2、たびのしおり

サラン13歳 サラン視点三人称


 夜が始まろうとしていた。丸一日の冥界自主研修を終えた秘塔生たちは、班ごとに今夜の宿へと戻ってきていた。
 一般教養選択者から募った希望者100余名と、十数名の教員を一気に収容するため、ホテルは町の中心部に位置する大きなものだ。煌々と明かるロビーの照明の下に、続々と帰ってくる生徒たち。その頭を素早く数えたり、2階に用意された夕飯の会場へと誘導したり、通常業務に勤しむカウンター前から引き剥がしたりする教員たち。サランも、その秩序ある喧噪のなかにいた。
 生徒の列は前の方で詰まっているため、サランの班は入ってすぐにあるソファをキープし、列が進むのを待っていた。ただし、ソファに座っているのはそれを提案した班長の女子とちゃっかりしたその親友だけで、サランたち男子は前に立っているだけだ。
「疲れたー。晩飯なにかな」
「その前に報告会でしょ」
「発表誰がするの?」
「班長だろ。オレ全然メモとかないよ」
「はあ? あんた記録係でしょ、なにやってんのよ」
「写真撮りましたー」
 いらんことを話したり話さなかったりしながら4人で集まっていると、前の方からやってきた教員が皆に声をかけた。
「みなさーん、しおりの今日のページを開いて用意してくださーい。係りの先生に必ずハンコをもらうこと!」
 はあーい、と微妙に揃わない返事をみんなでして、それぞれリュックやカバンやナップザックからしおりを引っ張り出す。サランの班はみんなもう手に持っていて、サランだけがリュックを体の前に回してそのくちを開いた。その間も級友たちはぺちゃくちゃとおしゃべりをしている。
「ハンコってことは、昨日みたいにチェックあるのかな」
「まじかよ、オレ真っ白! ちょっと写させて」
「えー、やだよ」
 あれ、と思った。ノートと同じサイズで紺の表紙のしおりが、ない。
「今日のことなのに覚えてないの?」
「写したのバレたら怒られるよ」
 リュックの中には、ペンケース、ハンドタオル、くちゃくちゃになった帽子とパーカー、班員が分けてくれたお菓子を入れた缶、地図、水筒、昨日見学した公的施設の入場証が数枚……。
「バレるかなあ?」
 なくした? 落とした? 置き忘れた? 日が暮れ始める頃、最後にみんなで写真を撮ったときは手に持っていたはずだ。丸めて筒にして握りしめていたんだ、間違いない。先生に言って代わりをもらって、発表は班のみんなに任せて、それでどうにかするしかないか、と、思ったそのときだった。
「だって係りの先生って、ファイアル先生じゃない」
 ソファから立ち上がった班長が、列の前方を指さした。その動作にではなく、言葉に、サランは激しく反応した。
「そ、その話マジ?」
「なにそんなに驚いて。ほらあれ、あんたんちのパパでしょ」
 言われて階段の方を見やれば、名簿とおぼしきリストを手にきびきびと生徒をさばいている長身が、探すまでもなく目に入る。チェックを済ませた生徒のなかには、目を保養して足取りの軽い女子や、その倍くらいの、厳しいご指摘を賜ったらしきぶーたれた顔が散見された。それでもみんな、その手には紺色の冊子をしっかり持っている。それさえなかった場合、なんと言われるか。ほかの教師だったら先ほどの素直に白状案でどうにかなるが、秘塔で一二を争う容赦のなさを思ってサランはぞっとした。
「どうしたんだ? サランひっでー顔色」
「オレ、しおりなくした……」
「はあ!?」
「えー? どこで?」
 班員たちの声に、サランはどこか呆然と首を横に振る。
「わかんねえよ……けど、どっか帰り道……」
 通ってきた町の道を思い返しながら、ほとんど無意識にリュックを下ろしていた。パーカーを引っ張り出して着る。きっと外は冷え始めた頃だ。
「ちょっと、どうするつもり?」
「荷物見てて。オレ、探してくる!」
 級友たちが止める間もなく、サランは駆けだした。動き始めた生徒の列をちょこまかと逆走し、入り口に立つ教師の目を盗んで外へ飛び出す。
 ホテルの前の通りに出ると、残り火のような夕焼けが右半身をかっと照らした。タイル敷きの道を渡って長く伸びる影の方へひとブロック行き、すぐの角を曲がる。日差しが遮られ、周囲は一気に暗くなった。足下の感触も踏み固められた土に変わる。ここまでの道に、それらしき落とし物はない
「えーと、えーと、こっちか」
 きょろきょろ辺りを見回しながら、サランはさらに深い夜へと歩きだした。

 迷子になるのに10分もかからなかった。思えばサランは班行動の間、先陣を切る女子にちょっかいをかけながら後ろを歩いていただけだし、昨夜ホテルで一度開いたきりの地図さえ置いてきてしまっている。
「ここ、どこだよ……」
 振り返った道が昼間通った場所なのかもわからない。日中と夜では町の姿が違いすぎた。そしてなにより、
「人気なさすぎだろ」
 太陽の光がすっかりなくなった頃から、ぽつぽつと残っていた道行く人の姿がなくなっていた。この辺りは入り組んだ商店街らしく、通りに並ぶ建物からも明かりは消えている。街灯などは、それこそホテルの前のような大きな通りにしかない。頼りになるのは月と、どこに入り口があるのかも分からない飲み屋らしき店の2階の小さな窓からたまに落ちてくる光ぐらいだ。
 暗い。
 ふいに夜闇を強く意識して、サランは身震いした。その、闇深い視界の端、薄い月明かりのなかに――人影。
「あっ」
 小さな影は遠くにいるためだと思った。けれど影は、サランがとっさに漏らした声に弾かれたように駆けだしてしまう。
「待って!」
