=二度目の夏=

「この3905年は君にとっては二度目なんだね」
 城の屋上に上がるのは初めてだった。いちばん高い尖塔を囲むテラス状の空間に、柵と呼べるものはなにもなく、空との境界には足首ほどの高さの段差だけが組まれている。タイヤどめぐらいの高さだろうか、と、長いこと見ていない物の名前を、アクアはふと思い浮かべた。
 空也は屋上へ出るなりそこに腰掛けて、閉じた扉の前で立ち止まったアクアにささやかな意地悪を言う。
「人生何回分の時間を過ごしてきたの? 学校出てたよね。いま最終学歴ってなんになるんだっけ。恋人も何人かいたよね。君のほんとうの気持ちがどこにあったかは知らないけど。僕が知ってるのってそのうちどのくらいなんだろう。浮気は? した? された? 仕事もいろいろ替えてきたんでしょ。生涯年収とかすごいことになってるんじゃないの? でも無職の時もあったよね。そういえば家がない時期ってなかった? 魔界以外にも住んでたね。遠くだから、僕は詳しいことは知らないけど。友達もあちこちで作ったんじゃない? いちばんの友達って誰だった?」
 答えられる問いなどひとつもなかった。人生とは本来どの程度の時間を言うのか、本にできるほどあった卒業証書をどこへやったのか、あの優しかったひとたちやひどかったひとたちが恋人だったのか友人だったのか、あれは仕事だったのか趣味だったのかあるいは手慰みだったのか、ほんとうに帰るべき場所はどこなのか。アクアにはわからない。だから曖昧に、
「ああ、うん、そうかも」
 そんな返事しかできない。空也はそれを、ふっ、と鼻で笑った。
 尖塔の影がアクアを包んでいる。降り注ぐひかりのなかに空也は微笑んでいる。アクアの背にはめちゃくちゃにかき混ぜてあやふやにしてしまわないと耐えきれないほどの、無数の過去が重くのしかかっている。空也の息からは、封印という限りなく眠りに近い覚醒のあいだ延々と取りこぼしてきた、永遠に取り返せない時間がこぼれ落ちている。
 ふたりの時間は絶え間なく遠ざかり続けている。
 今日の外出許可証にサインをしながら、アクアは城のなかでも古株になってきた封印の間の管理人から、近頃空也の眠りが深く長くなり、目覚めるごとにいまはいつだと尋ねるようになっている、という話を聞いた。
 この高さではまだうす寒い春の風が、アクアにも空也にも、ひとしく鋭く吹きつける。空也は乱された髪を耳にかけて、アクアへ手を伸ばす。
「おいでよ」
 あのころとなにも変わらない灰色の瞳が、奥底に欲深い性根を見せつけてアクアをいざなう。遠く昔に見慣れてしまったその露悪的な態度がアクアには悲しいほど懐かしく、けれどあまりにも長く見ていなかったためにほんとうに初めてその恐ろしさを目の当たりにするようにも思える。歩みははじめ躊躇いがちだった。つま先が影を出て、歩幅が気持ち広がって、最後は駆け寄るみたいだった。
 早くしないとだめだと思った。予感はみごとに当たっていた。
「くうや」
「あのさあ」
 引き留めようと、伸ばした腕を空也は力強く引き寄せ、つんのめるアクアを抱きしめた。重心がぐらりと揺れて塔の外へはみ出そうとする。アクアは空也が腰掛ける縁石のへりに指をかける。どこかふわふわと見える視界はそのまま地面だ。敷石が並ぶ城の前庭。いまは昼休みだ。動き回るひとかげはない。
 あのさあ、と同じ前置きを繰り返して、空也が耳元で尋ねる。
「グロウちゃんてどうなったの?」
「っ」
 足元にこめたちからが消えそうになって息をのむ。
「僕、聞いてないんだよね。ユールのことも。わかってるよ。ふたりとも、もういないんでしょ。それはさあ、まあ、考えたらわかるじゃん。わかるけど、言ってほしいもんじゃないの?」
 声はすこし震えて、やさしく湿って響いた。
「ルビィちゃんが、死んで、それはとっても悲しくて、僕も立ち直れないかと思うほどつらかった。けど、でも、あのとき君が、僕にそのことを教えなくちゃと思ってくれたこと、あとから聞いて、ほんとうにうれしかった。うれしかったんだよ」
 空也の物語は、まるで昨日のことのようだった。けれどアクアには、あざやかな色を必死に守ってきたのに薄れてしまう、はるか遠い昔話として響く。あのとき、空也に教えなければと思ったこと、言ったこと、それは覚えていると言えるのだろうか。何度も、そんな出来事があったのだと言い聞かせて、なんとか心にとどめていることを、覚えている、と。
「知ってるよ、封印ってそういうものだって。どんどんみんなに置いていかれて最後はひとりになるんだって。それでもよかった。でもずっと、君がいるから、君が思いだしたみたいに僕を起こして、何年、何十年の空白も嘘みたいに遊んでくれるから」
