいたしましたっ!」
「ありがとう、持ち場へ戻ってください」
補佐の許しを得るなりすたこらとステージの方へ去っていく。何事かと首を傾げるあたしたちに、補佐は顔色を変えず中へ入るよう促した。
「どうぞ。歌姫はお待ちかねのようです」
そんなこと言われても入りにくい。結局、気合い十分のグロウが先陣を切った。あたし、アクア、ユールと続いて、ゴッドは補佐に先を行かせてから最後に入る。
部屋の中は思ったより広かった。衣装のかかったハンガーラックがいくつも並び、大きな会議テーブルに城下の有名なお店のランチボックスが何種類も積まれ、背後の壁には巨大なスケジュール表が貼ってある。窓はなく、左の壁は一面が鏡張りだった。
その反対側に簡易な応接セットが置かれていて、歌姫は奥のソファに足を組んで座っていた。軍服と同じ青の、もっと艶のあるコートをぴっちり閉じて着込んでいる。真っ白い足の先は室内履きで、着替えの途中か、コートのなかはすでに衣装かもしれない。
「カナリャーナーミ筆頭広報官ですね。はじめまして」
グロウが先手を取った。歌姫カナリャは金髪を背中に払い、ふんと小さな鼻を鳴らす。
「あなたは知ってるわ。シュレイン・サンダーの後継ね。昔からこの業界の周りをちょろちょろしてた」
「精霊のみなさま、こちらへおかけください」
早くもぴりつく空気に補佐が割って入る。カナリャの対面のソファと、壁際から引っ張ってきた丸椅子をあたしたちに勧めてくれる。
グロウとユールがソファに、あたしとアクアとゴッドがそれぞれ椅子に座ろうとするあいだも、カナリャはじろじろとこちらを観察していた。面接官か審査員のような、それどころか市場の目利きみたいな値踏みの視線だ。
さらに、着席するなり歌姫のすみれ色の瞳はあたしたちを外れて補佐に向かい、
「ちょっと」
と険のある雑な呼びかけをしたかと思うと、ほっそりしたきれいな指をぞんざいに突きつけた。
「わたしの出した条件、あったわよね。どうなってるわけ? あなた自分がどうして補佐職に就けたのか忘れたの?」
「申し訳ございません」
補佐が弁明もなく頭を下げると、カナリャはため息一つ、「まあいいわ」とソファにふんぞりかえった。
あたしは開いたくちが塞がらない。アクアは椅子の縁を掴んで威嚇された小動物みたいに固まっている。反応は違うけど、思ってることはたぶんあたしと一緒だ。
歌姫ってこんなだったっけ?
「下がって。あなたじゃ話にならないから。で、そちらはこっちの事情と要求はどう聞いてるわけ? 精霊サマの事情と要求は?」
いちおう、ほんのちょっとだけ、補佐に対するのよりは険を収めた声だった。グロウはそんな態度もなんのその、平然といつもと違う抑揚のお仕事モードで話し始める。
「ご希望は単に、明日の魔界公演の終日警備とだけ聞いています。今日は細部調整と会場下見のつもりです。騎士団が使えなくてお困りとは推測しますが、契約書以上のことはなにも」
「ようするにウチの部下は何も説明してないのね。いいわ、話しましょう。でもその前に」
カナリャは足を組み替え、コートの袖から覗く細い指先で、グロウが持ってきた契約書を指した。
「それにサインして。冥界の軍事機密を聞きたいなら、逃げ道はなしよ」
「広報官」
補佐が声を上げるが、カナリャは視線ひとつそちらにはやらず、不敵な笑みをたたえたくちを開く。
「いいじゃない、どうせ聞かずに帰りますなんて選択肢ないんでしょ。魔界での精霊の立ち位置っていま微妙なところだもの。精霊の立場で、これ以上魔界を情勢不安に傾けるわけにはいかないわよね」
露骨な挑発なのにきっちりムカついてしまう。不安そうな目を向けてくるアクアには実感ないだろうけど、やっぱりゴッドの言ってたとおり、精霊の存在そのものが魔界の平穏を支えてるところはある。
でもそれは精霊が五人いればなんでもいいってことじゃなく、魔界の人たちが精霊に期待と信頼を寄せてないと成り立たない関係だ。神魔戦争のときは、特にその期待も信頼も篤かったノージア・スノークスが倒れたことが大きかった。城下北訓練校が全然北じゃないとこまで移転してるのもそのせいだ。
こうして実際に魔界の平穏を人質扱いされてみるとよくわかる。魔界を守るって戦う以外のとこが意外に大きいし、それを交渉の材料に使われると――ムカつく。
あたしはソファの背もたれ越しに身を乗り出し、グロウとユールのあいだから手を挙げた。
「する。やる。やります」
グロウがヘンな味のもの食べたみたいな顔で振り返る。
「やるち、あんた」
「するの、サイン! あたし精霊だもん、魔界がどうなってもいいのかって聞かれたら絶対ダメって答えるよ!」
歌姫は目を細めて、ふーん、と低く呟く。興味なさそうにしてるけど、面白がってるのが伝わってくる。不敵な上目遣い。ステージ上のあの微笑みは面影もない。
「いいお返事。じゃあペンを――」
「ペンばああるちや」
カナリャを制するように、グロウがクラッチバッグからペンを抜いた。あたしの手にそのペンは回ってこなかった。
グロウが契約書をめくり、最後のページにあった誓約書を破り取る。
「ひとまず誓約事項だけでかまんですね? 大事ながは機密保持条項でしょうき、業務内容はこれから調整ちゅうことで」
言いながらグロウが書いたのは、
「フェミーエ保険相談事務所、代表社長グロウ・サンダー……なるほど、考えたわね」
カナリャが舌を巻く理由が、あたしにはわからない。肩すかしを食らったような気分のまま、唇にうっすら笑みを浮かべたグロウの説明を待つ。
「冥界軍とはうちの事務所が警備業務の契約をします。実働は精霊を雇うてさす。ほいたら冥界軍は精霊を警護に使えるし、精霊は変な勘繰りも気にせいで済む。うちは儲かる。三方よしでしょう」
「いいわ、そういうことにしておきましょう」
「待ってよ! グロウがあたしたちを雇う!? なにそれどういうこと!?」
あたしの叫びをカナリャはみごとに無視した。コートの裾を翻して立ち上がり、波打つ金髪を背に払う。
「説明は実地でするわ。ついてきて」
「グロウ!」
素直に立って荷物をまとめたグロウは、ソファの背もたれにかじりつくあたしを機嫌よく見下ろした。
「説明はトイレ休憩のときにでもしちゃおき」
なんでグロウのほうが歌姫よりつれないのさ! と、訴えるのをあきらめて、あたしも仕方なく椅子をたった。