 考えるより先に体が動いていた。ダッシュをかけて逃げる背を追う。すぐに角を曲がられたが、そのときにはもう至近に迫っていた。相手の立っていた場所は意外と近かったのだ。ということは影の小ささは――
「捕まえたっ!」
 角からほんの数歩のところで、サランは相手の手首を掴んだ。ちょっと乱暴すぎた気もするが、このチャンスを逃しては他に道を聞けるような機会はないかもしれない。その必死さが指に強くこもっていた。
 相手はぎょっとしたように振り返って
「なんで……!」
 そう口走る。女の子のものではないけれど高い声だった。ほんのわずかな光を集めて、見開かれた目が輝く。暗くて色までは分からないが、その位置はサランの視線より低い。
「……子供?」
「おまえも子供だろ」
 棘のある口調で言い返してくる相手は、サランとそう年の変わらない少年だった。しかしその視線は年不相応に鋭く、失敬な物言いにも食ってかかれない圧がある。
 そうやって気圧された一瞬、少年は切るような動きでサランの手から腕を引っこ抜き、最小限の動きでターンして路地の奥へと逃げ出した。
「待てよ!」
 反射的に声を荒らげて煽られたように駆け出す。少年はより暗い路地へ飛び込み、サランは急ブレーキでその角を曲がる。両脇の建物が迫ってくるように狭く、その上ゴミを溜めるバケツや仕入れ品らしき木箱で塞がれかかっている道だ。少年の姿はない。が、ここに入っていったのは確かだ。油断せず速度を緩めて踏み込み、一歩ごと慎重に様子を窺う。
 大きなバケツに差し掛かったとき、濃淡などほとんどない影の中に、なにかがいるような気がした。直感に導かれて足を止める。
「おーい?」
 声をかけた途端だった。のぞき込もうとしたバケツの裏からチッと舌打ちが聞こえたかと思うと、細い脚が突き出てきてサランの足下をすくった。油断をしていたつもりはない。それでも無駄のない動きに抗いきれず、手と膝を突く。少年はその間にバケツの裏を飛び出して、ごちゃごちゃした道を軽やかに走り抜けていく。サランも負けじと飛び起きて、手も膝もはたかずただひたすら、これだけは学年一を誇る脚力で猛追する。
 やがて入り組んだ路地は二人を袋小路に呼び込んだ。少年は当然のように、その辺のものを足がかりに木の塀を越えようとする。薄々それを予感していたサランは、ためらわず跳躍して少年の襟首をひっつかんだ。
「うぐ」
 という声がして、きちんとかかっていなかった指が塀の縁を離れる。
 積んであったのは空箱ばかりだったらしい。二人ぶつかりあって落下した先で、箱の山はけたたましい音を立てて崩落した。
「あいててて」
「つ……」
 双方打ちつけた箇所を押さえて顔をしかめる。夜が再び静けさを取り戻した頃、どこからかくぐもった声がした。
「なんだ? 今の音」
 路地の脇の建物からだった。サランの隣でしりもちをついた少年が身を硬くするのが気配で分かる。建物の中では内容の分からない会話が少しあり、最後にドアの近くでしゃべったのか、
「見てくるわ」
 そんな言葉がはっきり聞こえた。瞬間、少年がサランの腕を掴んだ。
「来い!」
 静かな、しかし強い口調で言われて、引きずられるようについていくしかない。追いかけっこをしていた時と変わらぬ速さで、たぶんゴミ捨て場であろう、大きな蓋つきの囲いの中に押し込められ、すぐに隣に滑り込んだ少年が蓋を閉じる。
 向かいの建物でドアが軋みつつ開いたのはそれと同時だった。
「うわー、なんだありゃ」
「どうしたどうした」
「がらくたの山が崩れてるよ。野犬がケンカでもしてたのかね」
「あっちにはうちの物は置いてないから大丈夫だよ」
「そうか。お隣さんは明日の片づけが大変だ」
 木の割れ目をくぐって室内の光と声がしばらく届き、ドアが閉まる。辺りが静寂と暗闇を取り戻し、サランは知らずに詰めていた息をふっと吐き出した。助かった、のかどうかよく分からない。箱を散らかしたのはまあ悪かったが、ここまでして隠れなくてはいけないほどのことではないように思う。ここ臭いし。
 出よう、と訴える前に、少年が蓋を取って立ち上がった。囲いを出ると相変わらず夜は暗いが、月の明かりが確かに辺りに降り注いでいた。その中で、少年がサランの目を見て問う。
「……なんだおまえ」
 出会い頭ならまだしも、こんな箱に一緒に隠れてから聞くことか、とサランはあきれた。ぽけっとしていると続けて
「名前は? どこから来た? 何者なんだ?」
 と詰問される。あんまり素直に答えてやりたい言い方ではなかったが、厳しい視線に圧し負けた。ただし、名前はフルネームでは言ってやらない。精霊の子であることは、特によその世界ではみだりに言い触らさないようにと、昔から口酸っぱく言われていた。
「サラン。魔界から、秘塔の研修旅行で来たんだよ。忘れ物探しに来て迷子になっちゃって……」
「秘塔から? なのにこんな時間にこんなとこへ、ひとりで? つーか、その目――」
 訝しむ態度を隠さず問いを重ねる少年が、ふと言葉の途中でくちを開けたまま一時停止した。自分で言ったなにごとかに引っかかったらしい。一秒ほど経って、ポケットに手を突っ込み金属質のなにか――時計だろうか――を確認すると、サランを丸ごと無視して囲いを飛び越え、足場の木箱が崩れたままの塀へジャンプで取り付き、身体能力だけでよじ登っていく。
「は!? ちょ、待てよー!」
 訳の分からないやりとりを最後に置いていかれてはなるものかと、サランもすかさず追いかける。
