やれやれと首を振りながら、ルサ・イルが通信鏡から戻ってきた。交代があるだろうと待っていたレンスは、ただの鏡となった通信鏡の面を見やってあれ、と声を上げた。
「切ってきたんですか?」
「なんかいろいろしゃべられて、気がついたら切る流れになってた」
「賑やかな母ですみません……」
「ううん、それはいいんだよ。客商売だしね。ただ僕が……いや、あれは前の所長のせいかな」
言いつつ開けっ放しの箱の前に戻るルサ・イルに、ウィンが台所からあきれ声を飛ばす。
「単にあなたが人付き合いを選びすぎているだけでしょう」
「はいはい分かってますよ」
面倒そうに流したルサ・イルは、ちょっと顔を上げると右手でレンスを呼んだ。
「レンス、これやらない?」
「何ですか?」
「パズル」
カーペットの上にまいた山を陣書きの手が広げる。爪長いなあ、とレンスは関係ないことを考えながらその仕草を見つめる。
ジグソーパズル。レンスもよく知る子供のおもちゃだ。書店で扱っているため別に珍しくも感じないが、見慣れたものとは少し違う気がした。ルサ・イルがあぐらをかいた膝の向こうへやってしまった箱は、日に焼けてぼろぼろに黄ばんで、違和感の正体は何も読みとれない。
ルサ・イルの指が裏返ったピースたちをひとつひとつ、表に返していく。レンスもそれを手伝いながら、親指の先ほどに切り取られた絵をいくつか並べて全体像を思い描いてみる。
木々と思しき緑、空のような青と白、この赤色は建物だろうか、洋服かもしれない。そうやってピースを分けていると、
「あ。色で分ける?」
ルサ・イルの手が伸びてきてぱらりとピースを落とした。ふいに近づいた顔と手に、レンスは一瞬息を止める。その頭上から
「なんだ、それは」
落ち着いたディオの声が降ってきて、ルサ・イルがそちらに反応する。レンスは止めた息をこっそりと吐く。
「パズルだよ。ディオもやる? やったことないでしょ」
「初めて見た」
言いつつディオは、レンスの隣へ膝をついた。レンスは場所を空けるため右へ寄って、三角形にパズルを囲むかたちとなる。
「なんの絵だ? ユールは知っているか?」
ルサ・イルに聞いては絶対教えてもらえないと踏んだのだろう。ディオはソファの上へと聞いた。アサナギとユウナギに囲まれていたユールが静かに腰を上げ、すとん、と、なぜだかレンスとルサ・イルの間に収まる。レンスは思わずディオを振り返る。
「レンス、どうかしたか?」
「えっ、と……ディオがいいならいいんだけど」
場所変わろうか? とは言いたくてもこっそり言える距離ではない。ディオは分かりにくい表情ながらも少しだけきょとんとして、紫色の目をついとユールに向けた。
「何の絵だか分かるか?」
ピースは黙々と作業するルサ・イルによって、緑や茶色、青や白、それ以外とおおまかに分けられている。分量は緑と茶色がいちばん多いようだ。
「まだ分からない」
「ユールは想像力ないからなあ」
きっぱりとした答えに笑い声がかぶさる。ルサ・イルは子供のように笑んで、すい、すい、と四つのピースを山から抜き出した。
「じゃ、解いてみようか」
ルサ・イルが見つけた四つの角を中心に、縁の方からピースを並べていく。内側はいくつかかたまりを作ってみて、それをどうつなげるかを考える。ジグソーパズルのセオリー通りだ。ただしルサ・イルが完成形を見せてくれないため、パーツのおよその位置はまだ分からない。
いちばん速いのはディオだった。ひらめきが良いのか、とにかく素早くペアを見つけてくる。
「ジグソーパズルは『つくる』ものじゃないのか」
「パズルは『解く』だろう?」
答えを知っているはずのルサ・イルは、本気で取り組むつもりはないのか、役に立たない色分けを続けている。
それをユールが遠慮なくかき分け、ディオほどの速さではないが正確にピースをつなげていく。レンスはとにかく、それらしい柄を集めて片っ端から当ててみる作戦だ。
そうして口数を減らして作業していると、次第に絵の全容が見えてきた。どうやら森の中の一軒家らしい。家の部分はほとんどできたが、草木ばかり多くて残りを埋めるのはたいへんそうだ。それにしても
「きれいな絵ですね。まるで写真みたい」
「写真だよ」
