=風の精霊ウィンディ=

フィル・ネイチャー 1

 世界がそこにあった。
 ゆるい丘に挟まれた谷間の土地。その中央をほとんどまっすぐ、さやさやと流れていく小川。五つの庭それぞれに、色味の異なる緑が茂り、青いにおいに混ざって土の香がたつ。あちらこちらへ咲く季節の花に、名前のわからないものはない。この世界を、アクアはよく知っている。
 この場所だけが、アクアにとっての世界だったのだから。

 この日四度目となる城の地下を経由して、あたしたちはフィル・ネイチャーの庭園へと駆けつけた。
 最寄りの移動陣は、狭い谷の内側へ張り出した、丘の上に位置していた。いくつか大きな木が木陰をなしているだけの丘からは、庭園のすべてが見渡せる。
 様相の違う庭が小川を軸に連なって、その先は原っぱ。そしてそこに、
「いた」
 魔法陣で埋め尽くされた緑色の球体が浮かんでいる。その中に見える女性らしき姿がおそらくフィル・ネイチャーだろう。遠目に顔まではわからない。
 その下に、のどかな天候にそぐわない、黒いコートの男が立っていた。あいつが、と、声が漏れた。なんと続けたいのか自分でもわからない。けれどなにかしなきゃ、どうにかしなきゃという思いが体中でふくらむ。
「行くなよ」
 心を読んだみたいに、ゴッドに手を掴まれた。振り返ると険しい顔で見返される。その隣にどこからかグロウが姿を現して、庭園の中を指さした。見れば三本、魔法陣らしき線が走っている。
「あれ見い、封印かかっちゅうろ。いきなり行ったち距離があるうちから察知されて迎え討たれる。向こうの山抜ける道があるき、……アクア?」
 作戦を告げる声が止まる。アクアはあたしのすぐ前にいた。木と木の間、いちばん景色がよく見える場所だ。木漏れ日を受けた肩が震えている。怖くなったのかと思っていた。違うということはすぐにわかった。
 不意にアクアが、かくんと膝を折った。柔らかい地面に、前のめりに手をついて、息が苦しいみたいな声で言う。
「フィー」
 心がさざめくような風が吹いた。
「なんで……っ、フィー!」
「アクア、まさか」
 ゴッドの手を振り払い、アクアの横に膝をついて同じ方向を見る。アクアはまっすぐ、緑色の魔法陣を見つめていた。空と同じ色の瞳にゆらりと水が広がる。
 いまにもこぼれそうなその滴を見て、どうにかしなきゃという思いが熱を増した。
「行くよ、アクア」
「えっ」
「おい待て!」
 制止の声に逆に弾かれた。アクアの手を取って引きずるように立ち上がり、一目散に坂を駆け下りる。バタバタと膝の周りでスカートが暴れて、制服のままだったことを思い出した。アルサにもらった呪文を、半分以上省略して一言にまとめる。
「ウィンディ!」
 抑えきれなかった魔力の余波が、追い風となって髪を逆立てた。それを帽子越しに、空いた左手で押さえる。砂色のマントが波打ち、右腰に剣の重みが下りてくる。
 木靴で岩場を蹴って、小さな橋を飛び越えるように渡った。小川がきらめき、一つ目の魔法陣にぶち当たる。
「ルビィ!」
「っこのくらい!」
 アクアの悲鳴を否定して剣を抜いた。ただ魔力を通して魔法陣に押し込むと、封印の陣はその圧に耐えきれず砕ける。
 立ち止まることなく川をさかのぼり、畑の間を抜ける。アクアが引っ張られながら、庭のひとつひとつを振り返っているのがわかった。
 花畑の中、踏み固められた小道からは対岸の畑がよく見える。アクアがその景色になにを思っているかまで、あたしには想像できないけれど、背中を押されたような気持ちになる。