 すう、はあ、と、空也が天に向かって大きく息をする。アクアはひやりとした影の落ちる地面に、届くはずもない細い息をこぼす。
「いまの管理人、けっこういいやつでさ。気が利いて、僕がお願いする前に全部準備万端整えてくれてるような、有能なひとなんだよ。好きだよ。彼も、いままでの管理人も、みんな好きだ。でも、やっぱり僕、エメリアがいちばん、優しくもなかったし、堅物でめんどくさかったけど、でも好きだった。よく覚えてる。僕のこと、自分と似た境遇だと思ってたみたいで、へたくそなくせに気遣いしようとして……」
 アクアを抱き寄せた胸が膨らむ。耳元に叩きつけられた言葉に、手が、背筋が震える。
「もっとお見舞いに行きたかった! あいつが弱ってるときそばにいたかった! 僕たち友達だったよねって! 僕たちはちゃんと友達でっ、おまえは天涯孤独なんかじゃない、僕がいるって、言いたかった……! さいごに手を握ってやりたいって、実現できなくても、そう思ってる僕がいるってこと……誰か、誰か言ってくれたの? 言ってくれるひとが僕以外にいた……!?」
 首筋にぼたぼたと涙が落ちる。触れた瞬間は熱いしずくを、春風がひと撫でして冷ましていく。
 もう耐えられないんだ、と空也は言った。
「……3905年だね」
 さんぜんきゅうひゃくご。アクアがやり過ごしてきた時間のなかで、その意味はしずかにぼやけてしまっている。
「さんぜん、きゅうひゃくご……」
 呪文のように繰り返すアクアに、空也は泣き声で笑って返す。
「夏が来たら、もう一度君たちに、初めて会える気がするんだ」
 それは夢だ、と、喉の奥ですぐに言葉はかたちを持った。アクアはそれを苦しく飲み込む。
 3905年の夏は再び訪れる。世界が続く限り何度でも。今日ここから空也もろとも転げ落ちない限り、ふたりは何度だって3905年の夏に出会えるだろう。けれど、あの夏は二度とないのだ。アクアが甘い夢に誘われて期待したあの春は、3900年の春には訪れなかった。けれどアクアがいまだ初めての3900年をふりほどけないように、空也の心は3905年のあの夏に立っている。
「ルビィちゃんと出会って恋に落ちて、アクアくんと魔法陣の話をして、グロウちゃんと駆け引きして、ゴッドくんを怒らせて、ユールに無視されてもめげずに絡んで……そういう時間が、まだたくさん残ってるみたいな気がするよ。だって僕にはほんとにすこししかなかったんだ。まだ、ユールの笑った顔見てないし、ゴッドくんに秘塔の見学させてもらってないし、グロウちゃんに聞いてないことも教えてないこともあるんだ。僕は君たちのこと、ほんとうに好きだったんだよ……!」
 アクアを強く抱きしめて、空也が背をそらす。そのときはいよいよ近づき、アクアは指の腹に縁石の目地を食い込ませる。浮遊感すらある危ういバランス。風に目が乾いて痛い。空也はなにを見ているのだろう。地に広がる影の輪郭はくっきりとしていて、きっと空には雲ひとつない。満天の青。淡い熱をもって降り注ぐひかり。それを見上げて、アクアには湿って冷えた地面を見下ろさせて、空也はなにを思っているのか。
「ねえ、アクアくん」
 その呼びかけは誰かに似ていた。もう、正確には思い出すことのできない無数の声が、いくつも重なってアクアを呼ぶ。ねえ、アクア。ねえ、と。
「僕たちは、友達かなあ」
 ああ、と声が漏れていた。意味のない声だった。
「ねえアクアくん。君にはこれまでいろいろなひとがいたよね。家族だったり恋人だったり、友達や、仕事仲間や、敵や味方、先生、ただの知り合い、いっぱいいて、みんななくしてきた。僕には最初から君たちしかいないんだ。そしていまは、君しかいない」
 無力な声はもう声にもならず、息の音として絞り出される。
「君がいなくなったらおしまいにしようと思ってた。あの部屋でほかの囚人がしているみたいに、静かに眠って二度と起きてこないようにしようって。でも君は相変わらず、ときどき僕を起こしにくるんだ。たくさんなくしてきたのも嘘みたいに……僕が眠っていた時間も嘘みたいに……」
 もう無理なんだ、と、その一言だけがきちんと、アクアの耳にささやき込まれた言葉だった。あとは全部はるかな空に放たれて投げつけられてなにひとつ傷つけられないまま落ちてきた。
「無理だけど、君を置いていくことはできない。すべてのひとに置いていかれてひとりで残ってる君を、僕は置いていけないよ」
 まばらに雑草の生えた地面を見下ろす。距離感がわからなくなってくる。死ぬのだろうか。ここにきて初めて、アクアはそう思った。ひとが意外と簡単に死ぬことも、意外となかなか死なないことも、アクアは経験で知っていた。自分がどのくらいのことで、どのくらいの確率で死ぬのか。それはまだわからない。
