=恋縹=

美坂と蘇芳、そしてナル

 焦る手で引き開けた戸の先には、まだ美坂がいた。
「美坂」
「起きたか」
 靴紐を緩める手を止めないまま、美坂は乾いた声で言う。僕は適当に着てきたシャツの裾を握りしめて、開け放たれた玄関の外を見る。
 朝日は白々しく眩しい。狭い庭の手入れされていない草むらから、ほんのりと湿気がたつ。緩い風に乗ってそのにおいが室内に入り込み、足元に冷たくまとわっている。
「帰るの?」
「何言ってんだ。行くんだよ」
 へっ、と美坂が不敵に笑う。僕と同じ方角をねめつけて、しかし、その目は僕には見えないものを見ているようだった。
 僕の沈黙をどう取ったのか、美坂がついと振り返った。
「何だよ、蘇芳。『行かないでー』ってか? お前、ヤった後なんか女みたいだよな」
「どこが」
「立ち方とかさあ。似合わねえよ、そういうの」
 昨夜は散々人を女の代わりにしておいて、なんて言い草だ。顔をしかめると、あっさり目をそらされた。ひどい奴だ。ますます険しくなる僕の表情はもう見る気もないらしく、美坂は框から立ち上がり、靴のつま先をとんとんとやる。
「よし。出発だ」
 バッグを斜めにかけて、僕に向き直る。ぎらぎら、世の中のすべてにケンカを売るみたいに、その目が光る。
「悪いが、俺のいた跡は全部片付けておいてくれ。それから明日、24時。それまでに連絡がなかったら死んだと思ってくれ」
「はいはい。それ真に受けてたら、お前もう5回は死んでるんだけど」
「じゃあそれ以降に連絡があったら生き返ったとでも思っておけ。とにかく、しばらくここには寄らないから」
「了解」
 額の前でぴっと指を振ると、美坂も同じ仕草で返した。そして、何の未練もなく朝もやの中に駆けていく。
 玄関を閉めないのは嫌がらせか、と思いながら、僕はしばらく、美坂を飲み込んだ静かな街を眺めていた。

「ハァイ」
 玄関を閉め、鍵もかけて、勝手口を開けに行くと、そんな声と胡散臭い笑顔に迎えられた。僕らよりいくつか年上のはずの政府関係者――胸の役人証には崎谷と書いてあるが、街の人はみんな『ナル』と呼ぶ。
「美坂、来てた?」
 ナルはジャケット姿には似合わない下駄を脱ぎながら聞く。
「さっき出てったとこ」
「ありゃー。おれってば間が悪ーい」
 言いつつナルは、ずかずかと下宿に上り込み、僕を通り越して台所から廊下へ。慌てて後を追うが、時すでに遅し。追いついた時には、ナルはもう僕の部屋の中で、
「ちょっ、何してんですか!?」
 ゴミ箱をあさっていた。
 飛びついてとめようとしても、ナルは一向気に留めない。
「あれー? うっそ、ねーの? まじかー、うっわあ」
 そんなことを言いながらゴミ箱の中身を底まで見て
「中出し?」
「っ!?」
 思わず後ずさった。図星か、とナルが低く呟く。はだしの下で、情事の跡が残った布団がもつれる。
 ナルが何を探しているのか分かった。そして、それを探すということは――
「美坂を、追えるんですか?」
 ゴミ箱の前にヒザをついたまま、ナルが軽薄に笑う。その手が僕の、腹の辺りを指差した。
「そうさ。この街の中なら、そしてソレが24時間以内のなら」
「僕に結果を教えてくれますか」
「教えるだけなら構わないよ」
 そう言ってナルは、両手を背中に回した。かしゃん、と音がする。再び前に戻った手には、試験管が一本と、それが差し込める穴の開いた機械が一つ。
 試験官を僕に差し出し、ナルは機械の角で役人証をこつこつ叩く。
「役人けんげーん。採取してきて」
 僕は、はいともいいえとも答えず、試験管を受け取った。

2013/12/17