=恋縹=

夏の名前

「カエデちゃんに振られた」
 だいたい夏祭りに誘われたときから分かっていたんだ。
 夏休みに入ってすぐ近所の神社で行われる納涼祭に清水と行ったのは小六が最後。以降三年間、清水はカエデちゃんと二人で祭りを楽しんできた、らしい。俺は中学の間一度も行っていないけど、いつも翌朝の補習でその話を聞かされてきた。
 だから、祭りの屋台を三つ回って軽く腹がふくれたところで唐突に出てきた言葉に、俺は振り返りもしなかった。
 境内に並ぶ屋台の端に、このへんでは珍しくクレープ屋がある。チョコバナナの店を出してたおばちゃんが去年で廃業したと聞いたときはガッカリしたけど、クレープ屋もチョコバナナクレープをやってないだろうか。
 屋台へ吸い寄せられる俺を、清水の声が追いかけてくる。
「なあ聞いてる? 青田あー」
「きーてるきーてる。お前なんかやったの?」
 校区の中学に上がった春、進学と同時に越してきたカエデちゃんは黒板の前で「よろしくおねがいしまあす」と言った、その瞬間に清水のハートを射貫いた、らしい。この話はあの日からずっと、日に二回は聞かされている。
 それももう終わりかあ、といちおう感慨深くなってみる。だめだ、やっぱ心底どうでもいい。
「なんもやってねーよ! ていうか、やったのは端居センパイだっつの」
「端居さん?」
 振り返る。清水は人混みの中、ゴミの入ったレジ袋を握りしめて、唇をへの字に曲げていた。その口元がぱっとほどけて、
「やべ、その話ここじゃ無理。どっか行こうぜ」
 ゴミを持ってない方の手が俺の肩を掴む。俺たちはそのまま屋台の間を抜けて神社の脇の道路へ出た。
 この界隈には住宅と古い商店しかない。辺りは境内に比べれば静かだけれど、まったくひとがいない訳ではない。込み入ったことは余計に話しづらかった。
 そのうえ、向こうの角から同じクラスの女子たちがやってくるのが見えた。
「話って明日学校じゃダメか?」
 こんなとこでじっくり話せるはずがない。補習前の教室のほうがよっぽどマシだ。
 けれど清水は意外な抵抗をみせ、
「ダメだ。学校は絶対ダメ。お前以外に聞かせらんねえよ」
 再び俺の肩を押して、女子たちと逆の方向へ歩き始める。仕方なく俺と清水は祭りを離れて、なんとなく俺のアパートの方へ向かった。

 結局腰を落ち着けたのはいつもの場所だった。
 俺んちのアパートは、カエデちゃんちのマンションの裏に当たる。チャリ置き場が屋根なしと屋根ありの二つあって、屋根なしの方は俺と一階のじいさんしか置いていない。そこが俺たちのいつもの場所だった。デート終わりにカエデちゃんをマンションの下まで送り届けた清水の、クソみたいなノロケ話を幾度となく聞いた場所だ。
「で? 端居さんがなにしたって?」
 もともと駐車場だった名残のタイヤ止めの左に腰掛け、右の清水に問う。あれだけ話したがっていたくせに、清水はしばらくもったいぶった。
 そして観念したように言う。
「……カエデちゃん、端居センパイとやったんだって」
「…………」
 清水は泣きそうな顔で俺を見た。俺はなにも言わなかった。
「は、端居センパイは、俺と違って上手いんだって。女の子の扱い方が分かってるんだって。そういう、スマートでちゃんとした人じゃないと、男として見れないって」
 カエデちゃんらしい言い草だなあ、と思ったけど、俺はつまんない感想の代わりにひとつ聞いてみる。
「お前もやったってこと?」
 清水は無言で頷いたあと、
「一回だけ。去年の俺の誕生日に」
 と、俺の感想よりずっとつまんないことを答えた。
 うつむいた横顔は暗かった。鼻先にだけ街灯の光が当たって濡れたみたいに光っていた。
 あの日みたいだな、と思う。小六の夏、このアパートで俺は清水にオナニーを教えた。扇風機の低いモーター音と、戸惑う清水の声と、まだ高い俺の笑い声が脳裏に満ちる。教えてやるよ、と鼻高々に言った声は、他人のもののように鮮明に思い出せた。
 太陽は高く、日差しは窓のそばへ強烈に突き刺さっていた。俺の手で精通を迎えた清水は、たっぷりと驚いたあと、途方に暮れたように目をそらした。恨みがましいようなその横顔が、今夜の清水と重なっていく。
 バチッ、と、頭上でなにかが弾ける音がした。誘蛾灯が虫を殺した音だった。
 端居さん。遠くマンションの八階を見上げる。左から二つ目の部屋が彼の家だ。いまも明かりがついている。彼が祭りに来たことはない。あの日もそうだった。
 俺たちの祭りは午後六時頃に始まり、歩き疲れて最後にくじを二本ずつ引いたらおしまいだった。混雑がうざったくて、花火は見ずに解散した。花火が始まる頃にはアパートへ戻って、くじ引きの戦利品を妹にお披露目して、川の向こうから響く音だけを聞いていた。清水はその頃まだ帰り道を歩いていて、ふたつみっつは見えたらしいけど。あの夏以外はずっとそうだった。
 端居さんは、俺の通っていたそろばん教室に、先生のお手伝いとして顔を出していた。いずれ俺も行くことになる中学へ転校してきたという彼に、俺は地元民の先輩として祭りのことを教えてやった。そうしたら端居さんが言ったのだ。
「僕のうちからなら、きっと花火がよく見えるよ」
 クーラーも効いてて涼しいよ、と言ったときの優しい微笑みを疑うなど、当時の俺にはできなかった。
 くじ引きをして、清水と別れて、ハズレのガム二つを握りしめた俺は、彼のマンションを訪ねた。格好のつかない土産を妹に見せるより、花火の話でも自慢したほうが気分がいいだろうと思ったのだ。
 目論見は外れて花火は見られなかった。俺は端居さんに誰にも言えないことを教わり、誰にも言えないことを抱えきれず、その一部を清水に晒す羽目になった。
 バチッ、と、また虫が死ぬ。破れた羽が目の前に落ちてくる。
「練習したほうがいいんじゃねーの?」
 くちから出てきた低い声と、頭の中で鳴り響いていた声の落差に愕然とする。
「なんの?」
 清水はまだ傷ついたような声音で聞いた。可哀想に。
「セックスだよ。セックスの練習」
「はあ? んなもんどうやってすんだよ」
「俺とすればいいじゃん」
「……青田?」
 ないないない、と続けようとするのを追い越して言葉を重ねる。
「前にオナニー教えてやったろ。先輩直伝だって。ほんとはあんときセックスも習ったけどお前には黙ってたの。清水にはまだムリだろーなーって。でもいまの清水には必要みたいだからさ」
 立ち上がって、ほら、と手を差しだしてやると、清水は驚くほど素直にその手を取った。手を繋いだまま歩いて、アパートの二階の、電気のついていない部屋を開ける。
 あー、バカだなあ。お前ほんとに俺にセックス教わる気なのか。俺の習ったセックスは、お前のだいじな彼女を寝取った男のセックスなんだぞ。わかってんのかなあ、全然わかってねーんだろうなあ。
 ドアを閉めるとき振り返ると、端居さんの部屋が見えた。明るい窓に分厚いカーテンが引かれる瞬間。あの部屋でこれから起こることを俺は知っている。清水もそれを知ることになる。
 今年は誰も花火を見ないのか、と思いながら、俺は玄関の鍵を掛けた。

2020/10/07