 白い柵に囲われた庭の前に、二つ目の魔法陣がかかっていた。再び剣を振りかざすが、今度は力任せでは押し切れない。反動を逃がすため後ろへ下がると、アクアがあたしの手を離れて前へ出た。
「アクア、」
「魔法陣だろ、解く!」
 言うなり柵の前に膝をついて、障壁を立ち上がらせている地面の線に触れる。そこから手前へ指を引くと、その道筋に水色の線が生じた。魔力そのものが線となっている。水色の軌跡は素早くひとつの魔法陣へと組み上げられていき――
「あんたらちょっと待ちい!」
 世界が一気に静かになった。違う、ずっと耳元で鳴り響いていた焦燥が、止んだ。渦巻くような風が感じられなくなり、視界の縁が手を伸ばすように広がる。息が上がっていたらしく、喉がきゅっと痛んだ。
 あたしを現実に引き戻したグロウが、肩を強く押して前を向かせる。
「言うたやか、迎え討たれる」
 二重の封印越しに、こちらを見つめる姿。大人には違いないがそう年は取っていない。目深にかぶった黒い帽子と、赤っぽい色の髪に埋もれるような、濁った黄の瞳と視線がぶつかる。視線にこもったものまでは、まだあたしには届かない。それより、あたしは帽子に目を引かれた。
 黒い帽子にくっきりと、真っ白な花がつけられていた。脳裏に同じような、黒と白のコントラストが浮かび上がる。アルサの肩に揺れていた、種類もわからない白い花。
 蘇ってこようとするものを振り払う。いまはそんな記憶に浸ってる場合じゃない。
 男の背後から、白い人形が歩みだしていた。学校で見たものとおそらく同じ。だけど数は桁違いだった。数十、もしかしたら百に近いかもしれない。そんな数の白い群が原っぱに広がっていく。
「あれどうするつもりで」
「どうって、やっつけるしかないでしょ」
「そらそうやけど、やり方の問題よえ」
 どうやってやっつけるか。ぱっと思いついたのは、魔力で全部吹き飛ばすことだった。だけどグロウに言ったら反対されるに決まってる。
 思った通り、グロウは後ろを振り返って思案顔をしている。ゴッドとユールが追いついてきたのだろうか。人手を使ってどうにかすることを考えているのかもしれない。でもそれじゃ、アクアがフィーにたどり着くのにどれだけかかるのだろう。
「できた!」
 魔法陣にかかりきりだったアクアが顔を上げた。地を這っていた陣が消滅する。アクアは一瞬ほっとして、増殖する白い人形に気づくと顔をこわばらせた。
 グロウが、あたしに向けたのとはまた違うあきれを表情ににじませる。
「アクア、あんたも。焦る気持ちはわかるけんど、精霊服も忘れよっちゃいかんで。絶対成功させないかんきこそ、冷静に――」
 正論を聞き終えるまで待ちきれなかった。
「アクア、精霊服出して」
 グロウの言葉から必要不可欠な部分だけを切り出して、地面に膝を落としたままのアクアに指示を飛ばす。アクアは言われるがままに精霊服を出した。性能は確か、でも見た目は心許ない、薄青の精霊服。ぴったりじゃんか、と思うけど言ってる場合ではない。
 あたしはアクアの手を掴んで次の陣へと駆け出す。
「あんた話聞きよったがやないが!?」
「聞いた! 決めた!」
 花畑を飛び出して、白い柵沿いを走る。
 柵の中、生け垣の向こうには、赤茶の屋根の小さな家が建っていた。そのそばを走り抜けるとき、アクアを引く手にすこし抵抗がかかる。
「そこはあとでね」
「っ、うん」
 あんなになにもかもを恐れていたアクアは、いまだけはそれを飲み込むようにうなずいた。これは無理矢理じゃあない。たくさん怖いことがあったって、アクアはフィーのためなら乗り越えられるんだろう。あたしが精霊として、なんでもやろうと思えるみたいに。

2014/6/12 (修正 2023/3/23)