 しかし今度の追いかけっこはそう長くはなかった。少年は塀の向こうの敷地を横切ると垣根の薄いところをくぐり抜け、その先のごく細いT字路を少し進んで道の脇の急な外付け階段を上がり、ボロい金属ドアを開けて中へ滑り込んだ。もちろんサランはその背に迫らんばかりの勢いで後に続く。閉められかけた扉にはすんでのところで足を突っ込んだ。
 ひどく抵抗されることを予想してしっかと足を踏ん張り、ドア縁に手をかける。が、
「くそ、静かにしろ。入れよ」
 意外にも少年はそっと扉を開いてくれた。その声音にはありありと不満が見て取れたが、ここで「なんで?」とでも聞こうものなら、気が変わって階段のてっぺんから放り出されるかもしれない。大人しく部屋の中へ入る。少年は素早くドアを閉め、複数の鍵をかけにかかる。
「あの」
「絶対に騒ぐなよ」
「オレ、」
「絶対にだ」
 深々と釘を刺され、サランは仕方なく黙った。室内は壁に設置された照明陣で思ったよりも明るく、広さは教室の半分くらい。真ん中より少し奥寄りにドア二枚程度の幅の衝立がある。家具はそれ以外、なにひとつないように見える。左の壁にドアサイズのカーテンがかかっていて、トイレと書いた紙がテープで貼ってあった。出入り口は入ってきたドアのみで、鍵は上下に二つ、のぞき窓はない。
 施錠を終えた少年が振り返る。初めてまともにその姿を見て、サランは驚嘆した。
「うわ……」
 耳にかかる髪は焦げ茶色、眼光鋭い瞳はもっと深い。背はサランよりすこし低いが、すらりとした手足はサランより長いかもしれないぐらいだ。丸首の長袖シャツと大きすぎて裾を折ったパンツは襟も袖もくたびれ、肘や膝が擦り切れて野暮ったい。
 けれどそれを補って余りあるほど、彼はきれいな顔をしていた。目鼻立ちは華やかかつ端正、輪郭の滑らかさは陶器のようで、機嫌悪そうに引き結ばれた唇はすこやかな血の色を映している。なかでも印象的なのはやはり目元だ。くっきりとした二重瞼に長いまつげ、ちょっぴり吊り目なだけなのに、濃い茶の視線は銃口のように相手を圧する強さを持っている。顔のつくりは絶対的に子供のものなのに、その目が彼をおとならしく見せているのだ。たぶんそれは、彼のなかにこもった強い感情のためであり、そして彼がきれいであるがゆえでもあった。美人ほど怒ると怖い。年上の幼馴染みが不機嫌なとき、クラスの女子の数倍は怖いことを、サランはぼんやり思い出す。
 美人。そう、美人なのだ。けっして女の子のような顔ではないが――それは凛々しすぎるほどの表情のせいかもしれないが――ひかりのもとで見る彼は、まごうことなき美少年というやつだった。
 しかしサランが思わずこぼしたのは
「すっげー……」
 そんなちゃちな言葉。言われた少年はそれを一切無視して
「おまえそこに座れ」
 カーペットもなにもない部屋の中央の床を指さす。サランは靴を脱がない部屋の地べたには座りたくなかったが、衝立を越えた少年がその裏に向かってあぐらをかいたのを見て、まあいいかという気持ちになった。床のど真ん中にできるだけどっしりと腰を下ろしてやる。
「なあ、ここって」
「ぜってーこっち見んな」
 衝立の向こうのなにかを腕で庇うようにして、少年がいままででいちばんきつい威嚇をする。ちょっと話しかけただけなのに。頬を膨らますサランはそっちのけ、少年は衝立の裏に身を乗り出してごそごそとなにかをして、身を引いたかと思うと、
「名前呼ぶなよ」
 すこし急いだ様子でそう言った。相手はサランではない。焦げ茶の瞳はサランにも注意を配っているが、確実に衝立の向こうに誰かを見ていた。衝立の裏から、誰かの声がそれに応じる。
「了解了解。じゃあ俺は社長な」
 それを聞いてサランにも察しがついた。衝立に隠されているのは通信鏡だ。答えたのは大人の男性の、低く、どこか楽しげな声だった。
「で、そっちは二丁目?」
「五丁目。いいだろ、方角は違うけど距離はそう変わらない」
「ああ、いい判断だ。それでなんだ? 非常事態発生か?」
「へんなのに見つかった。北通りの掲示板のあたりで、秘塔生の子供だ。道に迷ったって言ってる」
「秘塔? いくつぐらい?」
 姿の見えない男の問いに、少年がサランを振り返る。置いてけぼりだったサランは慌てて姿勢を正した。
「おまえいくつ?」
「じゅ、じゅうさん」
 答えを聞いた少年は通信鏡に報告しようとするが、男の声の方が早い。
「お! お前より年上じゃん」
「余計なこと言うなよ!」
 同い年ぐらいかと思ったが、年下だったとは。驚くサランとは違い、少年は年齢関係自体に興味はないらしい。
「そんなことよりこいつ変なんだよ。ちょっと寄って」
 話し相手を指でちょいと呼んで、自らも鏡にくちもとを寄せる。聞き取れないひそひそ話が十数秒あって、
「な、変だろ。社長、なんか知らない? 自分ではサランって名乗ってたけど」
 失礼極まる報告の仕方に、さすがのサランもカチンときた。
「変ってなんだよ! 自分ではって、オレはほんとのほんとにサランって名前だよ!」
「バカ、来んな!」
 鏡に直接話しかけようとするサランを少年が押し退ける。鏡からはやっぱり楽しそうな声で
「サランくん、か。こいつは俺の……まあ弟子とか部下とかそういうやつでね。大事な仕事を任せてあるんだ。責任感のあるやつだから、計画が狂うのをひどく嫌がる」
 少年は立て膝に腕と頬を乗せて鏡から目をそらし、代わりにサランを睨みつける。その態度は一見社長の言い分に不満を表明しているようだったが、どこかそうではないようにも見えた。少年と比べると棘のない、しかしどこか裏のありそうな社長は、その態度を咎めることはない。謎は深まるばかりだ。
「……なんつーか、お前こそ何者だよ」
