散歩というものにどのような意味があるのかよく分からない。
素直にそう言うと、前を歩く男はいつもと同じ平らな声色で、さらりと
「おれも分からない」
と答えた。
(言いだしっぺはあなたじゃないか)
ディオは森の下草を踏みつけて呆れる。
事の始まりは三十分ほど前。ディオはユールが家を出ようとしているところを見咎めた。行くところなんてないだろうにと不思議に思ったディオは、彼を追い駆け尋ねた。
「どこへ行くんだ」
「散歩だ」
「なら俺も行く」
そう言ってついてきたのは自分だ。だが「散歩をする」と言って森への小路を踏み出したのはユールだった。
(そもそも、こんなのが散歩なのか)
湿って滑る木の根をまたぎ、ディオは軽く眉を寄せた。とりあえず、思ったことは口に出す。
「ユール、これは本当に散歩なのか?」
「………」
「俺は、これはもっと、遠足とか……とにかく散歩ではないと思う」
息を切らしつつ、二歩先の背中に言う。相手には一切疲労が見えなくて、悔しい。
返事を待ったのは、五歩。足を止めたユールが振り返る。
「そうだな。……休むか」
そう言ってまた歩き出す。休むのではなかったのか、とユールの考え方に疑問を抱きつつ、ディオは帽子を取って歩く。帽子から足元へ垂れていた布は少し湿っていた。適当に丸めて抱えると、頭は涼しいが重みは増すような気がする。
それほど歩かないうちにユールが立ち止った。あるかないかの細い道は途切れ、森が開けている。その向こうに小川を見つけ、ディオは光の下へ誘い出された。いつものテンポでついて来るユールからも、制止の声はない。
ディオは透明な小川の水を両手にすくって、手の中の水面に口をつけた。頬や膝にしずくが散る。普段なら神経質に拭ってしまう冷たさも、今は心地よい。
そばにユールが座ったことが気配で分かる。膝を払って立ち上がり、同じ姿勢で隣りに座り込んでみる。脚を両腕に抱えて、三角座り。
「ユール」
首を傾けて名前を呼ぶ。返事はないが、目が合った。
「どうして散歩をしようと思ったんだ?」
「シーラが」
薄い唇が、一音一音はっきりと、風に溶けそうなほど真っ直ぐに、細く紡ぐ。川面に反射する光に触れた頬に、長い前髪がすらりと流れる。青い瞳が、す、と細められた。
(ああ……これだ)
喜怒哀楽、どんな言葉にもあてはまらない表情。笑っているようで、今にも泣きだしそうで、まったくの無感情のようで。けれどそこには、この上ない優しさに満ちた穏やかな心が映っているようで。
昔を想い起こすルサ・イルの、甘くて苦くて、温かくて冷たい懐かしみの表情とは、同じようでまったく違う。青い瞳はいつかどこかのはるか遠くではなく、今ここにいるディオを見ている。
(レンスも、せめてこうして、ちゃんと見てくれる人を好きならよかったのに)
そんな思いの中で、ディオは自分の質問を忘れていた。
「――散歩は」
不意に再開された返事に、ディオは現実に引き戻される。距離以上に、声は近く感じる。
「気分が良くなると言っていたから」
ぷつりと、今度こそ返答は終わった。肩におりてくる銀色の髪を払いつつ、ディオはまた問う。
「あなたに限って嫌なことがあったとも思えないが」
「昔は気分が良くなるというのが分からなかった。今なら、分かるかもしれないと思った」
今さら一直線につながる視線がむず痒くなって、長い睫毛を伏せる。
「それで、気分はいいのか?」
「今も分からない」
「……そうか」
「でも」
ほんの少し。ほんの少しだが、ディオがおどろくには事足りるくらい、声が強くなった。そらした目をまた、思わず持ち上げてしまう。
「でも、思い立つ、ということが分かった」
淡々と告げる声が、瞳が、心が、純粋な喜びと、遅すぎた後悔からのものであると、ディオには分かった。たぶんその事実は、泣くほど切なくて悲しくて、どうしようもないものだと、感じた。
けれどユールは、ただそう声にしただけで何も言えなくなっているディオの表情を
「何か、悪いことを言ったか」
本気で分かってない言葉で心配する。
ディオはそれにも、何も答えられなかった。