泣いているのか笑っているのかわからなかった。春永は眉を寄せて目を細めて、ほそく開いたくちびるから熱い息を吐いた。あつい。足の先だけがつめたい。
俺の手が、春永の短く切りすぎた前髪を払う。湿っている。俺の手も、春永のひたいも、髪も。春永の、薄いくちびるからは絶えず熱い呼気が溢れている。けれど裸の肩は掴むとひやりと手のひらをさました。
俺は汗で湿った肩に額を押し当てて、腹の底からわいてくる衝動のままに春永を抱いた。
気持ちよかった。胸の奥がどんどん冷えていく。それとともにへその裏のあたりから莫大な熱が噴きあがって、俺の手脚に信じられない力を与えた。俺は春永の腿を、指の跡が残るほど強く掴んでいた。春永は抵抗することもなく、笑っているのか泣いているのか、眉尻を下げて俺に揺さぶられていた。
夢だった。
真冬の温度が末梢から俺を侵した。フローリングと同じ硬さになってしまった指をゆっくり体に引き寄せて、薄暗い視野の真ん中に手をつく。ぐっ、とちからを込めると、どこか体の背面から、ぺき、という音がした。
起き上がりざまに脚全体が床と擦れる。アパートの一階に相応しい、地面から直接這い上がってくる冷たさが皮膚に染みた。
そこで俺は自分が裸であることに気づいた。
「あ?」
くちを開くと、口唇から耳の下まで流れて乾いていた涎で頬の引き攣れる感覚があった。手の甲でその不快感を拭う。
外がまだ暗いらしく、薄いカーテンを越えてくる光はほとんどなくて、室内はまっくらに近かった。日の出の遅い季節だから、夜中かどうかはわからない。
その暗がりに俺は目を凝らす。冷蔵庫、電子レンジ、流し台。目の前にあるのは小規模な台所だ。手前にはほとんど折り畳まれたことのない折り畳みテーブルがあり、その上に缶ビールがいくつも立ったり寝転んだりしていた。足を向けていた方向にはトイレのドアと、すこし奥に玄関のドアがある。
暗かろうがなんだろうが間違えようもない。高校に上がってから入り浸り続けている、春永の下宿だ。
それが証拠に、振り返った先の万年床には部屋の主である友人がケツ丸出しで突っ伏していた。ぐぐう、と、薄い布団でくぐもったいびきが聞こえる。酔うと暑くなってしまう俺とは違って、寒いという感覚を残していたらしく、上半身は昨夕出かけたときのセーターを着ていた。
俺が比較的老け顔なのを利用して、三年になってからは店でも飲むようになっていた。昨日もそれで行きつけの飲み屋で酒のついでに夕飯を食って、飲み足りなくて酒屋でビールを買い込んでみたが、ここへ帰ったら先輩にもらったやっすいワインがあったことを思い出して……ああ、思い出してきた。
あの店からの帰りで俺は過去二回上着を失くしている。靴下は四回。飲むと暑くて脱ぎ捨ててしまうのだ。
酔いが覚めた体がようやく寒さを訴えてくる。テーブルの下に丸まっているのがどうやら俺のコートらしい。いや、まずパンツはどこだ。ズボンは。シャツは。
探すか、と起き上がった拍子に、さっき頬に感じたような乾いた粘液による引き攣れを太腿の内側に感じた。連動するようにケツの穴の痛みがじんわりと起きてくる。
……安物のワインを二人であけた。彼女が欲しいと俺は喚いた。先月までいたくせにと春永がなじった。春永には恋人がいたことがなかった。好きなやつがいるらしいことは知っていたが、勝率ゼロであることはその数倍有名だった。
どうてい、と酒に乱れた呂律でからかうと、春永は、童貞じゃない、と言い返してきた。俺はもちろんそんな虚勢を信じるわけもなく、どーてい、ふうぞくはのーかんだぞ、と連呼して春永を泣かせた。
そうだ。春永は泣いていたのだった。
酔っ払ってなにがなんだか分からなくなっている俺を、春永は泣きながら抱いた。もうこのへんにくると記憶が曖昧だ。忘れてしまったというより記録されていないといった方が正しい。きっとその頃にはアルコールでカメラとマイクがおかしくなっていたんだ。メモリは正常に、動作している。
俺の脳みそは春永の涙を覚えている。好きな女を物にしたことはないのに、女を抱いたことだけはあるのだと言って泣いた、春永の絶望を覚えている。
横たわる紺のセーターを見下ろす。起こすべきか、迷った。好きな女も抱けないまま男の友人を抱いてしまったなんて知ったら、こいつはもっと傷つくんじゃないかと思うと、そのきっかけをこの手でもたらすのが恐ろしかった。
背中がもぞりと動く。俺が手を出すまでもなく春永は目覚め掛けている。
ふと思う。あの涙を頬に受けて、あの絶望をまさしく絶望だと理解するだけの機能を残していて、俺は本当に酔っていたのか。ぐらりと視界が傾いだ気がしてかぶりを振る。
パンツだ、パンツを穿こう。
コートをひっくり返すと下から俺の服のほとんどが出てきた。パンツに脚を通し、肌着を被ってトレーナーを着る。氷のような足に水のような靴下を履かせた。
このまま身支度を整えて消えてしまおう。衣服が揃ってくるとそんな発想が浮かぶ。目覚めた春永と会ってしまったら、俺はこいつの第二の絶望になってしまう。
けれどその策には大きな問題があった。ズボンがない。
テーブルの向こうやら自分の寝ていた場所やら、暗がりのなかを探し回っているうちに、そのときはひっそりと訪れた。
「うげつ」
かすれた声。
「雨月」
ささやくような、声。
「なあ雨月」
夜通し俺を呼んでいた声が再びその名を呼んでいる。
振り返ってやると、春永は寝そべったまま体を転がして泣き腫らした目をこちらに向けていた。その腹に敷けているのが俺のズボンだった。
春永は、笑っていた。俺が回避しようとしていた絶望は影も形もなく、涙の跡のついた頬を柔らかくして、穏やかに、甘く笑んでいた。その表情にはどこか見覚えがあった。
「雨月……はは、夢みたいだ」
はっとする。夢。そうか。
夢の中の春永は泣いてなどいなかった。こいつは笑っていたんだ。俺に抱かれて、心から幸せそうに笑っていた。
「なあ雨月、」
春永の続ける言葉が三パターンほど思いついた。どれもこれも絶望だった。さっきまで自分が春永の絶望になりはしないかと心配していたのが嘘のように、いまは春永が俺の絶望になろうとしていた。
「は、春永」
無様に上擦った声だったが、春永は言葉を切って待った。夢見心地のようなその目が俺を追い立てる。続きを言ってみろよと促してくる。
唾を飲んだ。ほとんどなかった。おかしな曲げ方をした関節が痛かった。
「俺たち、ともだち……だよなあ」
声は乾いてしわがれた響きだったが、春永にはしっかりと聞こえていて、彼はうなずく。
「これからも友達でいてくれよ」
俺にはそれが、否定にも肯定にも聞こえなかった。ああ、と応じたつもりだったが、今度こそ喉はべったりと貼りついてまるで春永が俺の返事を拒んでいるかのようだった。