 正面から見据えてくる焦げ茶の瞳を、引き気味ながらも向かえ討つ。少年はちらと鏡に視線をやって、数秒すると、ふ、と息を吐いた。ここまでもそうだったが、本当に、少年らしからぬ仕草だった。その末に、彼は名乗る。
「サラン、11歳。仕事は、使い走りだ」
「はあ!?」
「教えられるのはこれだけだ」
「そうじゃなくて! いや、そうだけど!」
 真顔で告げられた内容は、とても本当とは思えなかった。さっき、サランに返事をする前、少年は社長となんらかの意志疎通を図っていたのだ。けれどただの冗談でもないらしく、鏡からは
「いやー偶然偶然。名前が一緒で年も近い! 運命的!」
 やたら力強く、否定を拒むような声でふざけたことを言われる。
「てかそうだ、年下かよ? な、なにがお前も子供だろ、だよー!」
 過去の発言を引っ張り出して絡むサランを、自称サランは完全無視、社長の映る鏡に真剣な顔を向ける。
「で、だ。今晩どうすんの? もう今日しかチャンスねーのに、これ?」
 ぴっと親指で示されて、サランはこれ呼ばわりされたことに気づいた。むっとして反論しようとするが、鏡の声の方が一拍早い。
「連れてけ」
「はっ?」
 自称サランの少年が立てていない方の膝を床について身を乗り出す。サランはあっけに取られて勢いを失う。
「な、に考えてんだよ社長! こんな荷物持ってってなんかあったら――」
「落ち着け。冷静に考えろ。俺たちに議論の時間はない。受け入れろ、これも経験だ。なにかの役に立てろ」
 立て続けに、冷たいくらいはっきりと下される命令。サランには高圧的だった少年は、それを聞いて口をつぐむと姿勢を正し、驚くほど素直に答えた。
「分かった」
 えー、とサランは内心で声を上げる。お前それでいいのかよ、オレには問答無用のくせに根性なしかよ、ていうかオレはどこに連れていかれるんだよ。いろいろな感情が胸を渦巻く。
 そんなこと気にもとめず、社長は顔を見せないまま朗らかに呼びかける。
「おいサランくん、そんなことだから今夜はこいつの仕事について行ってくれ。そんなに時間はかからないし、済んだら道の分かりそうなところまで送らせるから」
「あ、はあ、どうも……?」
「それと、どっちもサランじゃ不便だろう。こいついまの仕事場ではサーラちゃんて呼ばれてるから、サーラでいいぜ」
「あー、はあ、なるほど」
 あだ名の意味はすぐ分かった。顔がきれいで可愛いから――別に女子みたいな顔でもないし、サランには可愛いとか思う余裕はないが、大人からすればそうなんだろう――女の子の名前でからかわれているのだ。しかしサーラちゃん呼ばわりされた本人は意外にもけろっとしていて
「いいけど、ちゃんはやめろよ。きもい」
 と言うぐらいだ。慣れているのか、見目に自信があるからなのか、それとも……たぶんこれが正解だろう、サランというのは本名じゃないから、いじくられても気にならない。だってサーラと社長は、ふたり自身もその関係性も、ちらちらと見えている範囲だけでもう普通じゃない。
 すごいところに紛れ込んでしまった、とおののくサランはそっちのけ、サーラは社長と最終段階の詰めらしき会談に入る。
「基本は元のプランでいいよな? 出発こっちだから迎えを二丁目のほうにしといて。時間はこいつを置いてくとこによるけど、そんな急がないから早すぎない程度で」
「またか。お前もっと早く帰って来いよ」
「待たれんの危なくてやだ」
「ふむ、気持ちは分かる。じゃ、いつもの感じで」
「ん。いってきます」
「いってこい! やってこい!」
 ぷつ、とそこで通信は切れた。びっくりするほど唐突だった。ぼけっとしているサランの前にサーラが立ち上がり、上から人差し指を突きつけてくる。
「てことで、おまえを今夜の仕事に連れていく。指示通りに動け。絶対に邪魔すんじゃねーぞ」
「なんだよその言い方……っておい!」
 不平を言うサランのわきをすり抜け、サーラはトイレの張り紙があるカーテンの裏に半身を突っ込んだ。すぐに戻ってきた彼の手にはキャップとカメラ。
「来いよ」
 ぞんざいに顎をあげる仕草で呼ばれる。腹が立ったが、こういうのにいちいち反応していてはきりがない。おとなしく近寄ると、カメラのストラップを首にかけられ、キャップを深く被らされた。
「なにすんだよ」
「帽子あげんな。目元それで隠しとけ」
「目?」
「わかんねーならなおさら隠せ。あと上着閉めて」
 視界が悪くてイヤだなと思いつつ、指示通り鍔は下ろしたまま、パーカーのファスナーを上げる。半分くらいのところで制止がかかって
「リュックサック代わりぐらいにはなってくれよ」
 と、上着の中にカメラを仕込まれた。いよいよお仕事とやらが怪しい。残りのファスナーも閉めるとカメラはちょうどポケットの裏に来た。そのままだと不自然だが、ポッケに手を突っ込むとなにかあるようには見えない。
「移動中はいいけど、おれが言ったらポケットに手え入れて絶対出すなよ」
「はあい」
 こいつ、絶対が多いなあ。そんなことを思いながら素直な返事。こうなったらどこまででも連れられていってやろうじゃないか。
 片方ずつぶらぶらと足を振って気合いを入れる。サーラはそれを思案顔で見て、なにを考えているのかと思いきや
「リュックサックだから、リクな」
「は?」
「おれもサランでおまえもサランとか怪しいから。名前、教えたり呼んだりする場面があったらおまえはリクで通せ」
「はあー? なんでだよ、お前ぜってーサランじゃねーじゃん、オレのほうがサランじゃん!」
「おれもサランだし。でもサーラって言われてて、おまえもサランなのにリク。これで平等、以上。近道で行くぜ」
「あっおい!」