 でもたぶん空也は死ぬだろう。この手段で死に損ねても、なんとしてでも死んでしまうのだろう。
「いやだ」
 ようやくそう言えたのは奇跡みたいだった。
「アクアくん」
「空也に死なれるのはいやだ。もうずっと、我慢できないと思ってた。友達に死なれるのはいやだ、おれだってもう無理だ!」
 縁石にしがみつく指を離して、空也の背を抱く。一気に屋上を飛び出しそうになる重心を、自分でもどうやっているのかわからないまま引き戻す。わからなくてもどうにかなると、経験で知っている。
 屋上にアクアだけが倒れこんだ。空也は立ち上がって、縁石に片足をかける。右手がポケットからなにかを抜き出して掲げる。
 ちいさなカード。ひかりが跳ね返って書き込まれているものは見えない。けれど知っている。あれは空也に唯一残された父親の形見を逃れられない劣化からすり抜けさせるために、アクアが何度も何度も書き直してきた魔法陣。かつてアクアたちにとってひたすら脅威であった、空也にとっては永遠の宝物。
 泣き濡れた灰色の瞳がぎらりとひかる。
「じゃあさあ、このやり方をやめてあげる代わりに、ちょうだいよ」
 その目は、引き留めてくれ、と訴えていた。それでも空也はひきつったように笑ってその陣をつきつけた。
 精霊を奪う陣、と彼は呼んだ。彼は精霊を求め続けていた。だからこそアクアたちと出会い、いまこうしてアクアを友達だと思い、アクアの前に立ちはだかっている。
 あげたいけどないよ、とは言えなかった。とっくの昔に自ら精霊を手放したことを、空也が知らないわけはない。あの陣に意味がなくなってしまったと、かつて空也はそのくちで、アクアの前で冗談ぽく嘆いて見せたのだ。
 意外と覚えているものだなと、場違いな思いが浮かんだ。
「……僕には、これしかないんだよ。君たちしかいなかったっていうのは、半分はそういうことだよ。ほんとうに好きだったけど、これも同じくらい僕には大切で特別だったんだ」
 なくした意味を取り返そうと、空也はそれを差し出す。変わらない。この欲深さが空也で、アクアは取っていい手といけない手を判別できずに迷うのだ。
 でも、もう迷ってはいられない。友達が死のうとしている。何度看取ってきたことか。何度見殺しにしてきたことか。あれはつらかった。あれも苦しかった。全部、全部、もう無理だと思っていたけれど何度でも起きた。これからだってきっと起きるし、絶対に苦しい。だがその予言といま選ぶ行動にはなんらの関係もない。
 アクアは空也の手から魔法陣を奪い取る。なるべく乱暴にやったのに、空也は肩をすくめるだけだ。
「ごめん。あとで書いてやるから」
 びり、びり、と、二度破いたところで震える手から風がすべてをさらっていった。空也はそれを目で追いつつ、疲れのにじんだため息をつく。
「どういうつもり?」
「空也に死なれたくない」
「それとこれと」
「関係ないよ。関係ないから、そんなもの出してくるなよ。おれは空也が引き留められたいと思ってるのと同じくらい、空也を引き留めたいと思ってる!」
 泣いているに違いなかった。声も体も芯まで震えていた。空也は乾いた笑いをこぼして、しゃがみこんで顔を覆った。それでも泣いてはいなくて、顔を上げるとアクアの服の裾を握って、どうしようもない表情で言う。
「ねえ、アクアくん」
 この声を聞いたことがある。もう無理だと叫びあって、それでもやっていこうと思っている相手に、ひどいことを言う声だ。
「君はずっとルサ・イルでいてくれるかい?」
 最後にその名で呼ばれたのはいつだったか、もう覚えていないけれど。
「うん」
 いまこの瞬間から、再びアクアはルサ・イルになろうと決める。ありとあらゆるものをなくして、最後にふたりの間に残った意味がそれなら、無限に近い時間を隔てて友達としてやっていける条件がそこにあるなら、アクアはただ受け入れる。
 あの空に届かず、あの影のなかへ力任せに叩きつけることもできなかった思いは、きっとこれからも光のなかに取りこぼされていく。取り返しのつくものはなにもない。引き留められたかった思いはどこかへ舞い落ちて意味をなくすし、引き留めたかった思いは大きな影のように貼りついて一生を苛むだろう。それでもいい。ひとつでも、いま、なくさなかったことだけがすべてだ。
 まぶしい陽のひかりを、まだ冷たい風を浴びながら、アクアは、これまで何度も約束し、一度も約束できなかった「ずっと」を思った。


2016/9/18
のこってるひとたち。