ぱち、とルサ・イルが穴ぼこになっていた場所にピースを押し込んだ。家の下の部分がそれで完成する。ディオが空のかたまりをひっくり返して外枠と組み合わせた。
「写真なんですか? パズルなのに?」
「めずらしいでしょ。魔界には印刷技術ないから」
レンスにとって、ジグソーパズルの柄はイコール絵だった。魔界には、ということは、これは……。ディオの広げた空によってほとんど完成に近づいた風景を、レンスは初めて見るかのように見る。
「人間界のもの、なんですね」
「そ。まさかこんなのとってあるとは思わなかったよ。きれいでしょ?」
「これ、ルサ・イルさんたちがいたとこですか?」
植物も、家も、魔界に存在しえないものではない。けれど人間界の景色だと言われて見ると、どんどん異質に思えてくる。
レンスの知らない場所、行けないところ、実際に目にすることはありえないもの。そしてルサ・イル自身も戻ることのできない――
「違うよ」
答える声はなんの影もなく笑っていた。
「これは外国の……どこだったかな? 箱の方も印刷かすれちゃって読めないんだよね。とにかく行ったことない国」
こんなパズルがあること覚えてたら、最後に行っておけば良かったかなあ、なんて。ルサ・イルは全然本気に聞こえないふうに言いながら、少なくなった残りのピースを次々とはめこんでいく。ディオが今さらの大人げない参加にちょっと不服そうな顔をする。黙っている彼女の代わりに、レンスは
「ルサ・イルさん、正解が分かりやすくなってからなんて大人げないですよ」
と言ってやった。今日はなぜか言える気分だった。
ルサ・イルはレンスの言葉にぎくりと手をとめ、その隙にディオが膝前にあったピースをごっそり、ユールと分けあって
「あー」
そこからはあっという間。ひとつもやり直しなく、パズルが出来上がる。最後の一つは小さな花を、ユールがそっと草むらに置いた。
「できた」
ディオが満足げに背を伸ばす。
「面白かった。気に入った」
「ディオ、パズル得意なんじゃない? すごく速かった」
「得意?」
レンスが素直に褒めると、ディオはしばし首をひねって
「そうか、こちらはパズルが得意……そういうことなのかもしれない」
「そういうことだ」
曖昧な言い方を、ユールがめずらしく訂正した。
「では、こちらはパズルが得意だ」
ディオが言い直し、ユールはそれには反応しない。レンスには理解しがたいやり取りだが、本人たちには分かっているようなので追及はしなかった。
写真を正面から見るために、ルサ・イルが立ち上がってレンスの隣へと回る。身構えた肩のすぐそばに顔が寄せられ、レンスはまた息を詰めた。
「うん、きれいだ」
それだけ言って、すぐ離れていく。レンスはそこの空気から彼の気配が霧散するまで次の息を吸えない。その間、視線はずっと写真に落とされていた。
この場の誰も知らない、けれどいつかどこかにあった景色。見たことも行ったこともないそこは、それでもルサ・イルにとっては何かの拠り所であるのだろうか。こうして今、自らの手で再現したいほどに。
そうやって、いつものようにもんもんとし始めるレンスの前で
「あっ」
白い手が四本、目の前の風景をばらばらに割った。
「まだ見ていたかったか?」
ディオが慌てて解体の手をとめる。ユールも静かに手を引いた。
六つのいびつなかたまりになった写真を見下ろして、レンスは答えに迷った。ルサ・イルが見ていたかったのではないかと、そう思うと声が出ていた。けれど自分は、どちらかというと壊してしまいたかったのかもしれない。
互いに黙ってしまったレンスとディオの間に、軽い声が入り込む。
「これにしまってー」
差し出されたのは薄い紙袋。
「食品入れとくやつなんだけどね。箱に直接だと、やっぱ傷みそうでしょ」
ルサ・イルはためらいなくかたまりをさらに小さく、小さく、ひとつひとつのピースに戻して紙袋へと注ぐ。ユールも同じように木を、空を、家を割って、誰に向けたのか分かりにくい声で言う。
「またつくればいい」
「またやりたいの?」
ユールにしては積極的な物言いにルサ・イルが目を丸くし、ディオがそうだなと応じて分解に戻る。レンスもやっと、零れ落ちたピースに手を触れた。
最後にはめた小さな花を、いちばんに手にする。なんの花かは分からない。だけど特別な花だった。
外は嵐。パズルが全部片付いて、近づく夜を思い出す。