 サーラはそこで会話を断ち切ると、トイレカーテンの裏へと滑り込む。サランも慌ててあとに続いた。部屋の明かりはそのままだ。
 カーテンの向こうは暗く、本当にトイレがあって、足下には中身のごちゃついた箱があった。そして奥の壁に、彼らの身長の半分ほどの窓が設置されている。
 もしや、と思ったがその通り、サーラは窓を開けるとトイレのタンクを足がかりに窓枠から身を乗り出した。
「ここ、二階じゃね?」
「向かいの屋上とおんなしくらいなんだよ。見失わずについて来いよ」
 そう言うと、サーラはひらりと窓から身を躍らせて、狭い路地を飛び越え、隣の屋上にしゃがんで着地した。
「まじかよお」
 サランは顔をひきつらせる。しかしサーラは待ってくれない。一度振り返って、くい、と指でサランを呼ぶと、屋上の物干しをぐるりと回って見えなくなる。ためらっている時間はなかった。
「いよし、行くぞ……!」
 トイレをよじのぼって、窓枠をしっかりつかみ、踏ん張りを利かせて――跳ぶ。
「っ!!」
 自慢の脚力が応えてくれた。両足はしっかりと屋上に着き、膝にしびれを上らせる。振り返ると窓は開けっ放しだが、サーラも行ってしまったしまあいいか、と彼が消えた方向へと駆け出す。
 その行く手から、いきなりサーラが戻ってきた。
「おわ! な、なんだよ」
「でけー声出すな。窓閉めんの」
 見れば手には、物干しから下ろされていたのか、長い木の棒が握られている。サーラはそれを伸ばして窓を閉め、サランを伴って塔屋の裏へ回った。物干し棒をたぶん元あった場所に返して、
「こっちだ」
 今度はぴったり隣あった建物へ、鍵のかかっていない窓を開けて侵入する。なかはほとんど真っ暗で、サランはサーラのかすかな気配を必死に追いかけた。月明かりの入る渡り廊下を含め、まあまあの時間、そのなかを歩く。二回に分けて階段を降り、やがてふたりは外に出た。目の前には、小窓からほのかに光を漏らす建物が一軒。こもった人声が聞こえてくる。
「ここだ。帽子上がってる、下げて。手はポケットから出すな。あと基本しゃべんな」
「わかったよ」
「なんかあってもいちいち驚くなよ」
「へいへい」
 キャップを深く被り直し、顔も気持ち伏せて、両手をポケットの中へ。それをしっかり確認してからサーラはドアへ向かう。サーラの右手は、よく見れば小指に指輪みたいに傷テープを巻いてあった。その手がドアを、強く二度叩く。
 しん、と建物のなかが静まった。サランはごくりとつばを飲み込む。次の瞬間、木のドアがぎいと開いて
「おう小僧、また来たのか」
 野太い男の声が、機嫌良さそうにそう言った。
 サーラのつんけんした態度と迎えの声がマッチせず、サランはひとり戸惑う。帽子の鍔が邪魔して男の顔や室内の様子はよく見えない。
「また来てやったぜー。な、じいさんどこ?」
 さりげなくサランの裾を引っ張りつつ、サーラは驚くほど楽しそうな、高く軽やかで、子供らしい期待と好奇心に満ちた声を上げた。サランはさっきの生返事もどこへやら、あんぐりくちを開けてしまって慌てて閉じる。迎えの男はそれには気づかなかったようで、ふたりが室内に入るのを黙って許した。
 室内は外観と同じ石壁が露わになっていて、天井と床にだけ板が貼ってあった。間口は狭く、奥行きがかなりある。照明は、点々と並ぶ円形のテーブルに置かれたランプのみで、部屋のすべては見通せない。バーカウンターらしきものが奥に見えるのと、着席した大人たちがグラスや料理の皿を前にしていることから、飲食店だろうかとサランは予想した。
「あ、そうだ」
 ふいにサーラがサランの前を飛び退いた。ぱっと体の前がひらけて、何人かの視線にさらされ、サランは身を硬くする。
「こいつ、おれの友達。リクって言うんだ。じいさんの好きそうなもん持ってるから連れてきた」
 サーラとは顔見知りなのか、迎えに出た男と、近くのテーブルの二人ほどが
「お前、友達いたのか」
「孫でもないのに、ほんとジジっ子だなあ」
「サーラちゃん彼女はいねーの?」
「早いだろまだ。お前10歳で彼女いたのかよ」
 勝手なことを言う大人たちに、サーラは
「ほっとけよ。それよりさ、じいさんどこ? おれ約束あるんだけど」
 テーブルに顔を寄せて、両親の話に混ざろうとする子供のような仕草で尋ねる。
「そうなのか? じゃあこれやるから、部屋で待ってろよ。じき来るだろ」
 迎えの男はサーラに鍵を投げ渡し、カウンターのほうへ行ってしまった。すでに誰も、リクことサランには興味をなくしている。
 サランはしっかりと顎を引いて、歩きだしたサーラの背中に続いた。サーラは勝手知ったる様子でずかずかと店の中を進み、途中でかけられた「サーラちゃーん」という野次にも拗ねたような「うっせー」の一言とあっかんべーで返す。奥の壁に設えられた重厚な木の扉の前で、彼は立ち止まった。
「なに、ここ」
 顔を近づけて声を潜めると、サーラは唇の端で軽く笑って無言で鍵を開けた。扉をすかして先に手だけを入れ、手探りで照明陣をつける。自分の部屋へ帰るような自然さで、サーラはドアの内へと入った。サランも遅れないように滑り込む。
 ドアはぴったりと空気を閉じこめるように閉まった。瞬間、サーラが無邪気な子供の表情を消し、高い声なりに低く、不敵な響きで宣言する。
「こっからは速攻だ」
 きょとんとしつつ、サランは部屋を見回す。丸い形の部屋だった。書斎というのだろうか、壁いっぱいに本棚が立ち並び、窓の下に厳めしい装飾の入った木のテーブルと椅子が置かれている。床のカーペットは魔法陣を織り込まれて分厚い。どう見てもお金持ちの部屋だ。秘塔にもこんな場所はない。
 思わず見とれるサランをサーラが小突く。
「おい、ぼさっとしてんな。これ持って、机に上って窓から外に出ろ」
 手渡されたのは荒い布のかばんだった。ほんのり温かい。服の中に隠していたのだろう。サーラは「質問は受け付けない」とばかりに背を向け、本棚を梯子のように上っていく。なにか聞いても追い立てられるだけで答えてもらえないのは明白だった。
 言われたとおり、高そうな机に靴のまま、ためらいを押し殺して上り、外開きの窓を開ける。少し苦しいが、乗り越えられない高さではない。大きさは、大人がぎりぎりひとり通れるくらいだ。サランたちなら余裕で通れる。頭から落っこちるのはごめんなので、慎重に上半身を外へ出し、途中で仰向けになって、手がかりになるものを探す。窓のすぐ隣に、細い路地を照らす街灯が突きだしていた。その首をつかみ、体重を少しずつ預けながら脚を引き出す。膝まで出てきたところで窓枠にも手をかけ、ふたつの支えを駆使して窓枠にぶら下がった。
「いよいしょっ」
 体を振って、建物から離れるように着地。完璧だった。ふう、と満足して息をついたところに
「受け止めろよ」
 そんな声と
「へ? おわっ!」
 ばさばさばさ、と本やファイルが降ってきた。慌てて両手を出し、なんとか体の上に受け止める。窓から顔を出したサーラは
「おせーんだよ。それ、袋入れといて」
 それだけ言ってまた引っ込む。
 ぽかんとしていると、
「次行くぞ」
 再び紙類を落とされ、サランはそれをかき集めて布かばんに詰め込んだ。
「あと一回だ」
 サーラはまた部屋に戻り、そのへんでサランにも事態が飲み込めた。あそこはサーラがじいさんと呼んでいた何者かの部屋で、サーラは部屋を物色している。つまりは窃盗だ。
 両親に顔向けできない、と背筋を震わせていると、第三弾の物色品の雨が降ってきた。道にまき散らすわけにもいかず、それもキャッチして袋に詰める。三回分をまとめると結構な量になった。
「あいつ、これどうすんのかな……」
「おい!」
 かばんをのぞき込んでいたサランは、頭上から降ってきた鋭い声に顔を上げた。
「さ、サーラ!?」
 見上げた窓からはサーラが腰の辺りまで出てきていて、その腹に彼を中へ引き戻そうとする手がかかっていた。両腕を外壁につっぱって、サーラはその手から逃れようと身をよじる。手を離されたら窓からすっぽ抜けてそのまま落ちてくるのではないかと、サランははらはらして仕方なかった。が、当のサーラは声と表情にいらだちを込め、サランに叱咤と指示を飛ばす。
「カメラ出せ! 首から外せ! かばんは斜めにかけとけ、走れるようにな!」
「そっ、それどころじゃ」
「黙れ!」
 ひええええ、と心の声はくちからも出た。とにかく言われた通り手を動かすが、目はサーラから離せない。落ちてきたら受け止めるか? 受け止められるのか? じりじりと土をこすって足が迷う。その間にもサーラは服をつかむ指を爪を突き立てて引き剥がし、大きく全身を揺すって――相手の顔か体を蹴っているのだろう――少しずつ窓を這い出てくる。さらに、くそ、とか離せ、とか、この期に及んで強気の暴言を吐きかけてもいる。
 かばんを斜めがけにし、カメラのストラップを腕に提げたサランは、ふと窓の下の小さな看板に目を留めた。大した厚みはないが、手をかけられる高さにはある。深く考えることはできなかった。とっさに駆け寄ってジャンプし、よじ登れないまでも窓の方へ――
「どけバカ!」
「おおうわっ!?」
 真下からはよく分からなかったが、サーラはほとんど窓を脱出していたのだろう。手を伸ばしたサーラと正面から視線がぶつかって、大慌てで下がろうとしたら足がもつれて盛大に尻餅をついた。狭い路地だ、背中がすぐ向かいの壁にぶつかる。あまりのことに、サーラのほうはどうやったのか見てもいなかった。ただ、知らぬ間にまっすぐ足から着地をして、サランの手からカメラをさらっていった。
 かしゃり、とシャッターの下りる音がして、同時にフラッシュが瞬く。まぶしさに目を細めるサランをサーラが乱暴に引っ張り起こす。
「しっかりしろ、立て」
 返事もできずにもたもた立ち上がっている間に、サーラは抜け出してきた窓に叫んでいた。
「楽しかったぜじーさん! じゃーなっ」
 その声はすがすがしい笑みを含んで高らかで、その横顔は明るく誇らしげで、とてもきれいだった。そして彼は
「これで最後だ。走れ!」
 サランをそう追い立てて、暗い夜道を迷いなく走り出す。なにもかも、とても年下の少年とは思えない。
 道は平らに整っているが細く入り組んで光に乏しい。斜め前を行くサーラは頭の中に地図でも持っているのか、右だ左だと前もって案内を告げる。サランはペースを変えないで走り続けられるぎりぎりのスピードで、あっちへこっちへ鋭く角を曲がる。
 しばらくして二人は足を止めた。本当に月明かりしかない十字路だった。暗がりにぼんやりと、相対する少年の姿が浮かぶ。こんなに暗いのに、サランにはもう彼の表情までもが見えた。焦げ茶の瞳が少ない光をいっぱいに集めて、磨き上げた石のように、研ぎ澄ませた刃物のようにきらめく。
 呼吸の音が何拍かあったのち、サーラが平静な声で言った。
「もういい」
 たった一夜の冒険が、始まらない友情が、まだ続いていく企みが、サランにとっての終わりを迎える。
「もういい。かばん寄越せ」
 サランはまだ息が整わない。弾む呼吸を一息ずつ落ち着かせながら、かばんを下ろしてサーラの手に渡す。サーラはもう一方の手でキャップを取り、前後を逆にかぶった。
 あまりに簡単だった。しっかりとかばんを斜め掛けし、カメラを首に提げたサーラは、右手を真横に持ち上げ、闇を射るように告げる。
「まっすぐ行け。大戦記念公園の前に出る」
 そしてそのまま薄い肩が反転し――サランは暗い中にほの白く見えたかばんの紐をつかんだ。腹立たしくもサーラはつんのめることもせず、鬱陶しそうに振り返る。
「なに?」
 盗みに入った先のジジイには笑顔を見せていたのに、お荷物ではあったが共犯に手を染めてやったサランにはこの態度だ。分からない。サランにはサーラが分からない。だからすこしだけ、ほんのちょっとでいいから分かりたかった。
「名前、ほんとはなんて言うんだ? 最後ならいいだろ」
「…………」
 じい、と意志の強い視線がサランを見つめる。なにかを考えている。なにを考えているのかまでは分からないけれど。
「……お、おい、なんとか言えよ。おまえ時間ないんじゃねーの」
 沈黙に耐えかねてそう促すと、サーラはひとつまばたきをした。
「それもそうだな」
 サランの手を軽く払って一歩下がる。そして
「名前は言えないけど、見せてやるよ」
 目元に手をかざす。夜闇を取り除くようにその手が振るわれて――サランは息をのんだ。
「おま、え……?」
 真っ暗な路地に、ふたつの輝き。サランには隠せと言った、明るく強いオレンジ色の瞳で、彼はにんまりと笑ってみせた。数秒の内に、サーラはまたその彩りをどこかへ仕舞い込んでしまう。
 その意味するところはサランには明白で、しかしこの状況と合わせて考えるとまったくもって意味不明で、
「え? は? ちょ、おま、それ」
「じゃーなっ! 道間違えんなよ!」
 混乱に足止めされるサランを置き去りに、自称サランは暗闇のなかへ消えていった。あとには薄い月の光だけが残る。
 あっという間だった。もう姿も形も見えない。足音なんて最初からほとんど聞こえない。走って乱れた息もいまは静かで、引いていく汗が冷たい。瞼の裏に色濃い光だけが焼き付いていた。
 サランは、示された道を、まっすぐな道を歩き始めた。

 路地はやがて街灯の並ぶ舗道に変わり、最後には貨物車も走る大通りに出た。みごとなまでに、サランたちの泊まるホテルの前だった。サーラは、大戦記念公園に出ると言っていたのに。
「ん? でも、ここ」
 魔法陣を内蔵して光るホテルの看板には、大戦記念ホテル、の文字。宿泊場所の名前なんて気にしていなかったが、かつてここはそういう場所だったらしい。なんだ、それならホテルの前と言ってくれればよかったのに。
 道を渡って階段に足をかけ、サランはふと思い出した。
「あ、あーっ、しおり……!」
 不思議で貴重な体験はしてきたが、本来の目的は果たされていない。しかも顔を上げた先には
「早く上がってこい。話は俺の部屋で聞く」
「ひえ……」
 チョーク避けの白衣の代わりに夜風を防ぐジャケットを羽織った、秘塔では容赦のなさで右に出る者はないと囁かれる教師。冥界クラス、天界クラスの担当で、今回の冥界研修の責任者でもある。つまりはサランの父親、ゴッド・ファイアルであった。
 怖じ気付くサランを彼と同じオレンジ色の瞳がきつく見下ろす。それだけで絶対に逆らえない気分になる。……この感覚、覚えがある。そんなことを思っているうちに、怖い怖い先生は上着の裾を翻してホテルに戻っていってしまう。サランはとぼとぼとその背中を追った。

 時刻は10時を回っていた。とっくに消灯を過ぎている。秘塔生しか泊まっていないフロアの端っこまで、二人は黙って歩く。
 ゴッドの部屋へ入り、ドアが閉まった瞬間、サランは勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
 実をいうと、秘塔で父に直接怒られるのはこれが初めてだった。選択している科目のために、クラスや授業を担当されたことはない。ゆえにどう謝れば反省を認められるのかも分からない。家ではだいたい、母にこっぴどく怒られたあとにしか父は出てこないのだ。
 戸口で頭を下げたまま動かないサラン越し、ゴッドは鍵とチェーンをかけた。
「奥来い。座れ」
 顔を上げきれないまま、サランは部屋の奥へと進んだ。窓際の椅子を顎で示され、おとなしく座る。ゴッドは対面のベッドに腰掛けた。
「どこで何してた?」
 糾弾する声ではなかったが、圧がなく、熱もなく、切れ味だけは鋭い声だった。
「しおりを探しに……えっと、自主研修の間になくして、たぶんどっかで落としたと思うんだけど、ですけど」
「…………」
「えー、それで、しおりのチェックがあるって聞いて、ないと怒られると思って、途中までは持ってたん、です。それで帰りに通ってきたどっかに落としたのかもと思って探しに……」
「探しに?」
「行って、ました」
「どこへ?」
「どこ、って、とりあえず来た道を戻ってみて……でも途中で道が分からなくなって、暗くなってきて、道を聞けるような人もいなくて」
「うん」
「えっと、えっと、あ、それで、大きそうな道のほう、とりあえず戻るっていうか。そう、すごい迷ったけど人のいるとこまで戻って、道教えてもらって、帰ってきました」
「そうか」
 開いた膝に肘を突いて、ゴッドは簡潔に言う。
「無事でよかった」
 本心からの言葉なのはよく分かった。けれど、サランにほっとするいとまは与えられない。
「で、何を反省してるんだ?」
 決して責める口調ではないが、自然と背筋が緊張する。すぐに答えられずにいると、
「さっき謝ってただろ? あれは何に対しての謝罪だったんだ?」
 と促される。
「それは、その、心配をかけたこと……あと、迷惑をかけたこと……」
「誰に?」
「班のみんなとか、たぶん、他の人たちもご飯遅くなったりとかしたから、たぶん。それから……先生みんなにも」
 目の前の一人だけを指して先生、とは呼べなかった。親子だろうがなんだろうが、秘塔では教師と生徒、というのはわきまえている。しかし、一対一の場面で先生なんて呼ぶのは趣味の悪いごっこ遊びみたいで受け入れがたい。
 そんなサランの内心は、きっとお見通しなのだろう。それを考慮してくれたかどうかは定かでないが、ゴッドはそこでサランに語らせるのはやめにした。
「だいたい分かってるみたいだな。じゃあ答え合わせだ。まず、お前の班がしおりをチェックする番になって、お前がいないことが分かった。班長に聞いたらお前の言うとおり、しおりをなくして探しに行った、と言っていた。班員が荷物を任されていたから預かった。通ってきた帰り道を聞いて、他の先生に近くを探しに行ってもらった。生徒は全員夕食会場に入れた。生徒には夕食は予定通りとらせて、探しに出た先生が戻ってから教員は食事をした。俺は監督を他の先生に任せて、フロントに、お前が帰ってきたら誰か教員に伝えてほしいと頼んで、お前を捜しに行った。一通り歩いて、見つからなかったから帰ってきた。フロントに聞いてもまだ戻らないと言うから、ホテルの前で待っていた。ああ、お前の荷物は班の部屋に入れてくれてるそうだ」
 以上、と締められて、サランは言葉をなくした。ここまで具体的に迷惑をかけた相手と迷惑の内容、程度を教えられて、単純な謝罪の言葉を繰り返す気にはなれなかった。恐怖に似て非なるしんどい気持ちが腹の底に沈んでいく。
 それらは全部表情に出ていたようで、数割穏やかさを加えた声が尋ねた。
「たいへんなことをした、と思ってるだろ。まあ大変だったな。これ、どうすればよかったと思う?」
「どうって」
「どうしておけばこうならなかった?」
「しおりを、ちゃんとリュックに入れてたら……」
「ああまあな。でももっとあとでも防げたはずだ」
「誰か先生に言ってから探しに……ううん、しおりをなくしたってちゃんと言って、探しに行ってもいいか聞くとか、新しいしおりをもらったほうがいいか、確認しておけばよかった……」
 自分で言っておいて、そんな簡単なことができなかったことが不思議でふがいなく、しょんぼりと肩が落ちる。絶対泣きたくはないけど、泣き出したい気持ちだった。見知らぬ夜の町を冒険した高揚はとっくに効果切れ、逆にその疲れもあって、床に落ちた視線が上げられない。
 その様子ですべて分かったのだろう、ゴッドはひとつ息をついて、
「それだけ分かってれば、もう同じことにはならないな。いちおう決まりだから秘塔に戻ったら反省文だけど、俺はもう許した。班員には別途、ちゃんと謝っとけよ。部屋行っていいぞ」
 だが、解放されてもすぐに出ていける気分ではない。一時は研修のことなどすっかり忘れていたばかりに、自分のかけた心配や迷惑をつまびらかにされるのは、頭ごなしに怒鳴られる数倍きつかった。
「はい。ほんとにごめんなさい」
 許すと宣言されたあとでは自己満足と知りつつも、もう一度謝罪する。ぎこちなく椅子を立とうとしたサランを、先に立ったゴッドが「ああそうだ」と軽く引き留めた。
「これ、見つからなかったんだろ」
 ベッドサイドの小机から取り上げられたのは、紺色の
「しおり、オレの? あれ、でもこれ」
 背中も角もボロボロになって、ちょっと泥っぽい汚れをまとった、冥界研修たびのしおり。手に取ってめくると、ちゃんとサラン・ファイアルと書いてある。しかしその傷みようは数時間野外に放置されただけとは考えがたい。
「11時か。勤務時間終了だな」
 ゴッドが――おそらくわざと――聞こえるようにそう言って、ぼすんとベッドに座る。やけに黄ばんだページをめくって目を白黒させていたサランは、しばしその意図に思いを巡らせて、
「えっ、あっ! 父さんこれどうしたの!?」
「あんまり大声出すなよ、もう消灯してんだから。あー腹へった」
「お、オレも~、じゃなくて! どこにあったの? なんでこんなボロくなってんの?」
「静かにしろよ。地下の飲み屋だったらまだやってるけど、行くか?」
「行く! なあ~、なんで? これどこで?」
 歩きだしたゴッドを、サランは質問責めにしながら追いかける。今夜はこんなのばっかりだ。なんでなんでと疑問をまき散らして、誰かの背中を追いかけて。
 戸口でゴッドが振り返った。
「廊下で騒ぐなよ。お前と分かれたすぐあとに、落ちてるのを見つけたんだよ、リク」
「!」
 驚きのあまり、くちを開いたきりなにも言えない。思わず強くつかんだ手首は、あのとき以上になめらかに、自然な動きでするりと抜かれた。その手が目元にかざされて、ふっと下りると瞳はどこにでもある焦げ茶に変わる。再び長い指が振るわれて、ぱちんとみごとなウインクを決めたのは、薄暗いホテルの廊下にも鮮やかな、くっきりとしたオレンジ色のひかり。
「マジで!?」
「大声出すな!」
 思いっきり叫んでしまって、ぴしゃりとくちを塞がれた。その手の下で「ふぁい」と答え、離れた手を追うようにぱたぱたと廊下を行く。
 地下でご飯を食べながら、どれほどとんでもなく面白い話ができるのだろう。どんな驚きの真実が聞けるのだろう。一歩ごと胸を高鳴らせながら、サランは今夜だけの共犯者を急かした。


2016/03/17

長い! おつかれさまでした
ちょっとチャラい普通の少年とプロのビジネスショタがわいわいしてるのを書くのはとても楽しかったです
楽しすぎてやめられなかった……
サランのイメージBGMは嵐の「ココロチラリ」